1・モルドールへ

 フロドとサムはエミン・ムイルの荒れた地を登っては降り、下っては上り、少しずつではありますがモルドールに近づいていました。しかしふたりにはそんなことは分からず、ただどこまでも果てしない岩と埃、どんよりした雲があるだけでした。時折見えていたアンドゥインのきらめきはもうはるか後ろに隠れ、ふたりはそれを見ることもありませんでした。フロドの目は常に東南の暗闇を見つめていました。闇と雷雲の合間からちらちらと赤く禍々しい光が見えました。それこそが滅びの山、絶望と言う名の目的地でした。
「モルドール・・・中つ国の中でここだけは近くで見たくなかったですだ・・・。」
サムも主人の見る方を眺めていました。そして口から零れた溜息は言葉になって繰り返されるのでした。
「でも行かなきゃなんねえのさ、サムワイズ・ギャムジー!・・・行けそうにないけどよ。」
そう言うと、サムは荷物をよいせっと担ぎ直し、フロドを振り返りました。フロドはサムの3分の1も荷物を持っていないのに、重そうに一歩一歩を歩んでいました。
「ねえ、フロドの旦那!ガンダルフの旦那もこんなとこ、おらたちが歩いてるなんて思ってもみなかったでしょうよ。」
「かれの予期せぬことばかりが起こっているのだよ、サム。・・・予期せぬことばかりが。」
フロドはサムの声にやっと気がついたように顔を上げました。ふたりには時間の感覚はもうなかったとはいえ、旅の仲間のもとから逃げ出してまだ丸3日も経っていないはずでした。しかしフロドはもう何ヶ月もそんな旅を続けている人のようでした。突然、フロドは胸が押し潰されるような恐怖を感じました。視界が急に暗くなり、見えるものはモルドールの中心だけに引き付けられてゆきました。「目」が、フロドに語りかけているようでした。
「・・・ぅっ」
体中の力が急激に失われ、フロドは息が継げずにあえぎ、がっくりと膝を地面についてしまいました。
「フロドの旦那!?」
サムは驚きの余り思わず大きな声をたて、主人のそばに駆け寄りました。そして胸元を握り締めて震える手を取り、もう片方の手でそっと背をさすってやりました。
「大丈夫ですだ、大丈夫。おらがおりますだ。・・・指輪ですだね・・・」
「・・・あぁ。」
フロドはサムの声を聞き、足に力が入るようになりました。もう、あの「目」は見えませんでした。
「指輪が、重くなっていくんだ・・・重く。」
サムには、指輪は何も変化がないように思いました。しかし、確かにフロドの胸にかかっている指輪は重くなっていくのでした。それはフロドにしか感じられない重さでした。フロドの意思が、それを破壊しようと思えば思うほど指輪はそれに逆らうのでした。耐え難い苦痛となってフロドを襲うのでした。それだけではありません。指輪は知らず知らずのうちにフロドの心に入り込み、フロドもサムも気がつかない間にふたりをこの地に迷い込ませているのでした。
「引き返すわけにもいかない。引き返せたのもはじめのうちだけ。今はそれも不可能だ。進むしかない。わたしは疲れてしまったよ、サム。どうしたらいいのか分からないんだ。・・・何か食べ物は残っているのかい?」
フロドはまだしっかりしない足を休めようと岩の上に座り込みました。皮袋に入れた水は生ぬるく、残りは十分とは言えません。しかしフロドは水を口に含みながらそう言いました。サムは、その様子をとても見ていられないのでした。指輪のせいだと分かってはいますが、それでもやはりフロドの弱り方は尋常ではありませんでした。サムは自分に言い聞かせました。
『フロドの旦那は疲れてるだ。しゃべることもお辛いに違いねえ。だがよ、黙っちまうのはもっと良くねえ。フロドの旦那はいつもこうなのさ。自分ひとりの中に全部辛いことやら苦しいことやらをしまい込んじまう。お前にはそれを励ませないか?サム。明るくするだよ、できる限りな!まるでホビット庄にいる時みたいによ。さあ!』
サムは自分のたっぷり色々詰まった荷物を降ろしました。
「えっと、ちょっと待ってくだせえ旦那。・・・あー、あれだけですだ。レンバスとかいうやつですだ。」
サムの手にはロスロリアンのマルローン樹の葉で包まれたレンバスがひとつありました。それからサムは、もう一度荷物を覗き込みました。そしてちょっとおどけたような顔をしてみせました。
「それから、もひとつ、レンバスですだ。」
サムはそう言ってレンバスを割り、ぐったり座り込んでいるフロドにそっと手渡しました。そして残りを自分でかじりました。
「どうぞ。食べてくだせえ。ないよりましですだ。ええ、ずっとましですだ。おら、よその食いもんは気に入りませんがね、こりゃ悪くないですだよ。初めてこれを食べた時は他のもんなんていらんと思ったんですがねぇ。でも今はパンとビールが一口ほしいですだよ。いや、ほんのひとかけら。おらの背負ってる料理道具が使える日が来りゃいいんですが。ここにゃなんにもありゃしねえ。」
そう言ったサムは片眉をあげてちょっと笑って見せました。それを見て、フロドも小さく笑いました。なんだか嬉しくなったのでした。サムが料理をしてくれるところを思ったのでしょうか。サムが作ってくれた昔の――それほど前ではありません。しかしフロドには随分昔のような気がしたのでした――料理を思い出したのでしょうか。とにかく、少し力が出たようでした。レンバスのおかげかもしれません。アンドゥインの水の力かもしれません。しかしフロドには分かっていました。サムがいなかったらレンバスも水も、フロドには何の励ましにもならなかったということが。フロドはサムに感謝しているのでした。しかしそれを喜べば喜ぶほど、フロドの心はサムを連れてきてしまった後悔にも悩まされるのでした。
「お前は強いね、サム。お前には勝てないよ。」
サムもフロドの笑顔を見てまた微笑みました。そしてモルドールの方を苦々しげに見ました。
「少し、風が強くなりそうですだ。」
 

風はだんだん冷たく鋭くなり、ただでさえ暗い空の雲行きがあやしくなってきました。それなのに、ふたりはどうやら丘を下らなければならないようでした。モルドールを囲う山々から降りなければ、その地にたどり着けないのです。しかし同じような景色が続くうちに、ふたりはさすがにおかしいことに気がつきました。ここにいつまでもいては迷ってしまい、いずれ飢え死にしてしまうのが目に見えていました。
「なんだか見たことあるような気がしますが?フロドの旦那。ここらの岩はさっきのに似てますだ。」
「そりゃそうさ、サム。ここはさっき通ったもの。堂々巡りをしてるんだ。どこかで下に降りなきゃ永遠にエミン・ムイルからは抜け出せないよ。」
フロドはぐるっと周りを見渡しました。しかし通り抜けられるような道を辿るうちに、ふたりは灰色の大きな断崖の方へと追いやられていました。それはナイフで切りつけたように鋭く高く聳え立ち、とてもホビットたちには越えられそうもないものでした。つまり、どこかの崖を降りない限り、ここからは抜け出せないのでした。それにかれらにはもうひとつ心配がありました。
「旦那、聞こえますか?時々ですが、スースーっちゅう妙な音が。」
「ああ、聞こえる。」
顔をしかめたサムに、フロドはほとんど無表情で答えました。
「あの嫌なやつですだ。撒いちまえればいいんですが。」
それは、ゴラムでした。

「エミン・ムイルの崖」に続く。