The
Bloom 2
それは風の強い日だった。フロドは体調がすぐれず、座敷に上がれずにいた。ビルボおカミはそんなフロドを心配してか、仕事始まりに遅れたフロドには何も言わず、ただ禿たちに、お前達にも休みをやるから、姐さんについていておあげと言っただけだった。頷き合った禿のメリーとピピンは、無作法にならない限りの早足でフロドの部屋へと急いだ。だが、そこにはフロドはいなかった。厠にもいない、部屋にもいない、座敷にもいないとなれば、それは大事だった。お客には悟られない程度に、それでもどこだどこだと板前やら車引きの連中まで巻き込んでフロド探しはなされた。一時は身投げでもしたか、逃げ出しでもしたかとひそやかな噂が飛び交ったが、それは下人用の土間辺りに腰掛けていたフロドの発見で消え去った。
「姐はん、ここで何してはるん。」
安心と安堵と、そして少しの怒りをにじませて、ピピンがフロドに話しかけた。その後ろでは、メリーが他の衆にもういいよと言っていた。周りはざわざわする中で、フロドは何も言わず、ピピンの問いにも答えず黙って座り、ただ開け放たれた戸の外を、じっと見つめているだけだった。
「もういいよ、ピピン。」
どこかいつもと調子の変わったフロドの雰囲気を感じ取ったメリーは、今にもフロドの足元に取りすがって泣き出しそうなピピンを引き離し、そしてフロドの目を見つめて言った。
「さあ、姐はん、帰りましょ。おかあさんも心配しとったんですえ。何があったかは聞きません。ですが、ここは冷えますえ。どうかお帰りに。」
「・・・ああ。」
まだ遠くを見つめている瞳のまま、フロドは分かったような分からないような曖昧な返事をして、その場を立った。そして、禿二人に脇から支えられ、部屋に戻ってすぐに床についた。
それからのフロドはどこかおかしかった。座敷にあがる回数が減ったわけではない。いつもどおり、客の前ではあでやかな笑みを絶やさなかった。しかし、置屋や休息所に帰って来た途端、笑顔が消えるのだ。ほんのひと時でも笑みを見せることはない。そして時折辛そうに胸を抱え、ふらりと下人用の土間に出かけては、密かに泣いていた。そんな様子に禿たちは心を痛ませ、とうとうビルボおカミに直に相談しに行くことにした。通常ではありえないそんな事態も、街一番の花魁の一大事とあれば、おカミも許してくれるに違いないと、二人は必死になっていた。そしておカミの前で、フロドの現状をつぶさに報告し、如何したら良いのかと半ば懇願するようにおカミにすがり付いた。
「ああ、分かっているよ。メリーにピピン。さあ、顔をお上げ。わたしはお前達がここに来てくれたことを嬉しく思うよ。でも、二人とも。これからわたしが言うことをよくお聞き。」
そして、つらつらと二人に語るのだった。
「フロドの様子がおかしいと分かったわたしは、あの日の当番で土間にいた下人と、出入りしていた者たちを全て調べさせたのさ。そして分かったのはこんなことだったよ。」
その日、下人用の土間には、多くの取引があった。体の調子がどこかおかしく、だるいが眠れもしないフロドは、にぎやかなその土間に、いつの間にかふらふらと引き付けられていった。そしてそこには、紅花作りの百姓たちが大勢来ていた。フロドは取引が行われている場所から少し上がったところで、それを何ともなしに見ていた。
と、その時、フロドの視線と紅花作りの娘の一人の視線がふと絡み合った。それは一瞬ではあったが、フロドには永遠とも思える時間だった。その娘は決して美しいとは言えない容貌をしていた。だが、その目は美しかった。優しさに満ち、愛情に溢れている。純粋なその瞳に、どこまでも胸の奥を覗き見られているようで、フロドは一瞬、心苦しさを覚えた。と、その永遠が次の瞬間に壊れた。その娘が、紅の入った籠を土間にひっくり返したのだ。娘は、フロドに見とれていた。この世のものとは思えぬその妖艶さ、滑らかな肢体、そして何よりもその美しい深い青の瞳。それら全てに、娘は引き込まれていった。そして、自分で落とした籠と箱が足に当たる痛さで、我に返った。
「こら!このサムワイズの阿呆が!」
叱咤が飛んだ。それと共に平手も。この土間ではいつも起こっている日常的なことだった。下の者が粗相をすれば、身をもって叱られ、そして償わされる。それは娘にとっては当たり前のことだった。しかしフロドにとっては驚きだった。この娘がサムワイズと呼ばれたこと、その娘と見つめ合った一瞬が永遠に感じられたこと、そしてサムワイズが酷く叩かれたこと。それはフロドにいつもならありえぬ行動を起こさせた。
「やめなさい!」
フロドはばっと立ち上がり、サムワイズを叩いた下人を睨んだ。一瞬で、土間が静寂に包まれた。誰もが固まってしまったかのように動けなかった。その中でフロドだけが、優雅に、しかし裸足で土間に降り、紅を拾い上げた。それにはっと気が付いたのはサムワイズだった。
「おやめになってくだせえ!フロド様!」
フロドは、自分の名がサムワイズの口から出たことにびっくりして、紅を取り落とした。そこへ、サムワイズが駆け寄って跪き、そして手をついて土下座した。
「おねげえですから、そんなことはおやめになってくだせえませ、フロド様。そのお美しいお手に、このようなところから物を拾うなぞ、おらには耐えられませんだ。そのおみ足がこのきたねえ場所に触れているだけで、おらは気がふれそうになりますだ。どうか、どうかお戻りくだせえ。」
その言葉を機に、下人たちは全員が跪いた。その中には、ここにいるのが街一番の花魁、フロド太夫であることの意味を悟って、全身を震わせて頭を地に擦り付ける者までいた。しかしフロドは周りの様子など一向に気にせず、サムワイズの手を取って顔をあげさせた。
「お前がサムワイズと言うのだね。わたしはお前を待っていたのだよ。」
そして驚き目をみはるサムワイズを土間から引き上げ、他の下人たちを手の一振りで他所へやり、そこには二人だけが残った。
しばらく、沈黙があった。ふたりはお互いの目を見つめ合い、そして手を握り合っていた。その様子は初めて会ったばかりの花魁と紅花娘ではなく、まるで生まれた時から一緒に暮らした主人と僕のような、それでいて恋人同士であるかのような、不思議な雰囲気が漂っていた。それで二人はお互いを、全て分かり合っていた。フロドはもう一度、先ほどと同じことを繰り返した。
「サム、わたしはお前をもう、ずっとずっと前から待っていた。どうしてだか分からない。ガン爺に紅のことを聞いたからかもしれないが、今、お前を目の前にして、こうして触れていると、そうではないとわたしの心は言うのだよ。」
サムワイズはもう、フロドを恐れはしなかった。堂々と、フロドを正面から見つめ、そして口を開けるようになっていた。
「フロド様、おらもですだ。お姿を見たことのない頃から、ずっとお慕い申し上げておりました。なぜだか、おらにも分かりませんだ。でも、ずっと前から、おらの中にあなたはいらしたんですだ。ずっと、ずっとこの中に。」
そう言って、サムワイズは自分の胸に手を当てた。それを見たフロドは、えもいわれぬ感慨に囚われ、胸が締め付けられるように痛んだ。それを和らげるように、フロドはその細い腕で、サムワイズを力の限り抱きしめた。
「ああ、サム、サムや・・・!」
「フロド様・・・」
そしてそのフロドの体には、そっと遠慮がちにサムワイズの腕が回された。二人は、そうしてしばらく抱き合って、お互いの存在を確かめ合っていた。
触れ合ったところからお互いの体温が交じり合い、二人が同じ温度になった頃、フロドはふと、自分の顔を埋めている、サムワイズの着物を目にした。それはみすぼらしい着物だった。だがその着物は、みすぼらしさには似合わぬ美しい色をしていた。薄い橙から、桜色。それはフロドの見たことのない素朴で温かく、奇麗な色だった。
「綺麗な色だ・・・」
まだサムワイズの肩口に顔を埋めたまま、フロドはそう言った。すると突然、サムワイズは我に返ったようにフロドを自分から引き離し、頬を染めて下を向いた。いきなりのサムワイズの行動に、フロドは驚き、そしていぶかしんだ。
「どうしたんだい、サムや。」
「・・・これをきれいだと、そう言って下さいますだか、フロド様。これは、紅をしぼった残り汁で染めたんですだよ。・・・おらたちは一生、紅なんかつけらんねえ。だから、せめて・・・」
そしてフロドははじめて気が付いた。サムワイズが悲しそうな声をしていることの理由を。サムワイズの肩が震えていることの理由を。それは、身分の違い、世界の違いを意味するものだった。フロドはこの街一番の要となる花魁、サムワイズはただの紅花娘。この着物の色は、二人の間にある溝の象徴だった。フロドのつける紅、それを作った残り粕で染めるサムワイズの着物。二人の世界はこんなにも違っていたのだ。いくらお互いを想おうと、いくら惹かれあおうとも、それは決して埋まらぬ溝だったのだ。
「なんてことだ!わたしはなんてことを言ってしまったんだ!ああ、お前の気持ちも考えず。すまないサムや。」
悲嘆に暮れたフロドは、サムワイズを見つめ、そして着物に顔を埋めて涙をこぼした。サムワイズは同じように涙の流れる頬をそのままに、そっとフロドのそばを離れ、自分のいるべき場所へと戻って行った。二人の最後に交わした言葉は、絶望に染まった別れの言葉だったと言う。
「フロドは、それからこう言っていたんだと。『ああ、お前と一緒に暮らせたらどれだけいいか。』と。サムは何も言わなかった。言えなかったんだ。自分のあるべき場所から離れられない運命を悟っていたのさ。それを聞いていた下人たちの中には、古くからフロドについていてくれる者もいてね、涙をこぼしていたということだよ。その願いをかなえてやりたいとね。わたしだって、どうにかしてやりたいよ。あの子は今まで何も言わずにここに尽くしてくれた。この街のためにもね。いくら妬まれようと、いくら鬼と罵られようと、あの子は立派に自分の立場とこの街を守り続けてくれた。」
「じゃあ、姐はんを静かに暮らさせてあげて下さいな、おかあさん。どうか!」
ピピンがつい、大きな声で口を挟んでしまった。横ではメリーが少し青くなってやめろとピピンの着物の裾を引っ張っている。
「いや、いいんだよ、メリー。わたしだって同じ気持ちさ。でも、よくよく考えてごらんよ。サムにはフロドを落籍せるような金はないんだよ。紅花を摘んでいる身さ、自分が生きてゆくだけで精一杯なんだよ。そりゃ、家族を捨て、山里でひっそりと暮らすことはできるだろうさ。でもサムにはそれはできないんだよ。仕送りを待つ兄弟がいるからね。それに年取った両親もね。サムの家族は、あの娘の働きで食っていけてるようなものさ。分かるかい?」
「はい。」
二人はうなだれ、そう答えた。そしてビルボおカミは続けた。
「それにフロドだよ。お前達、この花街は馳夫様の懐で成り立っていることは知っているね。その馳夫様の支援はフロドという存在あってこそなんだよ。大夫たるものそう簡単に街を去れないんだよ。その馳夫様に落籍されるんなら話は別だ。だが、権力も金もないような、しかも娘のところに街一番の花魁が落籍されたなどという噂がたてば、街はどうなる。お前たちが考えるまでもないよ。ここの秩序は、今まで薄板一枚の差で保たれてきたんだよ。そうなった時は、この街も生活も全てが崩壊するだろうよ。分かるね。」
「・・・はい。」
二人は、頷くしかなかった。それは花街で生きる者の定めだったのだ。
3へ続く。 |