9・シェロブの巣で
エアレンディルの光は、確かにシェロブを多少なりとは退かせました。その眩い光は、暗闇の忌むべき生き物にはあまりに明るすぎました。しかし彼女の空腹を満たしたいという欲求は、そのような恐れを全て葬り去るのに十分すぎるほどでした。光を向けられてなお、シェロブはフロドを襲ってきたのでした。フロドは恐怖のあまり、シェロブの足をつらぬき丸で切りつけました。しかしそれがよくありませんでした。その痛みはシェロブに確かな感覚を与え、それが空腹を満たすに足る存在であることを認識させてしまったのです。それまでよりもはるかに猛烈に迫ってくるこの怪物に、フロドは本能的に走り出していました。逃げて、逃げて、逃げて。そしていつの間にか、大切な光をも失い、ただ何も考えられず走り逃げる獲物と成り果てていました。ふっと後ろからの気配が緩みました。フロドがはっと振り向きましたが、次の瞬間、ねばねばした糸に絡まり身動きが取れなくなってしまいました。
「ああっ!」
フロドは叫びました。蜘蛛の巣にひっかかり、自分の体が強制的に宙に浮いているのを感じました。ほんの一瞬何が起きたのか分からなかったフロドに、耳障りな音が聞こえてきました。
「――いうことを聞かないハエ、小さなハエよ どうして泣き叫ぶ 蜘蛛の糸にからまり どうして叫ぶ もうすぐお前は 喰われるというのに――」
それは嬉しそうなゴラムの歌声でした。冥い欲望を吸収して膨れ上がった醜い気持ちの歌でした。フロドは今やもう、完全にゴラムの善い心がなくなってしまったのかと思わずにはいられませんでした。
『わたしもいつかあのようになるのだろうか、この指輪を葬らない限り。でもここで死んだら同じこと。――全ては闇にかえり、わたしの落ちた闇も同じ闇の中に紛れて、全てはただ闇の中――』
フロドの頭の中に、そんな昔の暗黒時代を歌った唄の一節が思い浮かびました。しかしフロドは力の限りその思いに抵抗しました。すると手にあるつらぬき丸は、少しずつではありますが、糸を切り裂き始めていました。
フロドの様子をにんまりと笑って見ていた、その企みがもうすぐ成就されると信じていたゴラムは、フロドの身から糸が離れていくのを見、甲高い悲鳴をあげました。何ということでしょう。フロドは糸から自由になり、シェロブが現れる直前に逃げ出してしまったのです。ただし、あの痛くて冷たい光る剣はその場に置き去りにされていました。砂地を滑り落ちたフロドを、ゴラムは追いかけました。ここで、この好機を逃しては、ゴラムにはいとしいしとを手に入れる時はないでしょう。それをゴラムは分かっていました。ですからフロドへの憎しみを全て手の先にこめて、フロドに飛び掛り、そして岩にその細っこい首と頭を叩きつけました。
「わしらのもんだよ!わしらの!いとしいしと!わしらのなんだよぅ!」
フロドは、この力がこの醜い生き物のどこから出てくるのか分かりませんでした。ただ憎しみだけがゴラムを動かし、渇望だけがゴラムの目を爛々とさせていました。フロドとゴラムは縺れ合い、転がり、そして己の身の内に巣食う凶暴な思念だけに従って相手を殺そうとしていました。フロドがゴラムの首を絞めていったのです。それは「ホビット庄のフロド」にはありえないことでした。しかし確かにその時、フロドはゴラムを殺そうとしていたのです。サムと同じように。いいえ、サムよりも激しく。そのままフロドが手を離さなければ、フロドはもうフロドではなくなっていたでしょう。しかしゴラムの咽喉から絞り出した偽りにまみれた言葉が、フロドの正気を呼び戻しました。
「スメアゴルは旦那を傷つけたりしないよ!しないんだよぅ!助けて旦那さん!全部、ぜーんぶいとしいしとが、わしらにやらせたのよ!」
フロドは、はっとして手を離しました。
『わたしは一体、何をやろうとしていたのか?』
自分に問うてみても、ゴラムへの殺意は消えませんでした。しかしそれを押さえ込み、フロドは我に返りました。本当の自分に。
『何をしていたかなど、わたしは分かっているはずだ。わたしがサムを追いやった理由はこれだったはずなのに。このゴラムへの憎しみとこの醜い気持ちだったはずなのに!わたしはサムと同じことをしていた。いや、サムは純粋にわたしを助けようとしただけだった。その気持ちから、自然に生まれた行動だったのに!わたしは一体何をしようとしていた?わたしはただ、この指輪がこいつに奪われるのが嫌さに、ただそれだけの理由でこいつを殺そうとしたのだ!なんてことを!わたしは欲望に取り付かれているんだ!ここでゴラムを殺したら、わたしは確実に第二のゴラムとなるだろう。いいや、もっと酷いことが起こる。ゴラムだってまだ善い心が残っているだろうと信じてやらねば、わたしも同じ、哀れで醜い妄執に取り付かれた生き物になってしまう!』
そしてフロドは荒く息を吐きながら、悲しそうな顔をしているゴラムと目を合わせずに言いました。
「わたしはこれを破壊しなければならない、スメアゴル。分かっておくれ。わたしはこれを、どうしても壊さなければならないのだよ。わたしたち、二人のためにもね。」
一瞬、ゴラムの顔に悲しみの表情が膨れ上がりました。そしてその後に憎しみが勝り、フロドに飛び掛っていきました。
「いやなんだよぅ!」
しかしゴラムの力はフロドを飛び越し、その後ろにある岩の裂け目に吸い込まれていきました。ゴラムの体が投げ出され、そして尾を引く悲鳴をフロドの耳に残し、闇へと返っていきました。ゴラムは谷に落ちたのでした。
「赦し」に続く。 |