・裂け谷

 

 サムはやっとエルフの国へ到着したと言うのにずっと浮かない顔をしていました。目に見えるものたちは全てが美しく、水の流れや空気でさえすがすがしく感じられるはずでした。しかしサムは主人が心配でその美しさを堪能できませんでした。ガンダルフに再開し、エルロンドの元へつれられて行っても黙ったままです。賢く歳をとった美しいエルロンドにサムがはじめに言った言葉は
「旦那はどこですだ?」
でした。エルロンドは表情を変えることなく口元にあるかなしかの微笑を浮かべただけで大丈夫だとサムに言いました。もうあと数時間遅かったら助からなかったと聞いたとき、サムはまた自分の愚かさをのろいました。
「おらは何にもできんちゅうのに、エルフのした事に文句言っちまっただよ。このお人らは旦那を助けてくれたでねえか。おらがはじめにすべきことは感謝っちゅうことじゃなかっただか。まったくお前にはほとほとあきれるこった、サムワイズ・ギャムジー。」
それもつかの間でした。サムはエルロンドに自分の主人の世話をさせてもらいたいと頼み込みました。
「おら、なにもできませんでしただ。旦那が苦しんでるのをただ見てることしか。どんなに旦那が呻こうが、和らげて差し上げることができなかったです。旦那を助けてもらった事、一生忘れませんですだ。ですがおら、ここにおらのできることがあると思いますだ。旦那が眠りなさっている間、おらは旦那のお世話ができますだよ。いつもやってたことで。旦那がお風邪をひいた時もおらがお世話しましただ。どうかお願いですだ、おらにそれくらいのことはやらせてくださらねえでしょうか。」
するとガンダルフは笑って言いました。
「分かった、分かったから口を閉じよサムワイズ!もう彼はエルフの治療を必要としないだろうよ。お前が責任を持ってフロドの旦那のお世話をするがいい。」
それを聞いてサムは今にも飛び上がらんばかりに喜びました。
「ありがたいこってすだ、ガンダルフの旦那!おら寝ずにフロドの旦那のお側にいてさしあげますだ。」
そう言ったサムにはやっと裂け谷の美しさを感じる余裕ができました。そこは本当に美しく、サムにはその美しさをあらわすことなど出来そうにないと思いました。
 

 それから毎日サムはフロドの寝室で看病をしながら過ごしました。使い走りに部屋を出る他は昼も夜もつきっきりでした。メリーとピピンでさえサムは入らせません。出入りできたのは館の主人のエルロンドとガンダルフだけでした。サムの看病はそれはもう親身なものでした。傷はエルフの薬でふさがっているようですが、フロドは時折苦しそうに呻き声をあげました。夢を、見ているようでした。そんな時、サムは側に座り、フロドの手をずっと握っていてやりました。サムがフロドの額にかかった髪をのけて汗を拭いてやり、そっとフロドの頬に触れてやると、フロドは決まってすこし楽そうになるのでした。しかしそれでもフロドはもう3日と4晩も目を覚ましません。サムが懸命に水を飲ませようとしますが、薄く開いた唇からはいつもほんの少ししか含ませる事ができません。食べ物など、もちろん飲み込む力もありませんでした。フロドの身体はホビット庄を出る頃と比べ物にならないほど細くなっていました。白い肌はさらに青白く、サムが見ると時々光さえ透けて見えるような気がしました。それでもフロドがもっているのはエルフの水と呼ばれるもののおかげでもありました。良い香りのする淡い新緑のような透明で輝く水でした。

フロドは真っ白い光の中で目を覚ましました。しばらく開けたことのない瞳にとって、外の光は強すぎました。それでもフロドは起き上がりました。正直エルロンドもガンダルフもフロドがこんなに早く回復するとは思ってもいませんでした。フロドは、はじめ自分がどこいるのか、なぜ寝ているのか分かりませんでしたので、
「サムはどこですか?」
と足元の椅子に腰掛けているガンダルフに聞きました。ガンダルフはいきさつをゆったりと説明してくれましたが、途中で難しい顔になって黙り込んでしまいました。
「ガンダルフ?どうしたんです?」
「なんでもない。」
そう言ってガンダルフが無理に笑顔を作った時、サムとエルロンドが入ってきました。
「フロドの旦那!」
サムは思わずそう叫んでいました。そしてフロドに駆け寄り、おずおずと恥ずかしそうに、でも愛しそうに手を取ってその暖かさを確かめるようにそっと両手で包みました。彼はその手をそっとさすっていましたが、次の瞬間には顔を赤らめ、急いで面をそむけてしまいました。
「やあ、サム!」
フロドが嬉しそうに、やさしくそう言いました。
「あったかいですだ!旦那の手のことです。ずっと旦那の手は冷たいままだった。でも、もう大丈夫みたいですだ。」
サムはまたフロドの方を向いて目を輝かせました。そこでやっとガンダルフに気がついたかのように見えました。
「心配しましたよね、ガンダルフの旦那。」
そう言ってサムはもう一度フロドの手を取りました。フロドもサムの手に自分のもう片方の手を添えました。
「ありがとう、サム。お前とエルロンド卿にエルフたちのおかげだよ。わたしはもう大丈夫だ。」
フロドはそう言ってサムを見つめました。そして二人は幸せそうににっこりと笑いあいました。
 

 もう寝ていられないよとサムに言ったフロドは起き上がりました。エルフのねまきをぬいで、いつものホビットの服に着替えたフロドは、サムに谷を案内してくれとせがみました。サムはまだフロドが寝ていた方がいいと思っていました。しかし主人があまりに歩きたがるので、まだしっかりしない足元を支えるように腕をとってやりました。サムはいくつかの美しい廊下を通り、たくさんの階段を降り、それでもまだ高いところにある庭にフロドを連れて行きました。フロドが歩くたびに木の葉や花々がフロドの髪にふわっとかかり、フロドは無造作にそれを手で払いました。そのしぐさを見ているだけでサムは幸せな気持ちになりました。二人の間に言葉はありませんでしたが、二人とも満ち足りた顔をしていました。

 サムがフロドを連れて行った庭では、待ちかねたようにメリーとピピンが立っていました。
「フロド!」
そう言ってメリーとピピンはフロドに飛びつきました。
「フロド!よかった。元気になったように見えますよ。ずいぶん細くなっちゃってるけどね。」
メリーがそう嬉しそうに言いました。
「フロド、聞いてよ!サムったらずっと今までぼくたちをあなたの寝室に入れてくれなかったんだ。」
ピピンが少し不満そうに言いました。でももちろんその目は嬉しそうに笑っていました。
「二人ともありがとう!わたしならもう元気だよ。ピピンも許しておくれ。サムはわたしの事が心配でたまらなったようだから。」
そう言ってフロドはサムの方へウインクしてみせました。サムの頬がさっと赤く染まったようでした。それを隠すようにサムは言いました。
「旦那に会わせたい方がもう一人いらっしゃいますだ。」
それはビルボでした!
「ビルボ!」
フロドは叫んでビルボの座る椅子へ駆け寄りました。サムとメリーとピピンはその様子を見てやさしく笑いあいました。二人にゆっくり話しをさせてやろうと、そっとその場から離れました。
 

 ビルボは髪も白くなり、ずいぶん歳を取って見えました。というよりむしろ普通のホビットのその歳相応の姿になったと言った方が良いでしょう。ビルボは少し震える手をフロドのほうへ差し出しました。もう一方の手には赤い表紙の分厚い本がありました。
「行きて帰りし物語、ホビット ビルボ・バギンズ」
フロドは表紙をめくって目に入った文字を読んでみました。
「すごい!」
フロドはビルボの本をめくりながら目を輝かせました。幼い頃から聞いていたビルボのお話が、ここで本になろうとしていました。ビルボは本当はもう一度離れ山へ行くつもりでした。知り合いのドワーフたちにも会うつもりでした。しかしビルボはここで歳に負けたと言います。物語を書くにはよいところでした。エルフたちはそんなビルボが好きでした。ビルボの本にシャイアの地図が描かれています。
「ホビット庄が懐かしい。」
フロドがそうぽつりと言いました。目はとても寂しそうでした。子供の頃からフロドはビルボの旅の話に憧れていました。自分もビルボと一緒に冒険の旅をと。最後はめでたしめでたしで終わるような冒険をと。しかしフロドの旅は全く違うものになってしまいました。もう一度フロドは地図を見て、指先でそっとたどってみました。あふれそうな涙を一心に鎮めているようでした。
「フロド・・・わたしの大切な息子よ・・・」
ビルボは悲しそうにそう言いました。
 

 フロドが若いホビットたちのほうへ戻ってくると、そこにはメリーとピピンの姿はなく、サムが一人で荷造りをしていました。
「忘れ物はないか?」
サムはひとりごとを言っています。
「サム。もうお前は荷造りをしてしまったって言うのかい?」
フロドが驚いて話しかけました。
「準備しておけば安心ですだ。とっつぁんも言ってましただ。」
「でもお前はエルフに会いたかったんだろ?サムや。」
「そりゃそうですだ。旦那。」
サムはそう言いました。
「エルフちゅうもんはお話に聞いていたよりずっとすばらしいもんでした。とても歳をとっていて若く、とても陽気で悲しげで、好ききらいとは別のもんのようですだ。」
フロドはびっくりしてサムを見ました。いつものサムのようで、違うサムでもありました。フロドが見たのは思慮深い物思いにふける賢いホビットだったのです。
「ですが、おらたちはガンダルフの旦那に言われたとおりこの谷へそいつを持ってきましただ。もう安全ですだ。おらたちはもう帰ってもいいんじゃないかと思いますだ。」
サムはそう言いました。
「そうだね。」
フロドはそう答えましたがその表情は暗かったのでした。
「わたしも家に帰りたいよ。」
そう言った瞳はどこか遠くを見つめており、ひどく悲しげでした。

「エルロンドの会議」に続く。