13・ロスロリアンの森
しばらくの間、フロドもサムもみんなに遅れないようについて行く事ができましたが、そのうちだんだんと二人とみんなの距離が離れていきました。サムは戦った時の傷口が火のような熱を持ち、頭がくらくらするように思いました。それでもサムは自分よりももっと具合の悪そうなフロドを支えて歩いていました。フロドのほうは一歩歩くごとに苦痛が増し、息をするのにも喘がなければなりませんでした。サムはそんな主人をつたない言葉で励ましながら、一心に歩いていきました。二人がだいぶ遅れてしまったのをレゴラスが気がついてアラゴルンに言いました。アラゴルンはボロミアをつれて戻ってきました。
「すまなかった!フロド、サム。たとえオークたちが追ってくるにしてもわたしはあんたたちの痛みを軽くするために当然何かしなければいけなかったんだ。もう少しで休める場所がある。」
そう言ってアラゴルンとボロミアはホビットを一人ずつ背負って小川のほとりまで来ました。
ギムリと若いホビットたちはそだなどで火をおこし、水を汲んでいる間にアラゴルンはサムとフロドの手当てをしました。サムはフロドを守ろうとしてオークと戦い、深くはありませんが、見るのも嫌な傷口をこしらえていました。アラゴルンは少しの間難しい顔をしていましたが、ほっとしたようにサムを見ました。
「運がよかったな、サム。オークの中には毒を使うものが少なくないが、おまえさんの傷には毒はないようだ。前にとっておいたアセラスの残りがある。」
フロドの打身にもアセラスを浸した湯はずいぶん効きました。周りの者も爽快な気分になりました。フロドは自分がまたミスリルの鎖帷子を着て歩けるだろうと分かっていたので、自分のことよりもサムの事を気にかけていました。
「サムや、本当に大丈夫なのかい?」
フロドは包帯を巻いてその上から服を着ているサムに話しかけました。
「大丈夫ですだ、フロドの旦那。おらはよっぽど丈夫にできていますだ。旦那のミスリルは着けちゃいませんが、傷も浅いもんですだ。旦那はおらよりご自分を心配なさったらいいです。おら、旦那が歩くのも辛そうで、何度も泣きそうになりましただ。」
サムは少々やせがまんもしていましたが、心からそう言いました。
「もうわたしは大丈夫だよ、サム。お前がずっと支えてくれたからね。」
そう言ってやっとフロドは小さく微笑みました。それを見て、サムも恥ずかしそうに頬をかきながら笑いました。
「おら、当然の事をしたまでですだ、フロドの旦那。」
小さく呟いたサムの言葉はフロドに届いたようでした。フロドはにっこり笑ってみんなの方へ向き直りました。
「もう遅れずに歩いて行けます。出発しましょう。」
こうしてまた一行は歩き出しました。背の低い草原を抜けたそこには銀色の森が広がっていました。ロスロリアンの森でした。
フロドとサムはギムリの後に続いて森の中に入って行きました。さらさらと木の葉が落ちるたび、薄い金属のこすれるような音がしました。太陽の光がその一枚一枚に反射して、暗がりをもぼんやりと照らし出しています。サムはその光景の美しさにぼーっとしそうになりましたが、絶えず主人の様子を気にかけていました。フロドは先ほどから頭の中で声がしているように感じていました。
『フロド、フロド。あなたを歓迎します。闇の目を見た指輪所有者よ。』
「フロドの旦那?」
サムが心配そうにフロドを覗き込んで言いました。しかしフロドは何も答える事ができませんでした。まるで大きな力がフロドの口を塞いでいるように感じられたのです。ここでサムと喋れたらどれだけ心が軽くなるか、フロドは知っていました。しかしどうしても何も言葉が出てきませんでした。
突然、一行は弓矢に囲まれている事に気がつきました。この森のエルフたちでした。奥方様の森に入ったらただでは出られないとエルフたちは言いました。アラゴルンがエルフ語で頼み、目隠しをする事で、やっと前に進む事ができたのでした。ドワーフのギムリがロリアンに入る事にエルフたちは困惑していましたが、奥方様が待っていらっしゃるという理由で通されました。そこには少なからずレゴラスの努力もあったのですが、それはまた別のお話のなかで語ることにしましょう。全員の目隠しが外され、みんなは自分たちが高い木の上の広間にいる事に気がつきました。その広間の階段から、ゆっくりとこの森のケレボルンと、奥方のガラドリエルが現れました。サムは、自分がまるで何も身につけていない姿を奥方様に見られているような気がして恥ずかしくなり、目をそむけました。今ホビット庄に帰ることができるのならば、お前はどうすると問われているような気がしました。他のみんなも同じような事を聞いたように気がして、うつむいてしまいました。ところがフロドだけは、この美しいエルフの女王から目が離せませんでした。離したくても離せなかったのです。しかしその次にフロドが瞬きをすると、奥方様は優しく笑っていました。ガラドリエルは、ガンダルフのことも、指輪のことも、この旅のことも何もかも知っているようでした。
ここでは時間がゆっくり過ぎているようでした。ですから滞在したのも何日かとしか言えませんでした。かれらがいる間中、ずっとこの森はぼんやりとしたあかりの中にあり、夜とも昼とも区別がつきませんでした。フロドは傷の治ったサムと、この不思議で美しい森を歩くのが習慣になっていました。二人ででかけるとき、サムはほとんど何も話しませんでした。サムはこの時間とこの場所がいとおしくてたまらないのでした。もしここで自分が声をたててしまっては、美しさの均衡がやぶれるように思いました。フロドも同じように黙っている事が多かったのですが、サムとは違ってただ幸せだったのでした。森の中からは、どこからともなくガンダルフを悼む歌が聞こえてきます。エルフの美しい調べにのって、物悲しい響きを持ったガンダルフへの歌がいつまでもいつまでも木の間にとどまっているようでした。フロドはガンダルフの死をこのように静かに悼めることが嬉しかったのです。自分の後ろには必ずサムがいます。そう思うと、フロドはただ幸せだと感じるよりほかにありませんでした。
「サム、エルフたちはこうやってガンダルフを悼んでいるのだよ。」
フロドはそう言ってレゴラスが悲しみが増すといってみなに言わなかったエルフの歌をサムに聞かせました。しかしフロドが口に出してみると、それはしなびた一握りの葉っぱのような文句しかのこらないとフロドは思いました。しかしサムはそうは思っていないようでした。
「おやまあ、フロドの旦那は今にビルボ大旦那を負かしてしまいますだ!」
サムはしきりに関心してそのような事を言いました。しかしフロドはこの事をビルボに知らせる事を考えるだけでいたたまれなくなりましたので、それ以来口を閉ざしてしまいました。
ある夕暮れ、フロドとサムはひんやりした黄昏の光の中を一緒に歩いていました。二人とも不安な気持ちを感じていました。とくにフロドはこのロスロリアンから去る日が間近に迫っていると感じていました。フロドの心には、別離の暗雲が不意にその影を落としていたのでした。サムにはフロドが小さく震えたように思いました。きっと泣き出しそうな顔をしているに違いないと、サムはなぜかそう思ったのです。今までフロドの後ろを歩いていたサムがフロドの隣に来ました。フロドはびっくりしてサムの方を向きましたが、サムは今まで見た事のないような淋しげな暖かい大人びた微笑をフロドに向けただけでした。フロドは思わず涙がこぼれそうになりました。サムの暖かいまなざしを見ているだけで、フロドはたまらなく苦しくなりました。
「サム・・・」
フロドはそう言って泣き出しそうな自分の顔をサムの胸の中にうずめました。いつもそうでした。フロドはこの年下のホビットにいつも大きな暖かさを求めいていました。しっかと抱きしめてくれる場所をサムの中に探していました。そんな時、サムは必ずこのように優しく微笑みかけてくれるのでした。そのたびに、フロドは自分までが素朴になれるような気がしていました。そして今もまた、サムはぎゅっとフロドを抱きしめていました。
「サム、わたしたちはもうここを離れなければならないようだ。」
フロドはくぐもった声でそう言いました。
「それに何かこれからの事を考えるだけで、わたしはひどく悲しくなってしまうのだよ。それからガンダルフのあのもじゃもじゃの眉毛、それからあのかーっとなる性質、それからあの声、それらがないことがひどく寂しいのだよ。許しておくれ、サム。」
フロドはそう言ってうつむいてしまいました。しかしサムはどぎまぎして言いたい言葉もいつも以上にすっと出てきませんでした。フロドがこうやって悲しそうにしているのを見るたびに、サムも胸が痛い思いをしている事にフロドは気付いていないのでしょうか。サムはフロドにそんなふうに謝ってほしくありませんでした。もっと素直に悲しんでくださりゃいい。おらに甘えてくだすっていいのに。いつしかそんな気持ちがサムの中で大きくなっていた事にもフロドは気付いていなかったのでしょか。サムはこの主人への愛を何度口に出そうかと考えたか分かりませんでした。でもそのたびにとっつぁんから従者は主人に特別な愛情を抱いてはいけないと言われていた事を思い出していました。ですからこの時も、フロドと一緒に悲しんでやる事しかできませんでした。
「奥方様の水鏡」に続く。
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