・ニンダルヴの岸で

 

 フロドとサムはゴラムのあとをついて夜中歩き続けました。そしてやっとこの地にも、どうやら夜明けというものがあるのだとかすかに感じられる程度の朝日がぼんやりと差し込む時間になっていました。臭いはますます強くなり、目の前には一面の霞でくもった広い土地がありました。ニンダルヴと呼ばれる大きな沼の一部の岸のようでした。そしてその目でその土地をとうとう眺めるに到ったのでした。そうです、一同はエミン・ムイルを抜け出すことができたのでした。
「見てみなよ、見てみなよ、わしら抜け出したよ。急いでホビットさん、急いでよ、わしらといっしょに来てよかったよ。ほんとよ、ねえ、いいホビットさん。」
ゴラムはまるで飼い犬のように嬉しそうにフロドにそう言いました。目はきらきらして手足を岩にばんばんとたたきつけ、疲労の様子はひとかけらもありませんでした。そしてふたりの先に進み、岩の上で飛び跳ねました。しかしサムにはそれでさえ疑わしい行動なのでした。昨晩のあの様子とは全く違います。サムはこの辺りから、ゴラムの中に二つの「やつ」がいることに薄々感づいていたのでした。ですから喜ぶゴラムをぎっとにらむと、ゴラムは叱られまいとする犬のように首をかしげ、ちょっと上目づかいになってサムを見ました。
「いいホビットさん。」
しかしこのうっすらした日の光が見えて来ると、ゴラムはぴたっと立ち止まりました。
「もうすぐ夜明けね、わしら隠れるよ、そしたら黄色い顔に見られないよ。わしらをみつけるよ、いろんなやつらがわしら見つけるよ。オークやらなにやらね、やつら遠くが見えるのよ、わしらも見えるよ、黄色い顔がわしらをあらわにみせるのよ。」
ゴラムはまるで太陽がゴラムに飛び掛ってくるような口調でそう言いました。そしてもうその場から動こうとはしませんでした。
「わたしたちは太陽を見られるのが嬉しいのだけれどね。」
フロドはそう言ってサムを見ました。しかし一晩中歩き続けた後でしたので、ゴラムの言うとおりしばらく休もうと思いました。
「少し食べなくちゃいけない、サム。わたしもお前もね。レンバスを食べようか。」
「ええ、そうですがね、旦那。あいつはどうするんでしょう。おらの時々考えていたことはそれですだ。あいつは何にも持ってないようですだ。それに何を食べるんでしょう。おらたちの食料だって十分じゃねえですだ。」
フロドはサムの言いたいことは分かったようでした。サムは口で言うほど親切でないわけではありません。むしろ心優しいホビットなのでした。前にゴラムの首にかけた縄でも、今にも取れそうなほどゆるく結んでやっていたのです。それに今でもゴラムの食べ物の心配までしていたのですから。ですからフロドはそんなサムを見てにっこりしました。
「そうだね、サム。あいつにも分けてやろう。」
そうしてフロドはレンバスをひとかけらゴラムの目の前に持っていってやりました。しかしゴラムはそれを長い間くんくんと嗅ぎまわっていましたが、ほんのひとかけら口に入れてギャァァと叫んで後ろに飛びさすってしまいました。
「ペッ!いやなにおいがするよ、いやなよ、わしらののど詰まらせるよ!埃と灰なんて食べられないよ、さかないないしよ、わしらのだいすきなさかなよ、いないのよ、わしら飢え死にするのよ、ホビットたちの食べもの食べられないよ。飢え死にするよ!」
「気の毒なことをしたね。これはお前の身体にもいいと思うのだけれど。」
フロドはゴラムに向かってそう言いました。サムはもちろんそんなこと言わなくてもいいと思ったのですが。
「じゃあ、サム。ふたりで食べようか。」
そうしてふたりは他に食べ物を出さないかと遠巻きにじいっとこっちを見ているゴラムをおいて、レンバスを黙ってかじりはじめました。
 

 レンバスをおおよそかじり終えたところでサムはそっとフロドにささやきかけました。
「ねえー、旦那!」
しかしそれほど小さい声ではなく、うんと低い声でもありませんでした。本当は、サムはゴラムに会話を聞かれようがそんなことは気にしていないのでした。かれの頭の中にあるのは常に主人だけのことでした。
「旦那もおらも、ちっと眠らなきゃなりませんだ。だがたとえあいつが約束をしてようがいまいが信用してふたりして眠り込んじまうのは賢くねえってもんです。フロドの旦那、旦那は眠られるといいです。おらがこの目が開いてる限り見張ってますから。どうしてもおらの瞼が閉じちまうようなことになったらおお越ししますから。それまでは安心してお眠りくだせえ。」
「そうだね、サム。」
フロドも声をひそめないでそう言いました。
「心配はないような気がするけれど、お前の言う通りかもしれない。交替で休むことにしよう。でも二時間だよ。お前も眠らなくちゃ。二時間たったら起こしておくれ。」
そう言うと、フロドは疲労のあまりそのまま頭をがっくりと落として座ったまま眠ってしまいました。サムはそんなフロドを見て少し悲しそうに首をふり、自分のマントと薄い毛布を地面に広げました。そしてフロドの頭を支えて抱え上げ、そっとその上におろしました。フロドはぴくりともせずに眠っていました。ただ、夢の中でサムに抱かれている感覚が心地よく波となって寄せてくるだけでした。サムは自分のマントをその上にかけ、フロドの頬の埃を指先ではらってそっと囁きました。
「おやすみなさいまし、フロドの旦那。今だけでもよい夢を。」
 

ゴラムは食べ物がないことを知るとはじめはめそめそしていましたが、そのうち岩の上に丸まって動かなくなりました。そしてシーシースースーと気持ちの良くない寝息をたてはじめました。サムがフロドを寝転ばせ、そっとゴラムに近づいてその醜い耳元で――さかな――と言っても目を覚ましませんでした。これでサムはある程度安心しました。ですからフロドのすぐ傍らに行って腰を下ろしました。そして連れ合いの安らかな寝息を聞いているうちに、だんだんと眠りの世界に引き込まれてゆきました。

「フロドの決心」に続く。