8・死者の沼地
それからの旅はまったく嫌なものでした。ゴラムの行く方へ行く方へと夕暮れの薄暗いような道をただただ進んでゆくのでした。それもだんだん臭いは酷くなり、地面が水で濡れ、ぶよ水の沼のような生暖かさもありました。いきなり、サムの足がずぼっと泥の中に突っ込みました。
「沼だ。沼ですだ、フロドの旦那。」
サムはコウベサセムシのことを思い出して思いっきり嫌な顔をしてみせました。しかしこの沼はそれだけではありません。ただの泥ではなく、なんだかぬるぬるねばねばした水で、草も枯れ果て、腐った根が足に絡みました。
「こいつめおらたちを沼に引き込む気ですだよ!」
それが聞こえたのか、ゴラムは珍しくサムに向かって口をききました。
「そうよ、沼よ、そうよそうよ、おいでよ旦那。オークたちこの道使わないよ、オークたちこの道知らないよ。あいつらずっとずっと遠回りしるよ。おいでよ、早くだよ!すぐにだよ、急ぐんだよ、影みたいにだよ!」
そう言ってゴラムはふたりの先を進みました。あちこちくんくんと臭いをかぎ、はいつくばって澱んだ泥をかきわけて進んでゆきました。沼は何マイルも何マイルも、見える限りに広がっていました。そのなかでゴラムとホビットたちはほんの小さな点にしかすぎませんでした。しばらく下草の腐った中を掻き分けて進んでゆくと、だんだん水がたまっている部分が多くなってきました。ちらちらと、小さな火が沼のそこかしこに見え始め、やがて一同をとりかこむほどの数になりました。ふと、足元を見たサムはびっくりして足を水からばっと離しました。
「死人ですだ!死人の顔が水の中にありますだ!」
サムは驚いていましたが、フロドはむしろ悪いものに引き付けられるようにじっとその水の中を見つめて何も言いませんでした。ゴラムが首をぐるりと回してそれに答えました。
「みんな死んでるよ、みーんな腐ってるよ。おそろしいエルフに大きな人間にオークも、みんなよ。ずっと前に大きな戦争あったよ、ずっとずっと昔によ、そうよ、わしの若いころよ。いとしいしとの来る前よ。死者の沼地、そうよ、それが名前よ。こっちよ、ホビットたち!明かりに近づいちゃだめよ。」
そう言うそばからサムがもう一度水に足をつっこんでしまいました。
「気をつけるのよ!今言ったよ、ホビッ落ちたらちっちゃなろうそく灯るよ。死人の仲間入りよ。」
そう言ってゴラムは厳しい一瞥をサムに投げました。サムも、今はゴラムに完全に頼るほかありませんでした。ぷっつりと黙り込んだフロドが一番後に続きました。サムがゴラムに遅れまいと一生懸命に歩いていたその時でした。後ろで、水音がしました。サムには何が起こったのか一瞬で理解できました。フロドが水に落ちたのでした。しかも倒れるように。
「旦那!」
サムはフロドに駆け寄ろうとして何度も足を沼に突っ込みました。そのたびにぬめぬめと糸をひく水と植物の形もなくなったようなものがサムの足に絡みつきました。それでもサムは必死にフロドに近づこうとしました。その横をぴょんぴょんと飛んでフロドに近づくものがいました。ゴラムでした。
フロドはどうして自分が明かりの方へ行ってしまったのか分かりませんでした。何か声が聞こえていました。いえ、声というほど大きなものでもはっきりしたものでもありませんでした。しかし、何かがフロドを呼んだのでした。ふらふらと、足が勝手にゴラムの進む道から外れて行きました。耳には、その呼び声以外何も聞こえませんでした。耳鳴りと眩暈がしました。フロドはある甲冑を身に着けた死者の前で立ち止まりました。それは何百年も前のものであるのにも関わらず、とても色鮮やかでした。肌は青白くても、水に長いこと浸かっていたとは思えないほど綺麗でした。フロドはその表情に目を奪われていました。どうしてもそこから目が離せませんでした。フロドの意識はあってないようなものでした。キイィ・・・と耳鳴りが酷くなりました。次の瞬間でした。死者が、目を開けたのでした。その真っ白な目を。
倒れた途端、フロドは自分の意識が自分に戻るのが分かりました。さっきまで見えていた色鮮やかな死者はもうどこにも見えませんでした。塵のような腐った根や水草がそこらに浮き、いくつもの死者の爛れた姿を見ました。フロドは目を閉じようと、そして外の世界へ浮き上がろうと必死にもがきました。しかしだめです。どうしても体が持ち上がりませんでした。手をばたつかせればその分おぞましい姿の者たちに近づいていくようでした。いくつも、いくつもの白く濁った目がフロドを見つめました。フロドは空気が急速に自分の中から奪われてゆくのと、意識が遠のいていくのが分かりました。ああ、サム。と、フロドは思いました。死者の仲間入りをするのがお前でなくてよかったと、そう思いました。そして抵抗する力も全てなくなりもう沈みかける時でした。誰かの手が、フロドの首もとを掴み、沼から引き上げたのでした。
フロドは一瞬、何が起こったのか分かりませんでした。息が、できました。空が、見えました。そして、自分は汚い水にまみれて咳き込んでいるのが分かりました。サム?フロドははっとして自分を助けてくれた腕を振り返りました。
「ゴラム・・・」
そこにいたのはゴラムでした。とても信じられませんでした。あまりに驚いたので、いとしいしとを助けるためだったのか、それとも自分を助けるためだったのかと考える暇もありませんでした。
「明かりに近づくのだめ。」
ゴラムはそれだけ言うと、くるっと踵を返してまた沼を進み始めました。フロドの目は、ゴラムに引き付けられたままでした。フロドは不思議な思いでいっぱいになりました。ゴラムは自分を助けたのでした。
「フロドの旦那!」
ようやく必死のサムがフロドの手の届くところに来ることができました。
「大丈夫ですかい?」
そう言って、サムはフロドを水から遠いところまで後ろから抱えて連れて行きました。フロドの足には力は入らず、フロドの視線はゴラムの行った方へ向いたままでした。そしてサムの言っている言葉も届いてないようでした。そんなフロドを見て、サムはどうしようもない悲しさに襲われました。どうしてフロドはこちらを向いてくれないのだろうと。どうして大丈夫だよ、と言ってくれないのかと。フロドの心がどうしてサムを見てくれないのだろうと、そう思いました。しかしそれも指輪の力と、指輪によって狂わされたゴラムのせいだと思うことで、サムは次の行動に移ることができました。
「ゴラム!おい、お前だよ、ちょっと待つだ!旦那様がびしょ濡れだ。着替えるまで待つだよ!」
そう言ってサムはフロドに向き直りました。
「さあ、服を脱いでくだせえ。おら、ちょっとは旦那のお着替えも持ってきてますだ。お体を拭く布だってありますだ。」
しかしフロドは何かを心から抜かれたように動くことができませんでした。ゴラムは立ち止まって遠くからその様子を見ていました。はたから見れば過保護なほど甲斐甲斐しい世話のように見えました。フロドは時折サムの言葉に反応してうなずくだけで、考えが他の何かに奪われていたのでした。サムはそっとその濡れた身体から汚れた水で重くなった服を取り去り、すぐに清潔な布でフロドの白い肌を拭きました。フロドは少しだけ震えているようでした。
「こんなになっちまって。おかわいそうに。」
サムは悲しそうにそう呟きました。
「おらがもっと気をつけてさしあげてりゃよかったのかもしんねえ。でも一体どうなさったって言うんだ?水の中で旦那は何を見なすったんだ?分からねえ、サムの分からねえことばっかりが増えてくようだ。大丈夫ですか?寒くないですか?」
そうするうちに素早く着替え終わったようでした。フロドはその日が暮れて、夜になるまでそのままの調子でした。黙り込んだまま、ただ足を引きずるようにして道なき道を進むだけでした。進む速さは最初の半分くらいになり、ゴラムが何度も何度も振り返ってはふたりを急かさないといけないほどでした。ゴラムでなくともサムも分かっていました。このような沼ではとても休めないと。それに真っ暗になってしまってはこの灯っている炎たちが強くなり、前には進めないと。ですから必死で進みはしたのでした。ですが、サムはあのようなことがまた起こるのを怖れて、フロドの身体を腕で支えながら進んだので一行に道ははかどりませんでした。
「ゴラムとスメアゴル」に続く。 |