3・姿をあらわした陰謀
また再び夜になり、星も輝かぬ闇が辺りから押し寄せてきました。ホビットたちが休みをとろうとしたのは、ほんの小さな水溜りの側でした。この水が、どれほど穢れているのか、それはフロドには考えたくもない事実でした。ここはまだイシリアンなのです。それなのに、その水はどこか濁りをおびているのでした。ゴラムはおいしそうにそれを喉を鳴らして飲んでいましたが、サムは一度火をしっかりと通すまで、フロドの口に入れることを断固拒みました。背負っている鍋と、他にも役に立つ懐かしい道具を取り出して、サムは湯をわかしてフロドに飲ませてやりました。レンバスもほんのひとくちかじり、そしてホビットたちはそれだけでもう、疲れに押しつぶされて横になりました。今やもう、ゴラムを気にしてずっと起きていることなど、到底無理なことなのでした。今のところ、ゴラムはいつもどおりです。喉をゴクリゴクリと鳴らしていやな音をたててはいても、地面を這いつくばる様子がどれほど醜くても、道案内として素直にふたりに従っているようにも見えました。もちろんサムは疑いをこれっぽっちも晴らしてはいません。しかし、疲労は警戒に勝り、サムは眠りの底にゆっくりと沈んでいきました。
フロドもサムもゴラムも、みな同じように疲れ果てて眠っていました。そこに聞こえるのはいやらしい小さな虫の足音と、生ぬるい風が地面の砂を巻き上げるかすかな響きだけでした。フロドは何の表情も見せず、静かに寝息をたてていました。サムはホビット庄にいる時とは比べ物にならないくらい神経を研ぎ澄ませたまま眠ったような形相をしていました。そしてゴラムは、小さく呟きながら眠っていたのです。
「とっても危ないよ、危ないんだよ!あいつら盗むよ、わしらのいとしいしとを盗むよ。殺すのよ、やつらを殺すのよ!あいつらふたりともだよ!」
思いのほか、ゴラムの寝言は辺りに響き渡りました。そしてゴラムは自分の声、いえ、あれは本当に自分の声だったのでしょうか。それは誰にも分かりませんでしたが、その声で目を覚ましました。
『シィ!静かにするんだよ。起きちまうよ。』
どこからか、そんな声がしました。そこには確かに、二人の人格が存在していました。ゴラムは水を覗き込みました。するとそこには自分がいました。これが自分なのかと、スメアゴルならば目を覆いたくなるほどの有様でした。スメアゴルは、これが自分ではないと思いました。これは「ゴラム」だと。ですからスメアゴルは小さい声で呟きました。
「でもホビットたち知ってるよ。いつでもわしらを見てる。ふとっちょのホビット、いつも怖い目で見てるよ。」
『じゃあわしらはいとしいしとをなくすよ。スメアゴルはなくしてもいいんだ、いとしいしと。』
「そんなことないよ!スメアゴル、嫌なホビットたち大嫌いよ。スメアゴル・・・あいつらが死ぬの、見たいよ。そうよ、見たいのよ。」
『そうよ、わしらそれが見たいのよ。わしらできるよ、できるのよ、一度やったよ。わしらもう一度それやるだけよ。そしたらいとしいしとはわしらのものよ。誰にも渡さない、わしらのものよ。そうよ、いとしいしと。』
「わしらのもの!いとしいしとを取り返すのよ!」
『そうよ、いとしいしと、あのしとのところに連れて行けばいいのよ。連れて行くだけよ。あのしと、いつも腹減ってるよ。あのしと、いつもお腹ぺこぺこよ。食べるよ、きっと食べるよ。そこには何が残る?いとしいしと。』
「そうよ、いとしいしと、いとしいしとが残るのよ。ホビットたちいなくなるよ、いとしいしとわしらに戻るよ!わしの手に!」
『わし?わしらよ。いとしいしと』
「そうよ、そうよ、わしらよ、ゴラムゴラム!いとしいしと、わしらのものになるよ、そんでホビットたちは死ぬのよ!」
そこで、ゴラムとスメアゴルは確かにひとつになってしまいました。もうそこには、今までのスメアゴルがいながらにして存在しなくなっていました。良心という心の欠片が、永久に失われてしまった瞬間でした。スメアゴルはその恍惚感に浸り、高まった胸を押さえきれずに石を水面に落としました。そしてその波紋が静まった時、そこにはサムの姿がはっきりと映っていました。
サムは、ゴラムが何かしゃべっているのに気がついて、ゆらりと眠りの淵から這い上がりました。何か声が聞こえます。ゴラムは一人です。でも、二人のように聞こえました。そしてサムはその会話を全て聞いてしまったのです。なんと言うことでしょう!ゴラムは自分と大切な主人を殺そうとしているのです。今までの疑いが、はっきりと形を持ってあらわれました。これ以上、何を待つと言うのでしょう。サムは音を立てぬようにゴラムの背後に立ち、怒りのあまりにその妙に大きく目立つ頭めがけて鍋を振り下ろしました。
「このいまいましい畜生め!」
その衝撃と、怒声にはっと後ろを振り返ったゴラムは、まだフロドが眠っているのに気が付きました。そして出来る限りの哀れな声で叫びました。
「ぎゃぁぁ、やめてくれよ、やめるよ!旦那さん!」
その声は、あまりに大きくそして耳障りなため、一瞬でフロドを眠りから揺さぶり起こしました。そしてフロドは目の前に、信じられない光景を見たのでした。そこには、凶器となった鍋を振り上げてゴラムに襲い掛かるサムと、そしてどこからかどす黒い血を流しながら逃げ惑うゴラムがいたのでした。
「サム!」
フロドはサムが何をやっているのか分かりませんでした。何があったのかも分かりませんでした。しかしそこにいるのは確かにいつもの、そういつものようにフロドの側にいつもいるサムではありませんでした。目をぎらつかせ、殺気を漂わせながら、弱いゴラムに手をあげている乱暴者にしか、残念ながら見えませんでした。
「サム!」
フロドはもう一度叫びました。怖かったのです。サムがとても、怖かったのでした。いつものサムはどこへいったのでしょう。フロドはサムを取り戻したいばかりにサムの後ろからかれに抱きついていました。お願いだ、サムに戻ってくれと願いをありったけ込めて。しかしその思いも、サムの怒りを静めるのには役に立ちませんでした。フロドに動きを封じられながらも、サムの目は怒りに満ち、そして呪われた言葉がその口からあふれ出るのでした。
「この嘘つきが!おらたちをどうするつもりだ!蛆虫め!」
「サム、やめるんだ!迷ってしまう!」
その言葉は、やっとサムを少しだけ落ち着かせました。怒りは少しもおさまりませんでした。それはゴラムに向けての怒りと、そんなゴラムに気がつかず今日も眠りこけてしまった自分への怒りと、そしてそれを許しているフロドへの、もしかしたらこれがサムにとって初めてかもしれない、暗い怒りでした。しかしその怒りが余りある愛から出たものだと、フロドは思おうとしました。サムがそんなことをするはずがないのですから。でもサムは、振り向いてこう言いました。
「それが何だって言うんですだか!おらは、あいつに殺されるのをおちおち待ってられませんですだよ!寝首をかかれて、今日にも死ぬかもしれないのに!」
「わたしはゴラムを追い払うことはしない。できないんだよ、サム。」
「でも!でもあなたは見なかったんですだか?やつが何をしようとしたか!何もお聞きになってないんで?やつがどんなことを言ったのか!」
フロドが見たものは、怒り狂ってゴラムを襲うサムと、それから逃げ惑うゴラムだけでした。そしてフロドの耳には、恐ろしいサムの声と、哀れなゴラムの声だけが聞こえたのでした。
「何をお前が聞いたのか、わたしは知らないよ、サム。でもわたしたちだけではたどり着けないところに行くのだよ。どうか分かっておくれ。わたしはお前の助けが必要なんだ。お前に、わたしの側にいてほしいんだよ。」
フロドは、自分に言い聞かせるようにそう言いました。そうでも言わなければ、今にもサムをおいてどこかへ行ってしまいたいと思ってしまいそうでした。どうしてこんなことを考えるのでしょうか。それはフロドの頭のどこか隅で生まれて、そしてそのまま出てこなかった疑問でした。答えはいつもフロドの首にありました。これこそが、指輪の力でした。信頼するものを違え、見えないものが多くなり、そして一番大切なものさえも見失う目の濁りを招くもの。それが指輪でした。
ひとつ、大きく息を吸ったサムが言いました。
「分かってますだ。分かっています。おらは、いつもお側におります。あなたの側に。そしてあなたをお助けしますだ。フロドの旦那。」
「ああ、知ってるよ、サムや。わたしのサム。どうか、わたしを信じておくれ。」
そう言って、フロドは長い間見つめ合っていた視線をサムからほどき、ゴラムを一瞥しました。その瞳には、哀れみとそして悲しみが混ざっていました。
「さあおいで、スメアゴル。」
ゴラムはそれに、上目づかいで同情を誘いながら答えました。そして、フロドの手に自分の手を重ねました。そして一度もサムを振り返らず、先に立って歩き始めました。そこは、今までは、そう確かに今まではサムの居場所でした。フロドに一番近い、そしてフロドのぬくもりに触れられる場所。しかしそこはもはや、悪意と陰謀に挿げ替えられてしまっていたのでした。サムは、あまりの悲しみにフロドの姿が少し遠くなるまで何もできないでいました。ただ自分の手を見つめ、この手にあの場所がかなわないものになったことを悟っていました。ずっとずっと昔から憧れていたあの場所が。ずっと、ここにあるものだと信じて疑わなかったあの場所が。そして呆然としたままのサムは、後ろを振り返ってにやりと嘲ったゴラムの瞳を見ることはありませんでした。
「ミナス・モルグルの砦」に続く。 |