書斎
これは、フロドが西へ旅立つほんの少し前のお話です。
昔から、フロドにとって書斎は夢の詰まった場所でした。そしてそこで、今度は自分が現実を夢にして書いているのでした。昔と変わったこと、それは書くホビットが、ビルボから自分になっただけでした。それでも、それは十分すぎるほどに悲しく重い事なのでした。ビルボのお話はどれも面白く、前向きで、そして明るかったのです。自分もいつかはそんな旅を、と思えるような、素敵なお話なのでした。それらが生み出されるこの場所が、フロドは本当に好きだったのでした。
「それでも、今は・・・」
そう口に出してしまったと気が付いて、フロドはふう、と小さくため息をつきました。そして思いました。自分の書く話に、何か意味はあるのだろうかと。それでもフロドの中の何かが叫ぶのです。今ここで、記さなければならないと。ここで、形にしなければ、永遠に失われてしまうものがあると。一言、一文字書くごとに、肩に残る傷と、そして心に残る傷がズキズキと痛みました。
思わず痛んだ胸を押さえて、零れそうな涙を拭い終わったところで、書斎の外で誰かの気配がしました。それは他の誰のものでもない、フロドの大切な、最も大切な存在のものでした。あたたかく、強く、そして痛いほどにやさしい存在でした。
「旦那、フロドの旦那。お茶をお持ちしましただ。」
自分の涙がもう乾いていた事に少しだけほっとして、フロドは笑顔で振り向きました。
「ああ、サム。ちょうどいいところに。一息入れようと思っていたところだったのだよ。」
「・・・そうでしただか。そりゃちょうどいい。」
するとサムは、何かに一瞬気が付いたように目を少しだけ開きましたが、何も見なかったようににっこり笑って、紅茶と焼き菓子をフロドに差し出しました。ふんわりと立ち上る湯気、ほのかに甘い香りのする焼き菓子。それをサムが作る光景が、フロドの目に浮かびました。そして、ふと我に返りました。ここは、旅の前の袋小路屋敷ではないのだと。もう、ここには新しい住人たちがいました。サムに、ロージー、そして可愛い子供たち。ですから、この焼き菓子も、昔のようにサムがフロドのために焼いたものではないのかもしれません。いいえ、本当はロージーが焼いてくれる事の方がずっと多いのです。ロージーは本当によい娘で、サムと同じようにフロドを尊敬し、大切にしてくれます。それでも、フロドは窯の前に立って、自分のために菓子を作るサムの姿が今でも目に浮かぶのです。お茶を持ってくるのだって、最近はロージーの役目である事が多いのです。少しだけ、フロドは胸が痛くて、自分の手を握り締めました。この想いは、もうずっと前に胸に沈めたものでした。それでも、それが今もなお、フロドを苛んでいるのでした。
「ロージーはどうしたんだい?」
なるべく平気そうな声を出そうとして、サムから少しだけ目を逸らしてフロドはそんな事を言いました。
「ああ、あいつは今ちょっと、大変なんですだ。」
「ああ、そうだったね。」
フロドは少しだけ、痛みと一緒に心に入ってきたやわらかい感情に驚きながら答えました。ロージーは幾人目かの子を身ごもって、実家とこの袋小路屋敷を行ったりきたりしているのでした。きっと今日は子供たちも親戚たちに預けられ、この屋敷にはいないのでしょう。そして、ここにいるのは昔と同じように、フロドとサムだけ。それでも、フロドは気持ちを表に出す事だけは決してしませんでした。ただ、新しい命を思って暖かくなる心を抱きしめただけでした。
「旦那は、またお話を書いてらっしゃるんで?」
そんなとりとめもなく果てしのない思いに囚われていたフロドに、サムが少し心配そうに声をかけました。
「ああ、そうだね。わたしはこれをいつか来る日のために、完成させておきたいと思っているからね。」
「そうですだか・・・でも、無理はなさらねえでくだせえ。」
少し、サムは顔をしかめたようでした。まるで未来に何が待っているのか知り尽くした賢者のように。それはあの聡明なイスタリのガンダルフのように。それは、フロドの目の錯覚かもしれませんでした。しかし次の瞬間、サムはぱっと顔を輝かせて言いました。
「でも、おら、旦那のお話が大好きですだ。ビルボ大旦那のお話も、大好きでした。でも、フロドの旦那のお話は、なんちゅうか、こう胸に迫ります。一度読んだだけじゃ分からねえ、それでも何度も読んでるうち、どんどん心の中に入ってくるんですだ。それで、いつしかそのお話で心がいっぱいになっちまうんです。」
驚いたように、フロドはサムを見ました。
「ですから、フロドの旦那。おら、そのお話が出来上がるの、とっても楽しみにしてるんですだよ。そんで、きっと子供たちもワクワクしながら聞くんです。『ねえ、父ちゃん、それでどうなったの?』って言うんですだよ。昔のおらみたいに。それで、昔の旦那みたいに、おら答えてやるんですだ。『ちょいと待ちな、お前はどう思うね?』って。」
そう言ったサムの瞳は、昔と全く変わらず、澄み切っていて美しく、そして純粋なままでした。
『ああ、そうだ。』
フロドは思いました。お前たちの、そんな笑顔を見たいから。お前がそうやって、物語を望むから。お前の子供たちが、いつか瞳を輝かせて読む日が来るのだから。それは約束された未来だから。そのためにわたしはペンを取ろう。フロドはそう思い、再び机に向かいました。いつかビルボも向かっていたこの机に。そして思うのでした。ここは、やはり夢の詰まった場所だと。ただ、その夢が空想ではなく、現実に願う未来に変わっただけなのだと。
「そうだね、サムや。わたしは書くよ。」
そうして微笑んだフロドの顔は、どこか儚くそしてやはり歳を重ねてはいても美しいままなのでした。
おわり |