Some good in this world
これはフロドの小さな物語です。 フロドは不思議な雰囲気を持つホビットでした。幼い頃から賢明でおとなしく、聞き分けが良いのに自分というものを持った子供でした。それは子供と言うよりは世を悟った老人や魔法使いやエルフに近い存在のように感じられました。周りの普通の(ホビットの基準からして)ホビットはそんなフロドがビルボに引き取られ養子になった時は、妙に納得したものでした。『ああ、あの変わり者のビルボじいさんとフロドか。』と。そんなフロドの話をしましょう。 フロドがビルボの養子になってしばらくし、サムが本格的にとっつぁんから庭師の仕事を教わり始めたある春のことでした。フロドはもう習慣のようになってしまった森での散歩をひとりでしていました。何を考えているのかは、その時々でまちまちでした。楽しい気分でただ歩く時もありました。沈んだ気分を晴らそうと歩く時もありました。しかしいつも共通してフロドの心の中にあったのは、ここには自分ひとりしかいないということでした。 フロドの心にはもう古くなって綺麗に塞がった傷がありました。それは幼い頃に亡くした両親の記憶でした。両親を亡くしてからのフロドは決して不幸というものではありませんでした。周りのホビットたちはかれらなりの精一杯のあたたかさでフロドを育てましたし、特にビルボはフロドを見込んで可愛がり、さまざまなことを教えてくれました。しかしかれらはフロドから一歩離れた存在でした。フロドは賢い子でした。めったに泣くことのない子でした。そして、泣きたいと思っていることを周りに悟らせない子でした。幼くして心が成熟していたのだと、そう思われがちでした。そうではないのに。フロドは心の静かな波を自分ひとりで感じて育ってきたのでした。だれもその濱にはいませんでした。波をふざけて荒立てる者もいません。一緒に眺めるものもいません。フロドはひとりという意味を知っていたのでした。そしてそれは守るべきものではありませんでした。こわされてもほんの少し胸が痛むくらいの砂の城のようなものでした。 フロドは森を歩いていました。静かに自分の心の波を見つめて、周りの木々の緑や下草、小さな花々、太い幹、梢からのぞく空を目で感じていました。静かで晴れた、よい日でした。 ふと、フロドは何かの羽音で長い記憶の糸を手繰るのが中断されました。バサバサッ、という必死ではありますが弱々しい羽音でした。フロドはどうしたんだろうと思いました。深く考えず、その音のする方へと足を向けました。フロドが膝まで伸び下草をかきわけて歩いて行くと、急に木々が途切れて円形の、ちょっと見渡すくらいの大きさの野原が目の前にひらけました。花はそこかしこに咲き乱れ、それぞれは小さく儚げであっても群れて色をなしていました。新緑の中にちりばめられたその色とりどりの花々は一心に空を見上げ、まっすぐに立っていました。空のあおと、木々の緑、花々の様々な色合い、それに森の薄い闇が奇妙なコントラストでそこはまるで存在しない夢の中の世界のようでした。音は、その原のちょうどまん中から聞こえていました。 フロドは一瞬、その原に足を踏み入れることをためらいました。入ってはいけないような気がしたのでした。なぜならフロドはその円に入らずとも、羽音の主が見え、なぜそんな音をたてているかが理解できたからでした。それは老いて色あせた深い蒼の小鳥でした。何かをその細い足で持ち上げようと必死に羽を動かしているのでした。その何か、とは地面に死んで横たわった一羽の薄茶の小鳥でした。それはレナルという小鳥のつがいでした。かれらのおすは美しい声と目の覚めるような蒼い羽を持っていました。かれらのめすは目立たない小さな声と薄茶の羽を持っていました。かれらは一度つがいになると一生連れ添うことでホビットたちによく知られている鳥でした。今、何の理由があったのでしょう、片方の連れ合いだけが命を落としていました。フロドは思いました。この鳥にこんなことをいつまでもさせておいてはいけないのだと。 彼女は年老いて眠るように死んだのだとフロドは思いました。そして自らこの美しい場所を選んだのだと、思わずにはいられませんでした。しかしかつて美しかったおすにはそのことが分からないようでした。もし分かっていたのだとしても、それを自ら認めようとはしていませんでした。めすの羽を細い足で持ち上げ、一緒に飛び上がろうとしていました。フロドはしばらくそれを悲痛な面持ちで見ていました。しかし薄茶の羽がぼろぼろになり、綿毛のようにふわりと舞うのを視界の端に入れたとたん、木陰から走り出しました。 一瞬、フロドは明るさで目が眩みました。蒼い小鳥はばっと飛び立ちました。しかし遠くには行かず、小さく距離をとってフロドと連れ合いを見つめました。フロドは地面に落ちた薄茶のからだをそっと手の平にのせました。そして指でそっと羽を整えてやりました。くちばしを閉じさせ、硬直した硬い足をきれいにそろえてやりました。そしてまだこちらを窺う蒼い連れ合いに向かって小さな声で言いました。 夕方、サムが屈んでいた腰を伸ばそうと、うーんと言いながら顔をお屋敷の方に向けるとフロドが何かを大事そうに持って帰ってくるのが見えました。今日はこの辺にしておくかな、とサムは思いました。自分の回りに散らばった小さな植え替え用の鉢やらタオルやらをサムが拾って腕にいっぱい抱えてもう一度視線を上げると、そこにはフロドが不思議な目の色をして立っていました。 もう随分薄暗くなった森の中を二人は黙って歩いていきました。しばらく歩くとさっきの野原につきました。円の中心に来てフロドが立ち止まると、サムは思わず、はぁっと満足げな溜息をつきました。 「わたしはひとりだった。お前が彼女を受け取ってくれるまで。たったひとりで、残った蒼いレナルの悲しみを救おうとしていたんだ。わたしはかれに言ったんだよ。お前はもう、ひとりで波を見なければいけないと。わたしのように。わたしは心の濱で、ひとりでいたんだ。たったひとりで。だからかれもこれからはひとりでその濱を飛ばなければならないと思っていたんだ。傷は必ずふさがるのだから、小さな胸の痛みは崩れても守るに値しないと。それを静かに受け入れるのが残されたものの唯一の生き方なのだと。わたしは、分からなかったんだよ、サム。守るべきよいものがこの世界に存在することが。もし、お前がわたしの側に、すぐ側にいなければ。手を伸ばしたらすぐに届く、ここに。そしてお前が彼女を受け取ってくれなかったら、わたしはまだ気がついていなかっただろう。守るべきよいものは、この世界に無数に存在することに。そしてそれはわたしのすぐ側にもあったことに。」 フロドは辛い旅の途中、確かにこう思ったのでした。このようなものをわたしは守りたいのだ・・・と。 おわり |