11・遅すぎた救出
サムが始めに見た風景は、フロドの瞳の色が失われていく様子でした。次に見たのは巨大な蜘蛛がフロドの身体に厭らしい糸を巻きつけている様子でした。
「旦那を放すだ!このくそばばあ!」
そう叫んだサムの右手にはつらぬき丸、左手にはエアレンディルの光が灯っていました。そうです、サムはフロドの落とした聖なるものたちを見つけ、拾い、そしてこの場に駆けつけたのでした。
「シャアァ!」
シェロブが背に冷たいものが走るような叫びをあげても、サムは少しもひるみませんでした。ただ、サムは主人を救いたいという一心で、恐怖というものを克服してしまっていたようでした。
「旦那を放せって言ってるだよ!」
するとその気配の激しさと、光のまぶしさ、光る切っ先の恐怖、そしてもうひとつの獲物を得たいという欲望に駆られ、シェロブはフロドを地面に落としました。ドスンと重い音がして、落ちたフロドをサムは一瞬見ましたが、フロドがうめいた様子も痛がる様子も何も感じられませんでした。サムは怒りに燃え、喪失の不安すらもその怒りの裏側に隠れてしまったようでした。
「二度と旦那に触るんじゃねえ!来いや、終わらせてやるだ!」
思いがあふれて口から出たサムがそういい終わるか終わらないか、シェロブがサムに飛び掛ってきました。サムは必死になって切りつけようとしましたが、それはフロドほど上手くはいかず、逆に光を叩き落されてしまいました。サムはもう一度切りつけました。しかしそれでもシェロブは勢いを止める事無く襲ってきます。岩の上へ、下へ、サムは逃げ惑いながらも勇敢に立ち向かっていきました。サムは剣の扱いなんてこれっぽっちも知りません。せいぜいサムの使ったことのある刃物と言えば、料理用のナイフくらいでした。それでもサムは、ホビットの奥底に眠っている本能だけで、シェロブと戦い続けました。頭の中で自分の声がする、その声にしたがって、急所を狙いました。目、口、関節、そして腹の下。フロドを刺したのと同じ毒針が届く一瞬前に、サムはその恐怖から逃れ、そしてとうとうシェロブの腹部を鋭く突いたのでした。
突如、シェロブが暴れだしました。サムの突いたその切っ先は、彼女の腹を切り裂き、内臓を引き裂き、むごい苦しみを彼女に与え、生命を奪い取ろうとしていました。サムは地面に転がり、少し勢いのなくなった光をばっと持ち上げ、そしてまだのたうち苦しむシェロブに向けました。
「下がれ!行っちまえ!」
シェロブの口から、やめろという唸りが聞こえたような気がしました。サムはそれでも彼女を追い詰めることをやめず、この大蜘蛛は、闇の中へ消えてゆきました。こうして、歴史に残るべきおおいなる孤独な戦いがひとつ、ここで終わったのでした。それは決して語られることもなく記されることもありませんでしたが、暗黒時代から続く闇の一部が消え去った瞬間なのでした。それもたった一人の小さな人によって。
「フロドの旦那!」
サムはシェロブが遠く去ったことを確認する間も惜しみ、フロドのそばに駆け寄りました。それはもう蜘蛛の糸に全身を巻かれ、何なのか分からないものになっていました。サムは夢中でフロドの顔にあたる部分の糸を引きちぎりました。一瞬、糸の下からきらりと光る青い目が見えました。サムは急ぎました。しかし、それでも十分すぎるくらいに遅すぎたのでした。開ききったその瞳は乾き、濁った目は虚ろで、瞬きもせず、視線をかえることすらしませんでした。
「ああ、フロド!フロドの旦那、起きてくださいまし!」
頭に這い上がってくる耐え難い想像を押し込めて、サムが叫びました。フロドの身体を抱き起こし、その何も見えていないフロドの目を覗き込みました。変わらぬ美しい瞳なのに。それはもう何も映していませんでした。
「おらを置いていかねえで下せえ!おら、旦那がいなけりゃ、どこに行けばいいんですだ?おらは旦那についていくと、自分に誓ってここに来たんですだよ。それなのに!それなのに!どうぞ、どうぞ起きてくだせえよ!フロドの旦那ぁ!」
しかし、その場に響くのはただ、サムの自分の声だけでした。返事もなく、動きもせず、徐々にこの腕の中の温もりが失われていく気がしました。サムはもう分かっていました。ただ、それを口にするのが怖いだけでした。それでも、サムは自分に言い聞かせるためにこう言わねばなりませんでした。
「眠っていらっしゃるんじゃねえんだよ、サムワイズ・ギャムジー。死んでいなさるんだ・・・!」
サムはフロドを抱いたまま、悲痛に啜り泣き続けました。
「別れのうた」に続く。 |