3・踊る小馬亭
雨が降り出しました。いかだから上がった4人のホビットは持っていたマントを頭からすっぽりかぶりました。今度はフロドが先頭になって木の間を抜けていきます。サムはずっとこう思っていました。
「どうして旦那ですだ?旦那が何をやったっていうんだか?旦那にはこんな恐ろしい旅はお似合いになりませんだ。ゆったりと木の下でご本でも読んでらっしゃるのがいいですだ。そしたらおらが旦那のお世話をゆっくりして差し上げるのに。今頃『外は雨なのかい、サム。』と湯浴み場から外の罐で火をおこしているおらにお尋ねなさるに。このままでは旦那が冷え切っちまいますだ。どうして旦那ですだ?」
すると、サムの心の声が聞こえたわけではないのに歩きながらフロドがぽつりと誰に言うでもなく小さく呟きました。その声からは何の感情も読み取れませんでした。
「これがわたしに回ってきた道なんだよ。」
サムにはその声が聞こえました。それならば、とサムは思いました。おらが旦那をお世話する事にかわりはねえ。旦那がどこに行かれようとも、おらがついて行くだ。そう心に誓いました。林がもうすぐ切れそうです。少し向こうに小さな光が見えました。ブリー村の入り口でした。
サムはブリー村の連中を始終疑い深い目で見ていました。門番のおじいさんでさえ胡散臭いと思いました。ホビットはあまり大きい人たちと親しいわけではありません。特にサムは生まれて以来ずっとシャイアを出たことがありませんからそれも仕方のないことでしょう。ホビットはもともと隠れて慎ましく暮らすことの好きな種族なのですから。大きい人たちがフロドやサムたちにぶつかりながら歩いていきます。そして必ずそのあとに背後で上品ではない笑い声が起こるのです。サムは早くこんなところから抜け出したいと思いました。どうしてガンダルフはこんなところに来るように言ったのでしょう。サムにもフロドにも、ましてメリーやピピンにも分かりませんでした。雨はますますひどく降り、マントはべったりと濡れ、服までしみこんでくるようでした。漆黒の夜空には稲妻が走るほかには何も見えませんでした。踊る小馬亭の看板を見つけるのにホビットたちは顔を真上に向けなければいけません。そのせいで顔も髪の毛もびしょびしょでした。やっとその入り口を見つけたときは、さすがのサムもほっとした様子でした。
「あの・・・」
フロドが恐る恐る入り口のカウンターに座っている大きな人に声をかけました。サムは最後に入ってドアを閉めていましたが、すぐにでもフロドの旦那に何かする奴がいるならばとびかかってやる準備はできていました。どうやら店の主人はガンダルフの知り合いのようでした。しかしガンダルフは来ていません。ホビットたちは途方にくれました。
「どうしますだか?フロドの旦那。」
サムがそっとフロドに聞きました。眉をしかめています。
「きっとガンダルフは来るよ、サム。ここにきっとね。」
フロドはそう答えました。少し不安そうに、でもはっきりと言いました。フロドがそう言うのでは仕方ありません。と言ってもここの他に行く所もありません。4人は酒場の一角に座りました。メリーがビールを持ってきました。ピピンもビール樽の方へ行ってしまいました。サムはフロドの隣に座り、さっきから気になっていた事をフロドに言いました。
「旦那、おらさっきから妙に強い視線を感じますだ。なんだか嫌な感じがします。お分かりになりますだか?おらの言っていること。」
サムは言葉を切って酒場の端のほうに座っている黒いマントで口元まで覆った人影をちらりと見ました。
「旦那、あいつさっきからずっと旦那の事を見てますだ。」
サムにそう言われ、フロドは店の主人に聞いてみました。フロドもなんとなく視線を感じていたのですが、サムほど嫌な感じはうけていなかったのです。
「馳夫・・・」
フロドは店の主人から聞いた名前を口に出しました。するとそのとたん、またさっき黒の騎手から隠れた時のような誘惑がフロドの胸に押し寄せました。知らない間にフロドは指輪を取り出していたのです。フロドの額にまた冷や汗ともあぶら汗ともつかぬものが浮かびます。フロドのしかめられた眉とうつろな目にサムは気がつきました。サムは見ている事しかできませんでした。・・・バギンズ、バギンズ・・・という呼び声がフロドの頭の中を響きわたりました。
今にもフロドが指輪をはめてしまいかけたその時でした。
「バギンズだって?」
ホビット特有の高い声がフロドの耳に届きました。みればピピンがビールを飲んで得意になってフロドやホビット庄のことを喋っているではありませんか。バギンズの名をここで出すのはあまりにも危険すぎました。サムもフロドもはっとなってピピンに向き直りました。サムがピピンを止めようと立ち上がりかけると、フロドが走り出してピピンのおしゃべりを止めようとしました。しかし大きい人たちの波に飲まれてフロドは進めません。大きい人たちはますます面白そうにピピンの話に耳を傾けます。フロドは必死に止めようとしました。その時です。フロドは雨で濡れた床で滑って後ろに傾きました。手にはあの指輪を持ったままでした。とっさのことにフロドは指輪から手を離してしまいました。サムがフロドの旦那を助け起こそうと立ち上がった時です。そこにはもうフロドがいませんでした。そうです、いないのです。まるではじめからそこにいなかったように、すっかり消えてしまったのです!ビルボの大旦那と同じ。サムにはそれで分かりました。フロドは指輪をはめてしまったのです。偶然なのか、ガンダルフの言っていた指輪の意思なのかそれはサムには分かりません。でも大変なことが起こったことだけは分かりました。
「旦那!旦那!」
サムはフロドを探します。酒場は大騒ぎです。メリーもピピンも目を丸くしています。サムは構わずフロドを探しました。涙があふれそうでした。
「ばか、このサムワイズ!泣いてる場合じゃないだよ!落ち着くだ。よっく考えるだよ、ビルボの大旦那と同じ。てことは指輪を旦那が外しなさりゃ旦那はおらにも見えるようになりなさる。さあ、探すだよ!」
サムは自分にこう言って涙をぐっとこらえました。
フロドが薄明かりの恐怖で指輪をはずすとそこには先ほどの野伏がいました。何かフロドに話し掛け、フロドの腕を乱暴に取って2階へ引っ張っていくのがサムの目の端に見えました。
「フロドの旦那!」
サムは叫んでいました。まだ目をぱちくりしているメリーとピピンにサムは訴えるように言いました。
「おら見つけましただ、メリーの旦那にピピンの旦那!」
「何を見つけたって?」
メリーが聞きます。
「フロドの旦那ですだ!さっき消えなさったのはビルボの大旦那とおんなじですだ。おら、フロドの旦那がまた見えるようになって、端に座っていた馳夫とかいう大きいやつに2階へつれてかれるのを見たですだ!フロドの旦那が危ないですだ!」
サムの顔はそのぽっちゃりした体格からは想像できないほど青ざめていました。
「何だって!とにかくフロドを助けなくっちゃ。」
メリーはまだぼーっとしているピピンに駆け寄りました。サムとメリーが口を揃えて言います。
「フロドの旦那を助けるだ!」
「ピピン!お前も来るんだよ!」
蝋燭の台やらなにやらとにかくそこらにあるものをもってサムとメリーとピピンは狭い階段を登っていきます。サムが先頭です。メリーとピピンは少しおっかなそうでしたが、サムはすごい形相で2回のドアを睨んでいます。早く早く。サムは心の中でそう言いました。早くしないとフロドの旦那がひどい目にあわされてしまう。おらがお守りするだ!そう思ってドアに耳をくっつけて中の様子を聞き取ろうとしました。ところが予想外に静かです。フロドの声も野伏の声も聞こえません。ぐっと手に力を込めて、サムは次の瞬間部屋に飛び込んでいました。
「フロドの旦那から手を離すだ!」
サムの目には長い剣を持った大きな人影と、おびえきったように見えるフロドが映りました。しかしその人間はほっとしたようにホビットたちを見下ろしたのです。サムはフロドに駆け寄りました。
「フロドの旦那!大丈夫ですだか?お怪我は?何か酷い事をされませんでした?おら、旦那の事が心配で心配で・・・。こいつが旦那を引っ張ってっただ。おら見てましただよ。隠さねえでおらにはなんでも言ってくだせえ!」
サムはフロドの体をさすって言いました。フロドは怪我などをことさら人に隠す癖がありました。近くのもの達に心配をかけさせたくないからです。でもサムはそんなフロドだから余計に心配をしていました。風邪をひいた時だってそうです。サムがいくら寝ていてくだせえ。と言っても、大丈夫だよ、サム。私は元気だ。そう言って微笑みさえ浮かべるのです。それがこんな大きな人につれさられてどうなったかも分からないような状況です。今にもサムはフロドの上着を脱がせてでも無事を確かめる勢いでした。
「大丈夫なんだよ、サム。」
フロドはそんなサムにほっとしてそう言いました。まだこの馳夫が恐ろしかったのですが、とにかくサムをどうにかしないと本当にこの強い大きな人に飛び掛っていきそうでしたから、大丈夫だと言い聞かせました。
「本当に大丈夫なんだよ、サム。この人は馳夫さん、アラゴルンと言うんだ。わたしたちの味方だよ。ガンダルフの友達だ。」
そうフロドに言われてサムはしぶしぶフロドから手を離しました。そしてちらっとアラゴルンを見ましたが、その目はまだ不審そうでした。
「あちらの部屋はもう危険だ。今日はこの部屋で眠るがいい。」
そうしてホビットたちは人間用のベッドに4人して眠ることになりました。
メリーとピピンの寝息が聞こえるようになってしばらくたちましたが、フロドはなにかの気配を感じて起き上がりました。隣に寝ているサムを起こさないようにそっとベッドを抜け出して座りました。アラゴルンが手振りで音を立てるなと言っているのが暗がりでも分かりました。下からは何か雨の音の他に動物の蹄の音と、重い金属の音が聞こえてきます。雷が青白く光った瞬間です。耳をつんざくような悲鳴に近い鳴き声が聞こえました。サムはばっと飛び起きました。隣にフロドがいません。はっと前を見ると、サムの足元にフロドが腰掛けていました。サムは冷や汗が背中を流れるように感じましたがフロドは静かに黙っていました。黒の騎手、それは人間の偉大な王たちの成れの果てなのでした。
「裂け谷への道」に続く。 |