14・奥方様の水鏡

 

夜になり、と言ってもエルフたちは眠りませんし、まだ森の中はいつものようにほのかに明るいのですが、フロドはサムに用意してもらった寝床にいました。フロドの横ではサムが高いいびきをかいていました。フロドははっと何かに気がついて起き上がりました。周りにいるホビットたちはまだぐっすり眠っていました。フロドは森の中を奥方様が歩いているのが見えました。真っ白で、歩くたびに光を放つ長い服を着ていました。ガラドリエルの奥方は、それはそれは美しかったのですが、フロドはかえって恐ろしく感じていました。しかしなにかがかれを奥方様の進む方へとひきつけていました。フロドはその逆らい難い力に引っ張られて、ふらふらとその後をついていきました。

 フロドが立ち止まったのは小さな滝の流れる少しくぼんだ場所でした。フロドと奥方様の間には、石でできたテーブルと、その上に載った銀の大きな皿がありました。見てみるかと奥方様は問いました。しかしフロドは何が見えるのか分かりませんでした。それに何か漠然とした不安が頭からはなれなかったのです。奥方様は言葉を続けました。
「この鏡は色々なものを映し出します。賢者でさえそれが何だと言うこともできません。今あること、過去にあったこと、そしてまだ起こっていないこと・・・」
奥方様が持つ銀の水差しから水が零れ落ちるたびに、フロドの心はその水鏡に引き寄せられていきました。奥方様の言葉がフロドの頭の中で響きます。その力にフロドは耐え切れませんでした。怯えたままフロドは覗き込んでみました。しかし星のほかに見えるものはありません。しかしもう一度フロドは鏡を見つめました。するとフロドは鏡の中に、去り行くレゴラスとメリー、それにピピンの姿が見えました。それからサムも。サム!フロドがそう叫ぼうとしたその瞬間に、また見えるものが変わりました。それはもとあったシャイアの姿でした。しかし次の瞬間、その平和な景色は崩れ去りました。火が村に放たれ、オークどもが村を荒らしまわっています。人々が鎖でつながれ、オークに鞭でたたかれて歩いているではありませんか!息をのんだフロドが村人をもっと見ようとした時でした。サムもまた、同じように鎖でつながれているのが見えたのです!そしてサムも見ているフロドに気がついたようにフロドの目をじっと見つめたのです。しかしその目は絶望に満ち、いつものサムではありませんでした。フロドがあまりの恐ろしさに震えだしたそのとき、またあの目が、サウロンの目が現れました。そして首にかけていた指輪が重さを増したのです。まるで指輪が意志を持って、自ら鏡の中に入ろうとしているようでした。
 

フロドは指輪を鎖ごと引きちぎって、自分も鏡からばっと離れました。これ以上見てはいけない。フロドの中の何かがそう言いました。また、フロド自身もこれ以上見ていられませんでした。フロドはその勢いで地面に落ちました。震える手に握った指輪はもう重くありませんでした。フロドは震えが止まりませんでした。
「わたくしはそなたの見たものが分かっています。そなた次第で今見たものは現実となるでしょう。すでに旅の仲間の心は離れはじめています。かれは指輪を奪おうとするでしょう。誰のことをわたくしが言っているのか、分かりますね、フロド。指輪はひとりずつ、全てのものをかれと同じにしてゆくでしょう。」
フロドはまだ震えていました。奥方様の言っている事は分かりました。ボロミアのあの雪山での行動はやはりこの指輪のせいなのです。全てのものを、奥方様はそう言いました。彼の愛しいホビットたちもあのようになってしまうのでしょうか。サムも。フロドは耐え切れなくなってガラドリエルの奥方に指輪を差し出しました。
「奥方様に差し上げます。」
すると急に奥方様が大きくさらに恐ろしくなりました。風が轟々と吹き、フロドの前に立ちはだかるものは、もはやエルフではありませんでした。しばらくフロドはその怖ろしさに声を上げることもできませんでした。しかしそれもやみました。フロドはまだ恐怖に引きつった顔をしていましたが、もはや目の前にいるのはガラドリエルの奥方でした。
「わたくしは試練に勝った。西へ行き、ガラドリエルのままでいましょう。」
 

 フロドは少し落ち着いてきましたが、不安は拭えませんでした。先程の水鏡の光景と、ボロミアやビルボやガラドリエルの奥方の指輪への反応が、頭から離れませんでした。つまりフロドはたったひとりでこの指輪を無くさしめなければならないのです。共にするにはサムはフロドにとって大切すぎました。しかし、ひとりなどとても考えられませんでした。
「わたしひとりではできません。」
フロドは悲しそうに言いました。
「やるべきことは分かっているのです。わたしがそれをやらなくてはならない事も。でも・・・。ただ怖いのです。わたしはただ、それが怖いのです。」
フロドはこの時はじめて本音を言いました。心の中を見透かされているように思ったからです。フロドはただ怖かったのです。この時、フロドの気持ちを分かっているものは奥方様以外にはサムしかいませんでした。
「ほんの小さなものだけが世界の未来を変えられる。」
奥方様はそう言って立ち去りました。フロドはその日、眠れませんでした。一晩中サムの寝顔をじっと見つめていました。フロドには決心を固める時間が必要なのでした。

「アルゴナスの門」に続く。