2・旅立ち
森の中でガンダルフと分かれて二人はシャイアの中を平和に進みました。慣れた道です。小鳥はさえずり、緑が逞しくしげっています。とても恐ろしい旅とは思えません。サムは主人と二人で歩くのが嬉しくてたまらない様子でした。小麦畑が見えてきました。フロドはどんどん進んでいきます。ブリー村までの道は分かっています。しかしサムが立ち止まりました。なにか神妙な顔をしています。
「ここですだ。」
サムは言いました。
「何がだい?」
不思議そうにフロドが言いました。不安げにサムは言葉を続けました。
「ここでおらが歩き回ったことのある土地はおしまいですだ、旦那。」
サムは動こうとしません。サムはまるでここから先は何かが口を開けて二人を待ち受けているかのような気持ちがしました。振り返ったフロドが唇に微笑を浮かべてそっとサムに近づき、肩に手を掛けました。
「おいで、サム。」
フロドはやさしくそう言いました。フロドの声が歌うように、サムのすぐ側から聞こえてきます。ビルボの話でした。フロドは夢見る人のように甘い声で話しはじめました。
「おいで、サム。ビルボが言っていたよ。『フロドや、ドアを出てあてもなく道を歩いてゆくのは危険な事なのだよ。知らない間に思いもかけないところへ行ってしまう。』ってね。」
主人の声に安心したのでしょう。サムは一歩、また一歩と歩いたことのない土地を踏みしめ始めました。フロドはサムが落ち着くまでずっと肩を抱いていてやりました。暖かなフロドのぬくもりがサムの緊張をほぐしていきました。サムはこの年上のやさしくて賢い主人が大好きでした。
いい晩でした。空気は暖かく、ゆったりと時が流れているようでした。サムは腕を振るってフロドのために暖かいシチューを作りました。フロドが持ってきた木の実が入ったよく焼きしめたパンとスープ、それにりんごとチーズでなかなか豪華な夕飯になりました。焚いた火の側でサムとフロドは隣り合って座っていました。さわさわと木の葉が揺れる音しか聞こえません。サムはあまりに静かなので、自分の心臓の音がフロドの旦那に聞こえるのではないかと少し心配していました。フロドは穏やかな顔をしています。サムもそんなフロドの顔を見ているうちに眠くなってきました。フロドもうとうとしています。知らない間に二人とも、肩を寄せ合って眠ってしまいました。この日に黒の騎手に二人が見つからなかったことは幸運でした。こんなにゆっくりと安らかに眠れる日が次はいつになるかなど、二人はそんなこと考え付きもしませんでした。ただフロドは夢の中で、逃れられない追跡者の声を聞いたような気はしていました。しかし目が覚めるとそれもまた忘れてしまいました。
次の日に、小麦畑を横切り背の高いとうもろこし畑に着きました。道は細く、とうもろこしの背は高く高く伸びていました。サムの前をフロドが歩いていきます。がさっとフロドがとうもろこしをかき分け、サムが目を上げました。そこにフロドはいません!
「旦那?フロドの旦那!」
なんという事でしょう!サムはもう自分が主人とはぐれてしまったのかと思いました。今までいたはずなのに、見当たりません。サムは自分のまぬけさかげんにほとほと愛想がつきたと思いました。
「フロドの旦那!!」
サムはさらに大きな声を上げてフロドを呼びました。その声は必死でした。するとどうでしょう。フロドがひょいと顔を覗かせました。驚いたやら安心したやらで、サムはほうっと大きなため息をつきました。
「よかったですだ。おら、てっきり旦那がいなくなっちまったもんだと。」
フロドは不思議そうにサムを見ました。
「何を言っているんだい、サム。わたしはずっとここにいただろう?」
「いえ、おらガンダルフの旦那に言われていたんですだ。」
サムは真剣にそう言いました。
「『サムワイズ・ギャムジー、お前はフロドの旦那を見失っちゃあいけない。』って。で、おら『そんな事しねえです。サムが旦那をお守りしますだ。』って言いましただ。おらはその約束をずっと守りますだ。」
サムがあまり真剣にそう言うので、フロドはちょっとおかしくなりました。サムは何を言っているのだろうとフロドは思いましたが、そんなサムが何だかかわいらしくも思えました。
「サム、わたしたちはまだシャイアにいるんだよ?何が起こるって・・・」
その時です。何かがフロドとサムに突然ぶつかりました。フロドもサムも一瞬でひっくり返ってしまいました。
サムがびっくりして目をしばたかせると、そこには青い空と見慣れたメリーの顔がありました。すぐ側からもう一つ聞きなれた声が聞こえました。
「フロドだ!見てごらんよメリー、フロドだ!」
ピピンでした。サムは驚いて自分がこけてしまった事よりも、フロドの旦那の上にのしかかっている若いピピンに腹が立ちました。急いで自分に乗っかっているメリーを払いのけて、フロドの側によりました。フロドはまだ目をぱちくりしています。
「このっ!はやくフロドの旦那から降りるだ!このっ・・・」
サムはまだなにやらぶつぶつと文句を言いながら、ピピンを無造作に投げやり、フロドにかかった草やら土やらを払ってあげました。
「ああ、すまないね。」
そう言いながらもフロドはまだ何が起こったか判じかねているところでした。その間にもおしゃべりな二人はサムに野菜を手渡してフロドにしゃべりかけていました。野菜を腕いっぱい手渡されたサムは驚きました。ここで二人はいったい何をしていたのでしょう?その答えはすぐに分かりました。いつもの野菜どろぼうでした!サムは自分が今度は追いかけられる番になるとは思っても見ませんでしたので、さっきまでのフロドのように目を丸くしながら立っていました。
と、急にメリーがフロドをとうもろこしの間に押し込んで走り出しました。ピピンもです。え?え?という顔をしているサムはおいてけぼりです。うしろからマゴットさんの怒鳴り声と、犬の恐ろしい鳴き声が聞こえてきます。ここはフロドが小さい頃に茸を何回か頂戴したことのあるマゴットさんの畑なのでした。メリーとピピンが走りながら文句を言っています。そのくせ二人は我が物顔で畑を突っ切って逃げて行きます。フロドはその後をあわてて追います。サムは自分の主人がどうなっているか気遣う暇がありませんでした。なにしろ今追われているのはサムなのです。必死に逃げているつもりですが、前の3人に追いつけません。ただでさえ足が遅いのに、今は腕いっぱいの野菜を持っています。野菜をほったらかしにすればいいのですが、混乱しているサムにはそれさえも思いつきませんでした。旦那が行ってしまう!ただそう思って目を瞑り、さいごの力を振り絞ろうとした時です。サムは何かにぶつかりました。それは前を走っていたはずの3人でした。かわいそうにホビットたちは4人まとめて崖下へ転がり落ちてしまいました。幸い下は木の葉が積もった街道であり、怪我をしたホビットはいませんでした。
「このブランディバックにトゥックが・・・」
サムはぶつぶつ文句を言いながらフロドを助け起こしました。サムは自分がフロドの旦那の上に落ちてこなくてよかったと思いました。もし落ちてしまったら、サムは一生自分の体重をうらんだことでしょう。まだ不満げにサムが膨れていると、ピピンが茸を見つけました。サムももちろんホビットですので茸が大好物です。この時ばかりは旦那のことが頭から抜け落ちていました。メリーとピピンと一緒になって茸を取り始めました。
フロドはこの街道に落ちた時から何か嫌な感じがしていました。風がこちらへ向かって吹き込んでくるような気がしました。何かめまいのするような悪寒がフロドの中を駆け抜けました。
「この道から離れた方がいいと思うんだけど。」
フロドはそう言いましたが3人は振り向きもしません。また風が吹いたように思いました。今度はそれに乗って背筋が寒くなるような、悲鳴のような声まで聞こえてきたのです。フロドは突如、恐怖に襲われました。このままでは危ないと、フロドの中の何かが叫びます。
「早くこの道から離れるんだ!隠れろ!」
あまりのフロドの真剣な声に、3人はしぶしぶながらも木の根元に隠れました。まだ茸の入った袋をみて3人はひそひそ喜んでしゃべっています。
「しっ!静かに!」
フロドがそう言ったその時です。ホビットたちの頭の上に何かの重い足音がしました。馬のようですが金属の擦れる音もします。急にサムは怖くなりました。横を見るとフロドが青くなっています。小さく震えているようでした。上からは何かけものが臭いを嗅ぐ様な音がしきりに聞こえてきます。サムは我に返りました。フロドが震えています。それになんと、あの指輪を取り出しているではありませんか!フロドは大きな力に逆らえないように指輪をはめようとしてしまいました。サムは思い出しました。ガンダルフがこれを決してはめたり使ったりしてはいけないと言っていた事をです。フロドの顔にはあぶら汗さえ浮かんでいます。サムはばっと手を伸ばしてフロドを止めました。それと、メリーが袋を別の方向へ投げたのは同時でした。
フロドはサムに止められて、やっと悪い夢から覚めた人のようになりました。まだ背中に嫌な汗が伝っているのが感じられました。フロドは一人で立てそうにありませんでした。サムがフロドを助け起こします。やさしく、でも力強く抱きかかえて立たせてやります。それでようやくフロドは逃げることができました。4人は必死になって走ります。
「何だったんだ!」
ピピンに問われてもフロドもサムも答えられませんでした。まさかこんなシャイアの中で、もうこんな恐ろしい目に会うとは、二人は考えてもいませんでした。ここでフロドは初めてこの旅の恐ろしさを思い知らされました。フロドの胸に、ふっとホビット村のことが思い浮かびました。敵はもうここまでやって来ているのです。こんな近くに。ホビット村は無事でしょうか?みんなはこんな目にあっていないでしょうか?フロドは理解しました。自分は早くこれをもって遠くへ遠くへ行かねばならないという事を。
「サムと一緒にブリーへ行く。」
メリーとピピンに向かって言ったフロドの言葉は怖いくらいに真剣でした。サムもそんな主人を見て、自分の成すべき事をもう一度考えました。フロドの旦那はこんなに固い決心をしてらっしゃる。自分も何かやり遂げねばならないことがある。そのように思いました。「でも旦那をお守りすることが今は一番だぞ、サムワイズ・ギャムジー。」
サムは自分にそう言い聞かせて走り出しました。
メリーの案内で、4人はブリーへ行く船の渡し場へ駆けていきます。しかし4人のホビットたちはもうすでに黒の騎手に見つかってしまっています。薄暗い森の中を必死で走りますが黒の騎手たちはフロドを執拗に追い回します。サムは主人を助けようと走りながらもフロドと騎手の間に立ちます。フロドは時々つかまりそうになってよろけます。そこをサムがしっかと支えます。その前をメリーとピピンが走っていきます。サムが垣根を越えていかだが見えたと思った時です。フロドが何かに足を取られてみんなから遅れてしまいました。すでにいかだに乗ったメリーがサムに縄を取れと叫んでいます。サムは縄を解きながらフロドのほうを見やっています。フロドのすぐ背後に一頭の馬が追いつきそうです!
「フロド!」
サムは思わずそう叫んでいました。
「フロドの旦那!」サムはもう一度叫びました。フロドは走りながら
「いかだを出して!」
と言いました。メリーとピピンがさおでいかだを川の中ほどに出したのと、フロドが腕を広げていたサムの胸に飛び込むのはほぼ同時でした。サムとフロドは、フロドが飛び乗ったその勢いで後ろに倒れました。それでもサムは主人を離しませんでした。サムとフロドが岸を見ると、黒の騎手はこれ以上追いかける術を持っていませんでした。しかしすぐに下流へ、つまりこれから向かう先のブリーの方角へ走り出しました。サムの腕の中にいるフロドはまだ震えていました。視線は騎手たちが向かった方向へ向けられてはいますが、何も見えていない人のようにうつろでした。サムは一度ぎゅっとフロドを抱きしめてそっと離しました。そしてフロドを驚かせないように耳元でそっとささやくように言いました。
「さあ、フロドの旦那、行きますだよ。」
サムの優しい声にフロドは我に返ったようでした。
「うん、そうだねサム。行かなくては。」
いかだは流れに乗って暗い川の上を進んでいきます。ブランディワイン橋の岸に着くまで、誰一人として口をきくものはいませんでした。ただフロドは暗がりをじっと見つめ、サムはフロドの横に立って押し黙り、メリーとピピンはさおで漕ぎながら二人を見ていました。お互いに顔をあわせたり、フロドとサムを交互に見たりしていました。何が起こっているのかは分かりませんが、フロドとサムが命の危険に遭遇していることは良く分かっていました。いつもの軽い口調は消えてしまったようにありませんでした。
「踊る小馬亭」に続く。
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