The Bloom 3

 

事態というものは、どこで変わるものか、それは誰も分からないものだ。相変わらずのフロドに禿たちは以前と同じように心配し、ビルボおカミは心を痛めていた。しかし、確実にフロドの周りでは、色々な自体が変化しつつあった。とある日、珍しくフロドの許しを得た馳夫が、フロドの様子がどことなく普段と違うことを目に留めたのだ。表面上は、フロドはいつもと変わらない。しかしその美しい笑みの背に、どこか翳りがあるのだ。その鈴を転がすような声の裏に、どこか悲しい響きがあるのだ。それに気が付く者は、このみせの内部の者以外、誰もいなかった。しかし馳夫は分かっていた。彼はその立場なりに、フロドを愛していたからだ。どうしたのかとビルボおカミに聞いても、何事も隠し通すその奥深い微笑みに全てを阻まれ、何も聞き出せなかった。しかし、馳夫は厠に立って、さて座敷に戻ろうかという時、禿たちの声を聞いた。それは禿たちのふとこぼした、ため息と深い嘆きだった。
「ああ、フロド姐はん、おかわいそうになぁ。」
「そうやけどねピピン、わたしらにはどうしようもせんないことだからね。」
「でもフロド姐はんは、本当にサムが大好きで大好きでしょうないんやよ。」
「そら分かるわ。あれ以来、姐はん下人土間にばっかり顔出しはるもんな。それなのにサムはちっとも来んしな。」
「でもメリー、サムも哀れやと思うで。」
「そやね、それは分かっとるよ。誰もサムを責めんと思うよ。せめてサムの家が、もう少し楽やったら、二人で逃げられるかもしれんになぁ。」
「せやなぁ。サムには確かお姉はんがいらはるらしいで。おかあさんが言ってはったもん。」
「その人が、せめて今のサムの働き扶持くらいあったら、サムも家族を気にせんとフロド姐はんとどないなさるか考えれるになぁ。」
馳夫はそれで全てを悟った。フロドの背負う翳の中には、サムワイズという者がいるのだということを。そしてその家計は苦しく、サムワイズなしには暮らしていけないということ。その姉が働き口を探していること。そして何より、フロドはサムワイズを愛しているということを。馳夫には、サムワイズなるものが何者か、それはどうでもよかった。ただ、フロドのこの笑みを、見ていたくなかった。心を隠して無理にほほ笑むその姿は、見ているだけで辛かった。いくら自分が権力があると言っても、それはフロドには何の意味もなかった。自分が何もフロドにしてやれないのなら、せめてそのフロドの想う相手の暮らしぐらい、楽にしてやることが、フロドへの何らかの慰みになるのだろうかと思った。そしてその日、馳夫は長居をせず早くに供の者を呼び戻して、籠で早々に帰っていった。
 

 次の日、いつものように仕事が始まる前、フロドは下人土間の辺りでこれまたいつものようにぼうっとしていた。そこへ紅花娘たちが入ってくる・・・と、そこには久方ぶりにこのみせを訪れたサムワイズの姿があった。サムワイズは、はっとフロドの姿に気が付くと、その足元に駆け寄った。
「フロド様!フロド様!」
声に、はっとフロドが目を見開いた。そこには、しばらく灯っていなかった生命の光があった。そして、泣きそうな顔でほほ笑んだ。
「ああ、サムや。・・・久しいね。」
フロドはやっとのことでそう言った。
「ええ、ええ、お久しゅうございます、フロド様。」
サムワイズも、涙を落としてそう言った。そしてフロドの差し出した手を取って、それを両手で包み、陶器かはたまた宝でも触るかのように、そっと撫でた。そして、何も言えず、ただただサムワイズを見つめて涙を落とすフロドに、こう言うのだった。
「フロド様、おらがここに来るのも、今日が最後になりますだ。」
その言葉に、フロドの表情は一気に曇り、そして絶望のまなざしになった。しかしサムワイズの目は輝き、言葉を続けようとしていた。
「違いますだ、フロド様。勘違いなすってるようですだが、ここに来ないというのは、おらがフロド様に会わなくなるっちゅうこっちゃねえんですだ。」
フロドの顔が困惑で歪んだ。サムワイズの言っていることが、フロドにはよく分からなかった。サムワイズはそんなフロドの目を見つめたまま続けた。
「おらんとこに、一人あねさがいることはご存知ですだか、フロド様。そのあねさが、このくにのお后様んとこで働けることになったんですだよ。どうしただか、おらにはさっぱり分からねえ。でも、急に御使いの方がおらん家にいらして、あねさをどうか后の側近で働きに出してはもらえねえかとおっしゃったんで。おら、びっくりしちまったんですだよ。その御使いの方が言うには、おらたちの生活は、全て保障してくれるっちゅうことで、おらは、もう紅花を摘んで、ここに売りに来なくても生活していけるようになったんですだよ。おらたちは、もう自分の家でのんびり自分達だけの食うもんを作って、それで暮らしていけるようになったんですだ。」
フロドは、今度は喜びの驚きに目を見開いた。そして、はっと心当たりに突き当たり、馳夫を思った。
「あの方が・・・」
「え?」
「いや、なんでもないよ、サムや。それは・・・それは何と嬉しいことなのだろうね。」
「ええ、ええ。そうですだよフロド様。おら、もうフロド様をお迎えしたい一心で、ここまで来ましただ。」
そこには、この街のことを知らない純朴なサムワイズの瞳があった。サムワイズは自分を迎えてくれると言う。貧しいかもしれないが、それはなんという素晴らしいことなんだろう。フロドは一瞬、自分の立場を忘れてその明るい空想に耽った。しかし、冷静に考えれば考えるほど、ここを離れることはできないと悟ってしまった。馳夫がいくら自分を支援してくれようと、周りの人間がいくら自分を逃がそうとしても、花魁が姿を消すことはこのみせに大きな影を落としてしまう。この岩の上の板のように不安定な街、ここではそんな噂一つでどんな老舗も落ちぶれ、つぶれてしまうことは、フロドが一番よく知っていた。しきたり、しがらみ、伝統、それに妬み。このみせは、ありとあらゆる感情と歴史に縛られているのだ。それに何より、育ててくれたビルボおカミを置いて、また可愛い禿の二人を置いていくことは、フロドにはできなかった。それゆえ、フロドはその大きな目から涙を流し、サムワイズを抱きしめて言った。
「それは、それはできないのだよ、サム。」
今度は、サムワイズが絶望に瞳を染める番であった。
「なんで・・・」
「ああ、すまないサムや。いとしい、いとしいサム。嬉しい、お前の言葉と心はとても嬉しいよ。わたしもそうしたい、何をおいてもお前と暮らしたいという気持ちはお前以上に強いのだよ。でもわたしはこの街の、このみせの花魁。勝手にここを去ることはできないのだよ。分かってくれとは言わない。お前の心がそれでわたしから離れるのだったら、わたしは何も言えない。どうかわたしのいないところで幸せに暮らしておくれ。すまない、すまない・・・」
そうしてフロドはただ、繰り返し繰り返しサムワイズに詫び、そして泣き続けるのであった。

 4へ続く。