The Adventure in a Dense Fog

 

これはフロドが袋小路屋敷に引っ越してきてまだ半年の頃にあった、小さな小さな冒険のお話です。

ホビット庄には時々深い霧が一日中たちこめる日がありました。フロドは引っ越してきた頃、霧がきらいでした。霧の薄暗い世界が自分のまわりをすっかり取り囲み、まるでひとりぼっちにされたような気がしていました。しかしいつごろからでしょう、フロドはこんな日が好きになりました。庭師の末息子のサムは、決まってそういう日にフロドを探検に誘い出していたのです。フロドはいつの間にかそれを期待するようになっていたのでした。

ある朝の事です。サムは目を覚まして、何気なく自分の小さな寝床から窓の外を見てみました。するとどうでしょう!ホビット庄が真っ白な霧でおおわれていました。
「わぁ、まるでミルクをそこらじゅうにながしたみてえだ!」
サムの言うとおり、ひどい霧でほんの3歩先もはっきり見えませんでした。サムはまあるい顔をにこっとさせて良いことを思いついたようでした。
 

「こんな霧じゃぁ仕事にねらねえ。」
サムが起きて小さな台所に行ってみると、とっつぁんはそんなことを言いながら朝ごはんを食べていました。ぶつぶつ言っている割には嬉しそうでした。お山のお屋敷の仕事も今日はお休みです。もちろんとっつぁんは仕事が好きでしたが、たまにはのんびりするのも、もちろん大好きでしたから。
「サム、お前やけに嬉しそうじゃねえか。」
とっつぁんは(自分の事は棚に上げておいて、)起きてきて何も言わずにそこらにあったパンをがつがつと食べ始めたサムにそう言いました。
「なんでも。」
サムはそう言いましたが、顔はいたずら好きのブランディバックのちびちゃん(と言ってもサムもまだ9才の小さなホビットでしたし、ピピンはまだ生まれたばかりの赤ちゃんでした)がささいないたずらを考えている時のように輝いていました。サムはパンを飲み込むように食べてミルクで流し込むと、そわそわと出かける用意をし始めました。すなわち、いつものようにポケットに堅く焼いたビスケットをつっこみ、お気に入りのマントをはおったのでした。
「どこ行くんでえ、サム。」
朝ごはんから10分と経たずに出かけようとするサムにとっつぁんは尋ねました。
「ないしょだよ。」
サムはちょっと真剣な顔をしてそう答えました。
「そうかい。夕飯までには帰ってこいや。」
とっつぁんは、『ああ、また若旦那と冒険ごっこか。』と思ったのでにやっと笑ってそう言いました。しかし今日は本当にひどい霧なので、特別に小さなランプをサムに持たせてやることにしました。
「わかってるだよ。」
サムはランプを持たせてもらったのが嬉しくて、素直にそう言いました。
「じゃあいってくるだ。」
サムはそれだけ言ってランプ片手にお山を登っていきました。
 

「ごめんくだせぇ、サムがきましただよ。」
サムはお屋敷の玄関の所でそう言いました。辺りが真っ白で時間が良く分かりませんでしたが、ビルボの大旦那はもうとっくに起きている時間だという事だけはサムには分かりました。ランプを持っていない方の手には、霧の雫に濡れた白い花を持っていました。
「ああ、お前かい。ひどい霧の中よく来たね。」
ビルボがドアを開けながらそう言いました。
「おや、ランプを持たせてもらったのかい。」
ビルボにそう言われてサムはちょっぴり得意顔になりましたが、
「フロドはもう起きてるよ。」
 という言葉を聞いて少しがっかりしました。サムの小さな朝の仕事(お花を持ってフロドの若旦那をおこす仕事です)が今日は無しになりました。ですが、
「やあ、サム!」
そう言って出てきたフロドを見て、サムはぱっと目を輝かせました。フロドはなんとサムと同じように、短いマントを羽織っているではありませんか!
「今日は冒険日和だね、サムや。」
フロドは片方の眉をちょっと上げて、いたずらそうににこっと笑いました。フロドは今日の霧を見て、きっとサムがこうしてやってくるに違いないと思っていました。
「お前がランプを持っているのなら、私が持っていく必要はないね。」
フロドは、可愛いサムに得意顔をさせてやろうと思いましたので、持っていくようにとビルボが用意した大きなランプをわきへやりながらそう言いました。
「はい、もちろんで。」
サムは嬉しくて、ほっぺたを真っ赤にさせてやっとのことでそう言いました。
「では、ちょっと行って来ますよ。」
フロドはサムにちょっとウインクをしながら、ビルボにそう言いました。
「ああ、いっといで。」
ビルボは微笑みながらそう言いました。ビルボはフロドに本当に良い友人ができて良かったと思っていました。ホビット庄に越してきたはじめの1ヶ月、フロドは本当に元気がありませんでしたので、サムがいてよかったと、そう思うのでした。
 

 玄関から一歩出たフロドは小さくため息をつきました。
「凄い・・・」
思わずそう言ってしまうほど、そこは真っ白な世界でした。まるでお山が白い霧の海に浮いた小島のように見えました。そのお山でさえもかすんで見えました。フロドはちょっと背筋がぞくっとしました。袋小路屋敷の入口はもう見えません。この世界に今いるのは、自分だけのように思えました。何か捕えどころのない孤独という怖さがフロドの肩をすり抜けていったようでした。
 

 同じ霧の中にいながら、サムの心は弾んでいました。『ここにはおらとだんなしかいねえみてえだ。』ランプを持ったサムはそんなことを考えながらフロドの前を短い足(とビルボが言うと、いつも顔をまっかにして怒ったものでした)でとことこと歩いていきました。しかしサムは後ろを歩いているフロドがあまりにも静かなので首をかしげて振り向いてみました。サムが見たものは、何となく不安な様子の主人でした。
「だんなぁ、だいじょうぶですだよ。」
サムは思いっきりの笑顔を年上の主人に向けました。
「おらがいますから。」
フロドはそう言ったサムがなんだかかわいいやらおかしいやらでふふっと笑いました。それを見てサムは少し怒ったように頬をふくらませました。
「ほんとですだ。だんな。おらがいますから。なんもしんぱいいらねえです。だんなはおらがおまもりするだ。」
そう言ったサムの瞳はまっすぐで真剣でした。サムにはまだ忠実という言葉はよく分からなかったでしょう。ですが、その瞳にはまさにこのホビット庄中のどこを探してもないくらい純粋な忠実心が既に宿っていました。フロドは『ああ、そうか。』と思いました。『サムがいてくれるから、もう一人になる事はない。』と思いました。家に帰ればビルボもいる。とっつぁんだっているし、メリーのちびちゃんもピピン赤ちゃんもいる。フロドはその事を思い出しました。『もう、一人になる事はないんだ。』フロドは心に暖かい灯りがともったように思えました。そしてそれは他でもないサムが灯したものだと、フロドはやっと今、それが分かったように思えました。
「そうだね。ありがとうサムや。」
フロドはそっと瞳を伏せ、小さな声でそうささやきました。それから、うれし涙がこぼれないようにちょっと上を向きました。
「さぁ、行こうか。」
フロドはサムのちいさな手をそっと取り、そしてぎゅっと握りしめました。サムはびっくりしてフロドの顔を見上げました。黒い捲き毛の中からそっとのぞいた頬は白く、薄桃色のくちびるは微笑みを含み、フロドはいつものように綺麗でした。しかし、青く涙を含んだ目はサムには見えませんでした。ただ、握りしめられた手が、少し震えている事だけが分かりました。ちいさなサムにはその意味が分かりませんでした。でも、何だかあたたかな気持ちになりました。

 ぼうっと光るランプの灯りだけを頼りに、二人は街道にぶつからないように北西の方向に歩いて行きました。サムはホビット庄中のいろんなところを歩いた事がありましたが、このいかにも寂しげな方角には足を踏み入れた事はありませんでした。辺りはしんと静まり返り、まるでまだホビット庄中が眠りについているようでした。サムとフロドは決まってこんなとき、何も言いませんでした。サムはいつもしゃべることを考えているのですが、旦那が側にいるだけで、むねがいっぱいになってしまって何もしゃべれなくなってしまっていたのでした。フロドはサムとは少し違いました。フロドはこのいとおしい時間を自分の言葉で壊したくありませんでした。前を歩くサムの金色にも見える捲き毛と、握ったちいさくて暖かい手がフロドの幸せの証でした。何をしゃべるよりも、サムとそこにいる、それだけでしあわせなのでした。 

 二人は街道にもぶつからず、誰にも会わず、家さえもない田舎道を歩いていきました。聞こえてくるのは遠くで鳴いている野鳥のかすかなこだまだけでした。真っ白な霧は一向に引く気配もなく、ますます濃くなっていくようでした。サムの堅焼きビスケットを二人はかじりながらしばらく歩いていくと、フロドは水音を聞いたように思いました。さらさらと川底をさらうような、穏やかな音です。フロドは西四が一の庄から蘭原の沼地へ流れ込む川かな?と思いました。川は見えませんが、すぐそばから聞こえてくるような気がしました。フロドは自分でも知らないうちに、ふらふらと音がする方へと足を進めていました。サムはあれ?と思いましたが夢見るような足取りの主人と、まるで夢の中のような現実感のなさにすっかりぼおっとしてしまっていました。そう、フロドの身体がぐらっと傾くまでは・・・。

 サムが気がついた時にはフロドはほとんど川縁に足を踏み外してしまうところでした。
「だんなぁっ!!」
はっと息をのんだサムは甲高い声で叫びました。フロドは『ああ、サムの声が聞こえた』と思った瞬間、ぐいっと腕をサムに引かれて背の低い草の中に勢いよく倒れこんでしまいました。そして自分のどさっという音のすぐ後に、何かがばしゃんと水縁に落ちた音が聞こえました。
「サム?」
フロドはからっぽになった自分の手を見ました。しっかり握っていたはずのサムの手からフロドはほどけ、霧の中に投げ出されてしまいました。フロドはやっと我にかえりました。サムがいませんでした。
「サムっ!サムやぁっ!!」
フロドは必死に叫びました。自分の声が、霧に全部吸い込まれているようでした。
「サム!」
もう一度大きく叫ぶとフロドは、はっと口を噤みました。なにか聞こえたように思いました。ぱしゃんと水を打つ、弱々しい音が聞こえました。
「サムだね!どこにいるんだいっ!」
フロドは白い辺りを見回して音の方へ近づきました。音は、少し下のほうから聞こえているようでした。
 

 フロドは川縁から水のあるほうへ降りて行きました。下は真っ白で底が見えませんでしたが、フロドは怖さも忘れてできうる限りの最高の速さで土手を降りていきました。確かこの辺りで音がしたはず・・・。そう思ってもう一度良く目をこらしたフロドが見たものは、真っ白な霧の海の中に咲く、小さな薄青色の蘭の群の中に倒れているサムの姿でした。
「サムっ!」
フロドは泣き出さんばかりの様子でサムに駆け寄りました。ぱしゃぱしゃと歩くフロドの足を浅い水が跳ねました。
「サム!」
倒れたままのサムを抱き起こすと、サムは重たそうにまぶたを開きました。
「だんなぁ・・・。だんなぁ、だいじょうぶですか?」
「大丈夫だよ!もちろんさ!お前は?お前は大丈夫なのかい!?」
フロドはサムの頬に手をそっと滑らせて言いました。
「へへっ。」
サムは嬉しそうに、しかし力なくそう笑いました。
「おら、だんながげんきなら、だいじょうぶですだ・・・。それにこのきれいなはな。まるでだんなのめみたいにきれいで、おら・・・」
そう言ってサムはくたっとフロドの腕の中に頭をあずけました。

「サムっ!?」
フロドは目を見開いてサムを揺さぶりました。
「どうしたんだいっ!目を開けておくれ!」
涙があふれるのも構わずフロドはサムの小さな身体を抱きしめました。けがはないようなのに、どうして!とフロドは心の中で叫びました。しかしフロドが次に聞いたのは、サムの気持ちよさそうな、穏やかな寝息でした。
「はぁ、びっくりさせないでおくれよ!」
フロドは涙をぬぐってサムをよいっしょっと抱えながら小さく笑ってそう言いました。すうすうと眠るサムの寝顔は、ちょっと水に濡れたり泥でよごれたりしていましたが、いつものサムのままでした。ただちょっと頬の赤みがいつもより少ないくらいなだけでした。
「お前がいなくなったらわたしはどうしたらいいか、本当に考えてしまったよ。お前がわたしを助けてくれたのにね。」
フロドはサムを抱えたまま川縁から土手に上がり、川に沿って歩き出しながらそうサムにささやきました。いつの間にか、霧は薄らいで、太陽の光が少しずつ射し始めていました。
「かわいいわたしのサムや。」
フロドはサムを起こさないようにそっと、サムの頬に唇をふれさせました。サムは夢の中でにこっと微笑んだようでした。
 

 フロドが川に沿ってホビット村までサムを抱えて戻ってくると、もうとっくにお昼の時間はすぎていました。お山を登ったお屋敷の玄関で、ビルボが腕を組んで心配そうに二人を待っていました。
「どうしたんだい、この子達は!」
ビルボはそう言ってフロドからサムを受け取りました。
「さあ、入って。すっかり訳を話しておくれよ。」
「ええ、ビルボ。」
フロドはサムを渡してそう言ったとたん、くたっと身体の力が抜けて、その場にしゃがみこんでしまいました。
「おいおい、フロド!」
今度はビルボが慌てる番でした。フロドは夢の中でビルボがフロドを揺さぶっているような気がしました。
 

  次にフロドが目を覚ますと、そこはいつものフロドのベッドでした。『なんでここにわたしはいるのだろう・・・』そう思ってふと隣を見ると、サムがまだぐっすり眠っていました。枕元の花瓶には、薄青色の蘭がひとつ生けてありました。
「この花は・・・」
「これはメモラダム、エルフ語で想い出の眠りと呼ばれる蘭だよ。」
フロドが呟くと、部屋の隅からビルボの声がしました。
「お前のサムがずいぶんとしっかり握っていたんだよ、フロド。蘭原の沼地にしか生えない珍しい花さ。花びらから出る芳香が穏やかな眠りを誘ってね、よく鎮静剤に使われるんだ。お前たちそんな遠くまで行ったのかい?こんな日に。」
ビルボの声は低く心地良く歌うようにそう続けました。フロドはサムの寝顔を見てからそっと手を握り、安心したように目をもう一度瞑りました。
「もう少しお休み。二人が起きたらとびっきりの夕食を用意するからね・・・。」
フロドは落ちていく夢の途中でそんな声を聞いたような気がしました。

そんなことがあったにも関わらず、サムとフロドの霧の探検はこの後も結構な長い間続きました。しかしあれ以来どれだけ探しても、もうあの一面に咲いた薄青色の小さな蘭の花々の水辺を見つけることは二度とありませんでした。まるであの霧の日が、まるごと二人だけの想い出の中にしまわれてしまったようでした・・・。

END