20・最後の戦い

 

サムはひたすら登り続けました。背中に確かな暖かさを感じながら。サムは、フロドを背負う前は、指輪だけでもどんなに重いだろう、フロドだけでもどんなに重いだろうという考えが頭に浮かんでいました。しかし実際に背負ってみると、それは信じられないほど軽いもので、身構えた自分の体重で前につんのめってしまいそうでした。一瞬だけほっとしたサムは、次の瞬間にはっとしてフロドの顔を見つめました。白くほんのり紅のかかった頬はこけ、青白くて肉が落ちていました。美しい目も今は垂れたまぶたに隠されて、落ち窪んでいました。サムはそれを見て、胸を裂かれるようでした。こんなに軽くなっちまうほどの道のりだったのか、それほどフロドを苦しめたものがここにあるのか。そう思うとまた涙があふれてきそうでした。体中の水分という水分が出きってしまい、自分の唾でさえ飲み込めないのにどうしてここからはまだ水が出てくるのか、それはサムには全く分からないことでした。それでもサムは登り続けました。そしてとうとう、山の中腹にある岩でできた段と、そのずっと向こうにかすかに見えてきたサンマス・ナウア、滅びの山の入り口が見えてきました。
「旦那!旦那、どうか目をあけてくださいまし。ほら、入り口ですだよ。おらたち、とうとうここまで来ちまったんですだよ!」
そうしてサムの声に、フロドはうっすらと目をあけました。フロドはかすれる声で、サムにこう言おうとしていました。ありがとう、と。しかしそれが音となる前に、ふたりに衝撃が襲い掛かってきました。
 

「しどい旦那だよ、ずるがしこいホビットたちだよ!わしらから取って、こんなとこに来たよ。こんな高いとこまでよ!」
それは憤怒に顔を歪めて飛び掛ってきたゴラムでした。もう、ゴラムの目には指輪しか見えていませんでした。つらぬき丸も、サムも、そして指輪をはめているフロドでさえ、ゴラムには見えていませんでした。ゴラムには、自分と指輪とそしてそれ以外の世界のくだらないものにしか見えていませんでした。その目は尋常ではない光を宿し、もはやスメアゴルはひとかけらも存在しないかのように見えました。そうして飛び掛ってきたゴラムはサムからフロドを払い落とし、サムはその場に転がりました。フロドに襲い掛かるゴラムを、何とか体制を立て直したサムが引き剥がしに行きましたが、それもすぐにすさまじい力で押し返されました。ふたりのホビットとゴラムは襲い掛かられひっかき、かみつき、叩き、ホビットの頭で考えられうる全ての攻撃をお互いに交わしていました。ゴラムは指輪をただ取り返すために、フロドはただ自分を守り自分の持つものを守るために、そしてサムはただ自分の主人を守るために
 

どれだけ指輪を取ろうとしても、世界の他の邪魔なものがゴラムと指輪の間をさえぎっていました。そんなあまりにしつこいサムにゴラムは首を狙ってかみつきました。しかしそれもサムがつらぬき丸をぬきまでのことでした。ゴラムの腹からはどす黒い血が流れ出し、それは酷くゆっくりとゴラムを濡らしてゆきました。ほんの少しゴラムの世界から指輪と自分以外のものが存在した瞬間がありました。サムはフロドを振り返りました。しかしそこにいるはず――うずくまるか倒れるかしているとサムは思いました――のフロドはおらず、はるか遠くに走って行くのが見えました。サムは、そのフロドの体力がどこから出てきたのかという疑問も浮かぶ間もなく、足が主人を追って走り出していました。
『たった一人で行かせるもんか!おらが最後までご一緒しますだ!』
そう心に繰り返しながら走ってゆきました。後ろのゴラムがどうなっているかとは少しも考えずに。
 

サムは、サンマス・ナウアの裂けた入り口に辿り着き、そして中を覗きました。中は暗く熱く、そして大きすぎる振動が鼓膜と身体を震えさせました。
「フロドの旦那!フロドの旦那ぁ!」
サムが叫んでも、返事はありません。急に胸が苦しくなったサムは、思わずその闇の世界で最も大きな力の生まれた場所へと足を踏み入れました。息さえも奪い取るような空気がサムを包み、震える大地は身体の感覚を狂わせました。
「旦那!旦那ぁっ!」
必死に叫んだサムの耳に、嫌に静かな声が届きました。
「わたしはここだよ、わたしはここに来た。」
その声は静かな響きを持っているのに、力強く滅びの山の火を圧してサムに届きました。そんなフロドの声をサムは聞いたことがありませんでした。そしてフロドに近づこうとしても、サムはそれ以上一歩も動けませんでした。狭くそそり立ったその崖のような場所が怖かったわけではありません。両側から吹き出る溶岩に身の危険を感じたわけでもありません。そんな感覚はすでにどこかに行ってしまったようにサムには感じられていました。サムの足をその場に縫い付けていたのは、他でもないフロドのその声とその目でした。サムは叫ぼうとしました。しかし声が出ません。フロドは亀裂の端にいました。その手には指輪があり、その目には狂喜が宿っていました。サムの背中を、何か冷たいものが流れていきました。
「それを投げ込むんですだ!さあ、お願いですだよ旦那!それをそこに投げるだけですだ!ただそれだけで全ては終わるんですだよ!」
フロドの答えはありませんでした。ただ、指輪をいとおしそうに見つめ、それからサムを見ました。赤々と燃える火が目にも燈り、渦巻く光と熱、炎と溶けた岩。それらの渦は、まるでフロドを違う存在に見せていました。
「何をしてるんですだか?フロドの旦那!それを投げるんですだ!」
指輪はフロドに語りかけていました。イシルドゥアにしたように。そっとやさしく、強烈にフロドを誘いました。サムにはもう何もできませんでした。涙を流し、叫ぶことしか。ふと、フロドがサムを見て微笑んだような気がしました。そしてその次の瞬間、フロドは高らかにこう言い放ったのです。
「指輪はわたしのものだ!」
と。
「フロドの旦那ぁーー!」
サムが叫んだのと、フロドが指輪をはめたのと、またサウロンが指輪の存在に気がついたのは全て一瞬にして起こった世界の変化でした。遠くからあの「目」の力をサムは感じました。指輪はフロドにはめられ、フロドはどこにいるのかサムには見えませんでした。サムは何もできないのでしょうか。エルロンドのように、かれの側にいるものを助けることができないのでしょうか。歴史は繰り返されるのでしょうか。いいえ、歴史の終わりになってしまうのでしょうか。その時とたった一つだけ違うことは、ここには戦いに勝ったものは誰一人いないということでした。望みは全てここでつむがれ、そして絶たれるのです。サムはもう一度叫びました。
「旦那―!」
 

ふいに、サムの目の前が真っ暗になりました。サムは一瞬考えました。今まで赤かった世界はどこにいってしまったのだろうかと。もしかしたらここは夢の中で、暗くなったそちらが現実なのではないかと。しかし頭の後ろに鈍い痛みを覚え、地面が自分の目の前に迫ってきたのが知覚できた瞬間に、サムはその脅威の存在を思い出しました。それはゴラムでした。石を持ってサムを殴りつけ、そしてフロドに向かって行きました。サムはもやのかかった頭と目で、それを見ていました。目の前でゴラムが空中に飛び掛り、何かともみ合っていました。サムはそれが何かと考えました。その見えない何かはゴラムから必死に逃れようとしているようで、ゴラムはそれを逃すまいとしていました。そしてサムがはっと現実に返ってその何かがフロドだということに気がついたその時には、全てが終わっていたのでした。

「闇の滅ぶ時」に続く。