The Childhood

 

これはまだビルボが袋小路屋敷の主人であり、サムがまだ幼かった頃のお話です。

 バギンズの若旦那はとっつぁんの末の息子にやたらめっぽう甘かったと言います。現にフロドはサムが可愛らしくてしかたありませんでした。薄い光が好けると金色に見えるくるくるの捲毛に、大きくて茶色い目をきらきらさせ、ほんのり赤いほっぺたに、健康そうな桃色の唇、そして今よりはずっとやせて小さい(実はフロドは今のぽってりサムの方が好きなのですが)体で、サムは『だんなぁ』とフロドの事を呼んでいつもフロドの後を追いかけていました。フロドにとってサムは可愛い弟であり、息子であり、忠実な庭師(のたまご)でもありました。サムはフロドにないホビットらしい健康な体をすべて持っていました。フロドはそれが羨ましくもあり、愛らしくもありました。

 一方サムはこの12歳も年上のやさしくて賢く、ホビットにしてはきれいすぎるほど美しい瞳をした主人が大好きでした。とっつぁんにはじめてお山のお屋敷につれてきてもらった時からサムはこの主人のことがずっとずっと大好きでした。サムはフロドよりもまだ一回りも二回りも小さいころから、『おらがだんなをお守りするだ。』と心に決めていたのでした。サムがフロドを見る眼差しは、いつも憧れと、つたないながらも忠誠心にあふれていました。

 そんな小さなサムの役割は、若旦那を起こす事と、枕もとにほのかに香る香草を入れた水差しを持っておやすみなさいを言いに行く事でした。それ以外の時間は、ビルボに字を教えてもらったり、お話を聞いたり、とっつぁんに庭仕事を教わったりしてすごしていました。時にはフロドと一緒にホビット庄中を歩き回ったりしました。

今日も新しい朝日がホビット庄に顔を出してゆっくり昇ってきました。サムは早起きが好きでした。まだ誰も起きて来ない静かなホビット庄を見渡しながら一人でお山を登って行くのはとても楽しい事でした。聞こえるのは自分の足音(それもかすかなのですが)だけです。とっつぁんの作ったビルボの庭が朝の露に濡れてきらきらと輝いています。明けたばかりの空はまるで吸い込まれそうな、まるでフロドの瞳のような青をしています。それにこれから向かうところがフロドの若旦那のところとあればもうそれは素晴らしい事です。自然とサムの歩調は早くなり、いつも他のホビットたちが起き出すだいぶ前にフロドを起こしてしまうのでした。

 今日の空気はぴりりとするくらい澄んでいました。少し寒かったので、ほっぺがいつもより赤く染まっていました。そしてサムはお屋敷の門のところで少し身震いをしました。サムはいつものように、朝ごはん用の取れたて玉子とフロドにあげるための一輪のうすいサーモンピンクの花を持ってお屋敷の鍵をそおっと開けました。
「はいりますだよ。サム・ギャムジーですだ。」
お屋敷の中はまだ暗くて誰の起きている気配もありませんでしたがサムはいつものようにそう言いました。たまにビルボは早起きをして本を書いていたりするものですから。びっくりさせてはいけません。玉子を台所の籠に入れ、サムは花を持ったままフロドの部屋へ向かいました。サムはフロドの部屋が分かっていました。この穴中で一番居心地の良い、暖かい部屋です。
“コンコン”
サムは静かにフロドの部屋のドアをノックしました。しかし返事はありません。それもそのはずです。サムはノックの音などでフロドを起こす気はさらさらありませんでしたから。そしてサムはまたそおっとドアを開けて部屋に入りました。後ろ手でドアを閉めるとサムはフロドの方へ歩いていきました。そっと。足音をたてないように。

 フロドはまだ幸せそうな顔でぐっすり眠っていました。相変わらず真っ白なその肌はぼんやり差し込む朝の幼い光だけで黒の捲き毛に浮き上がるくらい綺麗でした。長いまつげがそっと伏せられており、あの青い目が隠されていました。サムは旦那の目が早く見たいといつも思うのでした。
「だんなぁ、だんなぁ。あさですだ。」
サムはほとんどささやくような声でそう言いました。小さな左手をフロドの胸元に置きもう片方の手でフロドの頬をそっとさわりました。
「きょうはいいおてんきでおひさまがきれいですだ。」
サムはフロドの顔をじっと見つめながらそう言いました。
『いつだんなはめをひらくかな、いつサムっておらのことみつけてよんでくださるかな。』
サムはそう思って息をつめてフロドをみつめていました。
 

 フロドは何か暖かいものが自分の頬に触れている事が分かりました。でもフロドは目を開けませんでした。今日は何だか、まだ起きたくなかったのです。ですがあまり目をつむっているとサムが心配する事も分かっていました。ですからフロドはそっと、ゆっくり目を開けてにっこりとサムに笑いかけました。
「・・・サムや。」
フロドがそう言うとサムは嬉しそうにほほえみました。そしてぱっと手を後ろにしまいました。それから恥ずかしそうに下を向いてそのままそっと花をさしだしました。
「お・・・おはようですだ、だんな。」
「おはよう、サム。」
サムはこれで満足して帰ろうと思いました。いつもならばこれでフロドは起き上がります。そしてサムの小さな手から花を受け取って、枕もとにある小さな花瓶にそれを立てるのです。ただそれだけの事ですがサムはそれで満足でした。
 

 サムはあれ?おかしいと思いました。フロドの旦那は起き上がりません。花を花瓶にいけはしましたが、ベッドから起き上がらずに顔まで上掛けを引きずりあげました。そしてフロドはサムを見つめたままです。しかも上掛けでかくれた口元は笑っているようでした。サムはなぜだか知りませんがその場から動けませんでした。なぜだか知りませんがサムはフロドの旦那がいつもよりずっとずっときれいに見えました。フロドが手をサムのほうに差し伸べてもう一度微笑みました。
「サムや、今日はまだ早いだろう?まだ朝つげ鳥も鳴いていないよ。それに寒くないのかい?」
「いいえだんな。おら、ぜんぜんさむくありませんだ。」
サムはどぎまぎしてそう答えました。
「またそんなことを言って。お前のほっぺたはそんなに真っ赤じゃないか。ほら、こっちへおいで。」
フロドはそう言ってサムを手招きしました。サムはのろのろとフロドの手に自分の手をさし出しました。
 

 フロドはかたちの良いまゆげを少しあげていたずらそうに笑いました。と、サムが思った瞬間です。サムはフロドに手を引かれ、ベッドの中にひょいっと引き込まれてしまいました。サムはそれぐらい小さかった(そして軽かった)のです。フロドの腕の中にすっぽりおさまるくらいでした。サムはびっくりして大きな目をさらに大きくして二、三回まばたきをしました。フロドはそんなびっくりサムにはおかまいなしでサムをぎゅうっと抱きしめました。
「ふふっ。朝の庭の匂いがする。」
フロドはそんなことを言ってサムにほおずりしました。
「だ・・・だんなぁ??」
サムはもう頭が混乱してぐるぐる回っているようでした。それなのにフロドはまた目をつむってしまいました。
「ほら、暖かい・・・だ・・ろ・・・?」
サムがフロドにもう一度話し掛けようと今の状況を考えようとした時でした。すー、すーっと規則正しい呼吸が聞こえてきました。フロドはサムを抱えたまま眠ってしまったのです!
 

サムは動こうにも、フロドにしっかと腕で囲われ動けませんでした。それにフロドはとても幸せそうに眠っています。サムにはそのままじっとしている他ありませんでした。そうしているうちにサムもねむたくなってきてしまいました。フロドのうでの中は心地良く、あたたかでした。サムは知らない間にやわらかい眠りにさそわれていきました。

 「おやおや、これはどうしたことだろうね!」
朝食の時間になっても起きて来ないフロドを見に、ビルボがフロドの部屋にやって来てそう言いました。やわらかな日差しがさしこむ部屋では二人のホビットが仲良く顔を寄せ合って寝ていました。二人とも(ビルボから見れば)まだまだあどけない顔でしあわせそうに夢をみていました。ほんとうにおだやかでやすらかな寝顔でした。ビルボは片方の眉をあげてちょっと考えていましたが、くるっと後ろを向いてフロドの部屋を出て行くことにしました。
「今日はいいさ。いくらわたしでも起こすのがかわいそうになってきたよ。あんなにしあわせそうに寝るのだもの。」
ビルボはふふっと笑って、パタンとドアを閉めました。今日もいい一日になりそうでした。

おわり