25・オスギリアス

 

 黒い翼に乗ったその使者は、ただひとつのものを迎えにやってきました。指輪を持つものを迎えに来たのです。その呼び声は確実に指輪に届き、指輪の願望が叶えられようとしていました。フロドは完全に支配され、ファラミアに押し込まれた安全な建物のかげからふらりと歩みだしました。
「フロドの旦那!」
サムがフロドの奇行を止めようと声の限りに叫びました。たとえ届かないともう分かっていても、言わずにはいられませんでした。たとえもうフロドの意志がひとかけらも残っていないと分かっていても。
「なにをしなさるつもりなんですだか!?どこへ、どこへ行かれるんですだ!?あなたの帰るべき場所をお忘れですか!?」
フロドの耳には、何も届きませんでした。何も・・・
 

 フロドは、ゆっくりと、ゆっくりと石の階段を上ってゆきました。そこが至福の地であるような足どりでした。風がフロドの纏ったマントをはためかせ、シャラ・・・と首にかけた細い鎖が鳴りました。不吉な灰色の雲が空を覆い、砂で濁り穢れた空気がかれを取り巻きました。ナズグルは、まっすぐにかれの前に羽ばたいて降りてきました。指輪と乗り手が呼び合い、それは了解に達したようでした。指輪がフロドに語り掛けました。もはや操るままになったただの生き物に。ただ指輪はフロドに語りかければ良いだけでした。「指輪をはめろ」と。フロドの手が、指輪を胸元から取り出しました。そしてゆっくりと、ゆっくりとそれを指に近づけてゆきました。

ファラミアは、目の前に展開するおぞましくも美しいこの絵のような風景に目を奪われていました。灰色の空に浮かび上がる漆黒の翼、そしてはためく黒いマント。橋になった石段に立ちすくみ、金色に輝く一片のへこみも汚れもない指輪を手にする白い小さき人。あまりに言葉にし難い光景に、ファラミアは心臓をもぎ取られるような感覚に陥りました。それはサムも同じでした。フロドに対する美の感覚が鋭い分、サムの方が苦しいまでの感慨を受けないわけにはいきませんでした。しかしサムは、主人への愛がそれをただ見守るだけには終わらせませんでした。
「フロドの旦那!」
サムはフロドが指輪を手に取ったその時に、全ての状況と全ての危険を忘れ、無我夢中でフロドのもとへと駆け出しました。
 

 それは、フロドが満足の吐息を漏らし、指輪をはめようとする瞬間のことでした。フロドの手を、フロドの身体を、その場から引き剥がす強い光がありました。中つ国の中で、サムだけがフロドを救えたのでした。サムだけが、この恐ろしい瞬間を打ち崩すことができたのでした。そしてその瞬間、ファラミアの中に本来の彼が戻ってきました。ファラミアは縺れ合いくずおれるように倒れこみ、段を転がり落ちて行くサムとフロドを追おうとするナズグルの空飛ぶ乗り物に矢を射ました。それはその場を飛び去り、怒りの声で上空に舞い上がりました。指輪の声がもう乗り手には聞こえませんでした。何か、何か眩しく触れがたいものが乗り手の目を眩ませました。それの呼び名を乗り手は知りませんでした。愛というものはモルドールには存在しませんでした。それこそ滅ぼすべき形のない存在でした。

 フロドはサムに手をつかまれたまま、石の床に叩きつけられました。身体のバランスを崩し、意識も意志もまだ指輪に取られたまま、痛みも感じることなく下へ下へと転がり落ちてゆきました。サムはフロドの目に浮かんだ殺気と黒い闇を見ました。今までのフロドには考えられない力がサムを追いやろうとしました。フロドに掴まれた腕は千切れるように痛みました。それでもサムは地面にフロドを押し付けようと、どうにかこの凶暴な力を、ほおっておいたらフロド自身を壊しかねないその力を鎮めようとしました。しかしそれは叶わず、反対にサムがフロドに押さえつけられていました。フロドの目には憎しみしかありませんでした。
「アアアアアァ!」
フロドがその憎しみを全て手に込めてつらぬき丸を鞘から放ちました。指輪にはこの指輪を運ぶ者が一瞬でこの邪魔者を殺せると確信できていました。それなのに、手が止まったのです。サムの首筋に鋭い切先を突きつけた手が、震えて止まったのです。フロドの目が、一瞬にして凍りつきました。混乱と戸惑いと疑問が支配されたその思考に割り込みました。どうしてもこいつを殺さなければならないのに、どうしてもここで手を振り下ろさなければならないのに、なぜか手が動きません。そしてなぜかこの小さな存在から目が離せませんでした。殺せ、殺せと何かが言います。それなのに、どうしてもそれ以上何もできませんでした。
 

 サムは、震える手を見ました。冷たい剣を首に感じました。そして、狂気に取り付かれて支配から抜け出せない主人を見つめました。その瞬間、サムは知らない間に微笑みが零れていました。涙と共に。サムの想いは指輪の力に叶わなかったと悟りました。フロドにはサムの想いは届いていないと分かりました。それでもサムは、フロドを愛していました。その手で今自分が殺され、そしてこの地に闇の世界がやってくる。フロドもじき、自分と同じ場所へと来るのでしょう。死と言う永遠の時間。これ以上の終わりを誰が期待したでしょう。よくここまで来たではありませんか。希望のない旅でした。絶望の道でした。帰る事のない路でした。行き先は死のみです。それならば、主人に殺されることに何のためらいがありましょう。主人に、たった一人愛するものに死を与えられるのに、どうして悲しまなければならないのでしょう。ただ、サムを、サムを思い出してくれさえしたら・・・
「おらですだよ・・・あなたの、旦那のサムですだよ・・・。あなたのサムを、お忘れですだか?」
狂気が、色あせてゆきました。黒い光が次第に萎れ、消えてゆきました。フロドの心が、フロドの目に戻ってきました。あの透き通るような青い輝きが。フロドには分かりかけていました。今、自分が何をやっているのか。あと少し、あと少しで全てが克服されると分かりかけていました。
「あなたのサムに、もう一度だけ、笑ってくださいまし。あの微笑みで、サムを呼んでくださいませ!」
フロドは、カタカタと全身が震えるのが分かりました。よろけ、つまずきながらサムの上から退きました。そして壁に崩れるように倒れました。カラン・・・と、つらぬき丸がフロドの手から離れ、固い地面に音を立てて落ちました。サムは、まるで奇跡を見ているようだと思いました。自分の心の声がフロドに聞こえたのでした。フロドの心が指輪の強い力より、サムの愛に耳を傾けたのでした。サムは胸が一杯でまた涙が流れました。フロドにつけられた小さな傷は、ほんのすこし痛んだだけでした。

「守るべきもの」に続く。