The book of  fate

 

 その本には、この世の全てと、未来が記されているという。 

 フロドの本好きは、ホビット庄のホビットたちの間では、ちょっとした評判をとっていました。それはもちろん、いつもの通り決して良い評判ではありません。
「また袋小路屋敷の若旦那がマゾム館に篭ってるってよ。」
こういった囁きはまだ上品な方です。
「フロドが本に埋もれてサムのやつに掘り出されたってよ。」
時にはこんないかにもな噂が緑竜館に流れて、一晩のうちの少しの時間、詮索好きなホビットたちを楽しませていました。当のフロド本人は、そんな噂を聞いた次の日にお屋敷に来て憤慨しているサムを、
「あはは、確かにわたしは本の虫だよ。」
と言って相手にもせずに笑うばかりでした。

サムは文字をビルボやフロドから教えてもらって本を読むこともできますし、自分で何かを書くことも出来ます。しかしやっぱりサムにとって本というものは、フロドやビルボの口から語り出る事で、何か価値の加わるもののようでした。それにサムが好むのは古い古いエルフのお話で、それはもう物語と言い切っても、ホビットには構わないくらいの話でした。ですからサムには本を声を出して読んでもらうことがあったとしても、自分で読む習慣はないので、フロドの気持ちは全部は分かりかねました。確かにフロドの読んでいる本の量は半端な数ではありません。ビルボが残していった古い本だけでも十分にビルボのささやかな書斎からはみでるくらいあるというのに、さらにフロドが旅を急ぐドワーフから手に入れた本や、マゾム館で眠っていた本を集めてくるものですから、お屋敷は他のホビットから言わせたら「燃えやすくてとんでもない」状態になっていました。ありとあらゆる棚には冊子上の本やら、羊皮紙やら、巻物やらが転がっています。もちろん寝室にも本棚、というようなものが2つもありますし、サムがフロドを思い浮かべると、いつも本がその手にあったように思えました。さすがに食事の時はフロドも本をおいてきますが、食後のお茶を用意するちょっとの間でさえ、フロドは続きを読もうとするのでした。サムも、そりゃあ床に本が山と積まれているのには時々閉口したくもなりますが、それでも緑竜館で公然と旦那の噂をされるのは腹が立つようでした。

というわけで、サムは今日もちょっと憮然としながらいつもの仲間たちの遣り取りを、ビール片手に聞いていました。
「わしが聞いた話じゃなあ、」
一人の年をとったホビットが言いました。
「あの若旦那は本にとりつかれてたんだってよ。」
「そりゃまちがいねえ、おれも見たしよ。」
もう一人のサムより少し年上のホビットが言いました。
「おれが見たとこは北のはずれのマゾム館から出てくとこだ。別に変わったとこもねえ、いつものとおりのフロドだったぜ。あの真っ白な顔でにこにこおれに笑いかけてよ、ご苦労だね、なんてご機嫌な声で言われちまった。脇にいつものようによ、何冊か重くて役にもたたないようなもんを抱えてたぜ。なんなら貸そうか、なんてことも言われちまった。めっそうもねえ。おれには退屈で寝ちまうもんだろうよ。」
サムは黙って、「羨ましいなんて思ってないだ。」と自分に言い聞かせました。しかしその後に続いた年寄りのホビットの言葉に、ちょっと眉をひそめました。
「いや、わしが聞いたのはそうじゃねえ。確かになんかおかしかったってよ。」
「何がおかしいっておれにも分かるように言ってくんなよ。フロドがおかしいのはいつものことじゃねえか。」
「いや、そりゃそうだろうよ。あの大旦那にしてあの若旦那ありだしよ。そうじゃねえみたいよ。」
「そりゃどういうこったよ、じいさん。」
「わしんとこの女房がな、さっきでがけにわしに言ったのよ。『あんた、フロドの若旦那はどうしちまったんだ』ってよ。それでわしは聞いたわけだ、『おめえは何を見たんだ』ってな。」
サムは、日ごろフロドやビルボ、それにメリーやピピンといったはきはきと要点を絞ってしゃべる上流のぼっちゃんたちを相手にしているので、この老ホビットのおしゃべりが随分回りくどくて順序だっていないように感じましたが、(自分のことは棚に上げておいてですが!)なんだか気になって神経を集中させて聞いていました。
「そしたらよ、女房のやつぁこう言ったのよ。『あたしはね、見ちまったのさ。フロドの若旦那がなんだか汚らしいドワーフだかなんだか知らねえ毛むくじゃらの旅人から薄っぺらな本をもらうのをさ。そいつがあんまりふらふらしてたんで、あたしは心配になっちまってね。でも近づくなんておっかないことはしないよ。そしたらさ、若旦那の目の前で、そいつが倒れてね。で、それを渡したってわけ。それまではいつもの若旦那だったんだけどねぇ。その本を見て、そいつが何かを言った途端、なんだかおかしくなっちまってたんだよ。脇にかかえてた分厚い本を草の中に落としてね。本の表紙を見つめてたんだ。ありゃ、常人の目じゃなかったよ。あたしは怖くなっちまってね。それでその後は何が起こったか知りゃしないけど、くるっと後向いて帰ってきたってわけさ。』」
「うーん。」
若い方のホビットはひとうなりしてから結論を出しました。
「結局フロドの考えてることなんざ、おれたちに分からねえってことか。それにそのよそもんだって、何を言うんだか検討もつかねえし、知りたくもねえな。」
「まあそういうこったな。それにしちゃ女房の言い方が早口だったがな。いやな、うちのやつはおっかねえことがあるってえと、ちょいと早口になるのさ。」
「そうかい。でもよ、やっぱりフロドが変人ってことには変わりねえよ。」
「そうだな。」

 ホビットたちの会話は、回りまわって結局なんの結論も出ずに終わりましたが、その後もサムは考え込んでしまいました。会話の内容からすると、どうやらフロドは今日の夕方にその本を手に入れたようです。晩ごはんを緑竜館で済ませましたから、朝マゾム館に送り出してから、サムはフロドの様子を見ていません。最近はホビット庄の中を通り過ぎ、急いで西へ行く旅人のことをよくフロドから聞いていましたので、旅人のことはそれほど気にしませんでした。しかし心配なのは大事な主人のことです。魔法でもかかった本を掴まされて、またいつぞやの鏡の時みたいなことにならないかと思うとぞっとしました。あの時はなんとかなりましたが、それでなくともフロドは何かにつけて敏感なホビットです。ただの紙の束だからといって、フロドが「とりつかれ」ないとも限りません。それを思うと、サムは急に胸が寒くなるような思いがして、いても立ってもいられなくなりました。そして、ばっと席を立ち、ビール代を机に叩きつけるように置き、周りのホビットたちが「どうしたどうした」と騒ぐのも構わず、一目散にお屋敷に走っていきました。 

 サムが息せき切ってお屋敷にたどりつくと、そこはいつものとおりのお屋敷でした。就寝にはまだ少し早い時間なので、小さなランプが暖かい光を玄関に降り注がせていました。そして、元はビルボの、今はフロドの書斎の窓からも、やさしい光がもれ出ていました。サムは最悪の事態を考えていました。フロドが書斎で突っ伏している姿を想像しました。そしてそんなことがあったなら、すぐにフロドを助けて、そんな本なんか燃やしちまえと思って叫びながらお屋敷のドアをばーんと開けました。
「旦那ぁっ!」 

 しかし・・・サムがそこに見たものはいつもの主人の笑顔でした。
「おやサム、どうしたんだい?そんな顔して。」
あまりにも普通なフロドの反応に、サムは急に体の力が抜けて床にへたりこんでしまいました。
「だ・・・旦那・・・?」
「ん?わたしがどうかしたのかい?」
上からサムをのぞきこむフロドの目を見上げ、サムはその瞳になんのまじないも、ましてや魔法もかかっていないことを確信しました。
「ご・・・ご無事で、フロドの旦那。」
「へ?」

「あははははー!」
鳥もさえずらない夜のホビット庄に不似合いな、大きくて楽しげな笑い声が響いていました。
「なんだって?それじゃあサム、お前はそのドワーフが死ぬ間際に、わたしに魔法のかかった本を渡したとでも言いたいのかい?それでわたしが今頃それにとりつかれているとおもったのかい?」
「・・・・・・そうですだ。」
あまりフロドが楽しそうにそう言い、こらえきれなかった笑いが溢れそうになっているのを見て、(現にフロドは笑いすぎて、目には涙が浮かんでいました。)サムはうつむいて真っ赤になってぼそっとそう言いました。
「大きな誤解だよ、サム。あの旅人はわたしに本をくれただけなんだ。それになんだか素敵なドワーフ殿でね、話がすんだから旅を続けようと、一歩踏み出したところで石につまずいて転んでしまったんだよ。いや、びっくりしたよあの時は。驚いてせっかく見つけたマゾムの古い本を落としてしまった。話をしてくれたおかみさんが、お話を作ってしまったようだね。」
フロドがそう楽しそうに言うと、サムはますます情けない顔をしてうつむいてしまいました。もう恥ずかしくってフロドの顔を見ることもできません。しかしフロドは、ふうと一息ついて、言葉を続けました。
「それでもわたしは嬉しいよ。お前がわたしのことをそんなに思ってくれてるなんてね、サムや。」
そうしてフロドはそっとサムの肩に手をかけて、自分の方を向かせました。その目はもうからかいの表情ではなく、優しく何かを包み込むような笑みが浮かんでいました。
「お前が思ったほど、不思議で大変な話ではないけどね、この本について、ちょっとだけ面白い話があるよ。」
そう言って、フロドはそのちょっと間抜けなドワーフがくれた本を机の上に置きました。そしてサムはその薄くて古い本を見、そしてフロドを見ました。本には、「運命の書」と書かれていました。
「さあ、この本にまつわる面白い話をしてあげよう。」
そして、フロドは静かに短い話をしはじめました。
 

「そのドワーフは、長い旅をしていたんだ。そして、本を書いていた。物語や何かを、たくさん。それはもう、わたしやお前が読んだことのないくらいたくさんね。そして今日、わたしと偶然出会った。そしてこう言ったんだ。『久し振りにホビットなんぞ見たよ。』ガンダルフとビルボの旅の仲間は、どうやら相当有名みたいだね。そのドワーフはわたしを見てもちっとも驚かなかった。しかも、自分はホビットの書いた本、きっと家系図だろうね、それも読んだことがあると言うんだ。わたしの方が驚いてしまったよ。そして、こんなことを言ったんだ。『わたしは世界中を見てきた。わたしはこの本に、この世の全てと、未来を書くことができた。』と。足元の石で転ぶようなドワーフなのに、そう言った時の目は怖いくらいに真剣だった。いや、真剣というのはおかしいな。いつもなら笑い飛ばすようなことを言われたのかもしれない。でも、その瞳には真実があったんだよ。だからわたしは笑えなかった。むしろ、ひきつけられるようにその本を受け取ってしまった。わたしが受け取った本は――この本だが――世界の全てや未来が書いてあるとは思えないほど薄っぺらかった。わたしはまさかと思ったよ。でもね、サム。なんだかわたしはそれが本当のような気がして仕方なかったんだ。だから、これを持って帰ってきたんだ。」

フロドは、なんだか不思議な色を浮かべた瞳でサムを見ていました。サムは自分で思っていたほどおおげさではありませんが、その話の不思議さに目を見開いていました。そして、目の前に置かれた本が、急に何かすごいものに感じられて、それに手を触れるのも、ページをめくるのも憚られるような気がしました。ですから、サムはちょっとおそるおそる、フロドにしかるべき質問をしてみました。
「それで・・・それで、本には何が書いてあったんですだか?旦那は、それをもうお読みになったんで?」
するとフロドは微笑みながら本を手に取り、サムに手渡しました。
「それはお前の目で確かめればいいと思うよ、サム。そしてわたしに思ったことを聞かせてくれればいい。さあ。」
サムは、フロドがきっとこの本を手に取ったときにそうしたであろうように、その表紙を見つめました。そして、おっかなびっくり一ページ目を開きました。
「え・・・?」
サムは次のページをめくりました。そしてその次も、さらにその次も。ついには最後のページまできて、あとは本を閉じるしかありませんでした。
「何も・・・何も書いてないですだ、旦那。」
「うん、そうだね。」
フロドは驚くサムをやさしい瞳で見つめて言いました。
「何も書いていない。でもね、これがこの世の全てと未来だと、あのドワーフが言った言葉が真実かどうか、わたしは今も疑っていないよ。」
そしてサムは、ぱっと顔をあげてフロドを見ました。そこにはいつもと変わらない、透き通った青が見えました。そうしてやっと、サムは微笑みました。やっと、フロドの言っていることのわけが分かりました。
「ええ、そうですだね、旦那。」
こうして今日も、静かに夜は更けてゆきました。明日という、白紙の世界に向かって。

その本には、この世の全てと、未来が記されているという。 

おわり