Path
to the Lights
これは裂け谷でのアラゴルンとボロミアの物語です。
裂け谷でのエルロンドの会議も終わり、ホビットたちは自分たちの部屋へ、レゴラスは裂け谷の秋を歌いに、ギムリは旅支度へとそれぞれわかれてゆきました。金に光る落ち葉が舞う会議の場に、最後まで残っていたのはアラゴルンとボロミアただ二人でした。金の葉は散り終わり時を悟らぬように降り続けていました。小さく、金属の擦れるような、水音とも木々の音ともつかぬ音が二人を包んでいました。ボロミアはエルロンドが席を立った後、しばらくするとまた先ほどの会議の席に戻りました。そして指輪の置かれていた石の台をただじっと見つめていました。その瞳にはどこか不安定な光が宿り、それでいてどこか人を郷愁に導くような切ない深さがありました。アラゴルンはその瞳から目が離せませんでした。なぜなのか、それはかれ自身にも分かりませんでした。ただその瞳に惹きつけられ、その瞳の奥を――透き通ったその美しい穢れを知らぬその瞳を――見てみたいと、思わずにはいられませんでした。
ボロミアの瞳にはもう狂気の色はひとかけらもありませんでした。ただ、どこかへ思いを馳せているようでした。どこか遠くの光を、見つめているようでした。アラゴルンはふと、この目の前にいる男が自分の存在に気がついていないのではと思いました。ボロミアは一言も言葉を発さず、一人物思いにふけっているようでした。
「あなたは――」
アラゴルンが思わず口にした言葉にボロミアははっとしてその声の主の方を振り向きました。アラゴルンはそのあまりに透明な瞳に視線が引き付けられ、次の言葉が一瞬出ませんでした。同時に、どうして自分は声をかけてしまったのか分からなくなり、そして声を出してしまったことを後悔しました。
「ずっとそこにおられたのか・・・」
アラゴルンが次の言葉を継げずにいるとボロミアの方が先に口を開きました。
「あ・・・、ああ。」
今度はアラゴルンがはっとして、やっとのことでそう言いました。
「いや、全く気が付かなかった。すまない。」
そう言って少し悲しそうに目を細めたボロミアはまるで先ほどのボロミアとは別人のようでした。しかしそれは紛れもなく本当のボロミアであり、こちらこそ真実のボロミアであるとアラゴルンは一瞬にして悟ったように思いました。ボロミアはそれだけ言うとまた視線をアラゴルンからはずし、今度は谷の遠い滝を見つめました。まるでこれ以上アラゴルンの目を見続けるのが辛いかのように、ふっとボロミアは目をそらしたのでした。
「あなたは――」
アラゴルンはまた、今度はそっとささやくような静かな声で話しはじめました。
「あなたは随分苦しんでおられるようだ。わたしはその苦しみが分かる・・・」
「何が分かると!」
アラゴルンの言葉に弾かれるようにボロミアは振り向き、立ちました。強い視線の先には王たるひとがエルフの衣装で立っていました。
「何が分かると言うのです。あなたにわたくしたちの何が分かると。野伏であるあなたに。エルフ近きあなたに。わたくしたちの民をあなたの手から離してもうどれほどたつとお思いか!それで父やわたくしの苦心が分かると言うのですか!」
「ボロミア殿・・・」
アラゴルンは苦しげに、うめくようにそう言いました。
「その呼び方はやめろ!」
ボロミアは自分のあまりに苛立ちを含んだ棘ある声にはっとして、手で口元を覆いました。
「・・・いや、すまない。あなたにわたくしが言う事ではない。しかしただボロミアと、そう言っていただければ嬉しい。」
「ではボロミア、わたしは野伏だ。しかしわたしは人間だ。わたしは確かにあなたの民を見捨てたと言っても間違いであるとは言えないだろう。」
「それが分かっているなら何故!この今こそあなたが戻られるべきではないのか。あなたが王ならずして民が救えるとお思いか。民の心は執政家から徐々に離れつつある。先導者なしに滅びの日を待てとおっしゃるのか。」
「違う。」
「何が違うと。わたくしたちは光を待っている。ずっとだ。王たる光を。それが今、目の前にあるというのに、どうしてその光を民に与えられないのか。それがわたくしの使命であり、事実それを望んでいた。そして今もだ。父の執政の様子をわたくしは幼少から見ていた。光の存在せぬ父の歯痒さはわたくしの中にも常にあった。それなのになぜ掴めぬのだ。そこにあるのに手にできぬ霧のようだ。あなたは人間であるのにエルフに近すぎる。」
そうボロミアが言った時でした。アラゴルンの表情がほんのかすかではありますが、歪みました。また苦しそうに。しかしボロミアの目から視線を離すことはありませんでした。アラゴルンは知っていました。ここで目をそらしてしまったらこの男は二度と自分を見てくれることはないであろう事が。アラゴルンは自分の小さな心の奥の動揺がそのひとに読み取られないように常を装いましたがボロミアはそれに気が付いていました。
「・・・あなたが望んでエルフに近いのではないと言うのですね。」
ボロミアは今までの強い声から一変し、そっとそう言いました。傷ついた鳥を掌に包んでいるような声でした。
「・・・・・・」
アラゴルンは迷っていました。この男に自分の全てを話したいという心が自分の中で叫びます。しかし一方では何かが警告します。この男に惹かれるならばお前は王とならねばならなくなると。お前は自分の弱さに勝てるのかと。あの狂気の目を忘れたのかと。しかし次のボロミアの言葉でアラゴルンの迷いはどこかに湯気のように立ち消えていました。
「エルフの側を離れて野伏となり、人間の道を選んだと言うのですね。」
「ボロミア、わたしは――」
「いや、話したくなければよいのです。わたくしが悪かった。あなたを傷つけるつもりはなかった。誰しも心の扉を持っている。それはわたくしとて同じこと。」
「いや違う!聞いてほしいのだ。」
アラゴルンは自分の声にはっとなりました。その響きがあまりに切実で差し迫っていたのです。アラゴルンは心の中でそっと自分を嘲いました。お前はそんなに誰かに自分のことを聞いてもらいたかったのか、と。しかしそれは間違いであることに自分自身がすぐ気が付きました。誰かに、ではないと。この男にだから話しておきたいのだと。
「わたしは、この谷で育った・・・」
アラゴルンは近くにある椅子に腰掛け、指を組んで話しはじめました。ボロミアはそっと近づき隣の椅子に静かに腰を下ろしました。
「母も父もこの世を去って久しい。わたしはエルロンド卿のもとで育てられたのだ。エルフに囲まれ、エルフの生活を。しかし父代わりとなったエルロンド卿はわたしに道を選ばせてはくれなかった。わたしの血を人間の光であると、それがエステルお前の道であると。エステル・・・わたしはそう呼ばれていたのだ。望み・・・と。」
そこで言葉を切ってアラゴルンはボロミアを見つめました。ボロミアの目には何の強要もなく、ただ全てを受け入れるとその目が語っていました。
「それでわたしはその道を進むことをやめた。わたしは人間だ。なのになぜここにいて人間の望みとなれようか。わたしのとるべき道は一つしかなかった。野に入り人々を守ろうと。自分が望みとなるべき人々とはいかなるものか、自分はどうすれば良いのか。それを知るために。・・・そうしてわたしが野に入って既に長い年月が過ぎた。それでも、まだ答えが出せずにいる自分がいる・・・」
しばらくアラゴルンは自分の指を見ていました。静寂というには大きすぎる木々の音が二人を包んでいるようでした。ボロミアは聞き終わり、しばらく黙っていました。横に座る男を見、自分がこの男の力になりたいと、そう思いました。これが平安な世であったらどれだけいいだろうと、叶わぬ夢を抱きました。この男の側にひかえ、執政を務める自分がいたらどれだけよいであろうかと。しかし今ボロミアにできることは何もありませんでした。
ふっと、小さく笑う声がしました。今まで深刻な顔で離していたアラゴルンから発せられたものでしたので、ボロミアは少し驚きました。するとアラゴルンはボロミアが思ってもいないことを笑顔で言ったのです。
「ボロミア、あなたには子か年下の兄弟がおられるであろう?」
「子はおりませぬ。しかし弟がおります。なぜそれを?」
またアラゴルンはふっと笑いました。
「あなたの話の聞き方が心地良いのだ。まるでわたしにはない兄や父という存在をそこに感じているように。そのような温かさは知らず知らず滲み出るもののようだ。」
「はは、なるほど。」
今度はボロミアも小さく笑いました。それならば、とボロミアは思いました。このような事でなら自分にもできることがあると。そう思いました。
「そうですな。わたくしには五歳年下の弟がおります。名はファラミア。その話でもいたしましょう・・・」
そしてボロミアは国や、自分や、弟のことを話しはじめました。誇るわけではなく、その全てをいとおしむように。そうして二人は裂け谷の夜がやってくるまでそうして話していました。解決したことは何一つありませんでした。しかし二人はここで得難いものを手に入れました。それはまだ友情とも愛情ともつかぬものでした。しかしそれは心地良く、温かなものでした。二人のこの通じ合った心は死が二人を分かつ時まで一緒でした。その後もアラゴルンは亡き執政官の嫡子をずっと慕って偲んでいたそうです。
おわり |