18・モルドールの大地

 

全ての荷物を置き捨てて、全ての水を飲み干して、一体どれほど時間が流れたのでしょうか。荒れ野を進むホビットたちには、もう時間の感覚さえ残されていませんでした。サムに見えるものと言えば黒く焦げたような大地と、暗雲に覆われた空、そしてずいぶん近づいてきたものの依然いつ辿り着けるとも分からない火を噴く山だけでした。そんな死ばかりを示唆し予感させる風景に、サムは眩暈を覚えて自分の前を歩く主人に目を向けました。そこにはまだ、サムのここにいる価値を見出すものがあるからでした。今や中つ国の全てのよきものの希望となってしまった、愛しい主人の後姿がそこにありました。それは希望と言うにはあまりにも哀れで弱くそして薄汚れて痩せこけた存在でした。フロドはふらふらと道なき道を進んでいきます。その様子はまるで目の見えない盲のようでした。フロドは目の前の何かを振り払いながら、サムの目には見えない何かと戦いながら、少しずつ歩いていきました。ときおりよろけてはサムの腕の中に倒れこみ、それでもサムの
「休みますだか?」
という問いには答えず、目を瞑ったまま小さく首を振ってまた足を前に出すのでした。それは見ていて痛々しく、苛酷すぎる仕打ちのようでした。サムは、この旅に出て何度となく繰り返した問いを、思いの箱に閉じ込めていました。どうしてフロドの旦那なんですだか?という問いを。今はもう、これが自分と主人に与えられた道だということを覚悟して理解していました。これは歩かねばならない道です。そしてその重荷は決して自分に背負えるものではなく、フロドにしか運べないものなのでした。いくらその荷を軽くしてあげたくてもできません。いくらその重さを分かち合いたくともできません。それどころか、モルドールの大地と空気はサム自身の力すら、躊躇することなく奪っていきました。のどがカラカラと渇き、唾を飲み込むことさえできそうにありませんでした。瞬きをするとそのまままぶたがくっつきそうになり、鋭い岩を踏んでできた足の裏の傷はじくじくとその感覚をいたぶりました。それでもサムは、ひたすら主人の後を寄り添うようについていきました。もう決して離れはしないと誓ったあの時の決心のままに。
 

モルドールの大地でふたりを最大の恐怖に陥れるものは、埃っぽい空気でも、水のない歩きにくい岩場でもありませんでした。それは、モルドールの邪悪なる中心、サウロンの「目」でした。その視線はどこかに入り込んだ闇とは異質のものたちを探り出そうと、あらゆる所を照らし出していました。さっさっと行き交う「目」の存在を感じるたび、フロドはよろけ、そしてうめき声をあげるのでした。岩の多い地帯を抜け、もう山の斜面まで来たふたりは、ここから身を隠すものが先何もない坂を登らねばなりませんでした。そこにはただ灰と溶岩の固まった石しかありませんでした。上からは真っ赤な火の塊が時折降ってきます。それも、もう首を真上にあげないと見られないほどの距離までとうとうやってきたのでした。岩場の最後の岩から、フロドが足を踏み出した瞬間でした。カッと禍々しい光がその場を照らし出し、フロドを直接横切りました。
「フロドの旦那あ!伏せるんですだ!早く!隠れて!」
サムは身を走った凍るような感覚で、それが何よりも脅威であることを分かりました。そして自分も伏せ、そう叫んだ時には既にフロドは地面にばったりと倒れた後でした。
「フロドの旦那!」
サムはそう言おうとして、声が出せないことに気がつきました。フロドを助け起こしに歩きたいのに、身体が言うことをききませんでした。瞬きをしたいのに、凍ったように目を見開いたままになりました。一瞬、「目」がフロドの倒れている場所を凝視したように感じられました。サムは動けない身体をぎりぎりと動かそうとし、フロドに一歩でも近づこうと思いました。フロドは倒れてから、目を見開き、その瞳には恐怖そのものが映っているような表情でした。そしてその目はどこか一点を見つめ続けていました。フロドの身体が小さく痙攣し、呼吸できない胸は動くことなく、力なく垂れた手は動かすことなど忘れてしまったかのようでした。一体フロドには何が見えているというのでしょう。サムにはそんなことは分かりませんでした。しかし、その何かがフロドを苦しめ、苛み、殺さんとしていることだけは、はっきり分かっていました。
 

『もうだめだ、これ以上息をしなさらんけりゃ、フロドの旦那が死んでしまいなさる!今度こそ本当に!』
サムがそう思い、もう一度叫ぼうとひゅっという音をたてて息を吸った瞬間でした。今までフロドを捉えていた赤い光がさっとその場から離れていきました。燃えるその「目」は北にある何かに向けられました。去っていく「目」の気配を感じた瞬間、サムは身体が自由になっていることに気がつきました。はっと走り出し、サムはフロドの側に駆け寄りました。
「フロドの旦那!フロドの旦那ぁ!返事をしてくだせえ!あの目はいっちまいました。もう大丈夫ですだよ。おらはここにおります。どうかそんな遠いところを見なさらずに、おらを見て下せえ!おらの目が見えますだか?おらの声が聞こえますだか?おらはここにおります。この手が分かりますだか?」
フロドの手を取り、必死で擦ったサムは、その曇りを帯びた目をじっと見つめました。何かに焼き尽くされたような色をしていたそれは、次第にフロド本来の青さを取り戻しつつありました。そしてそれが深い湖のような色に戻ると、フロドはサムの茶色い目を、ひとつ瞬きをして覗き込むことができました。
「ああ、良かっただよ!」
サムは、それでもう十分でした。フロドの目は狂気に取り付かれてもいませんし、何かに捕らわれてもいませんでした。そして小さく口を開いたフロドは、かすれて聞こえないくらいの声でサムにささやきました。
「わたしは行かなくては。今のうちに。」
「はい、はい分かってますだ。おらも行きますだ。さあ、立ってくだせえ。おらがお手伝いしますだ。」
そうしてサムはぼろぼろと涙をこぼし、後ろからフロドの腰を持ってその身体を助け起こしました。そうしてまた山の方に視線を向け、何かに取り付かれたように前に進もうとする主人を一瞬だけ抱きしめました。そして小さくその耳に口付けを落として、そっと身体を離しました。もう、休む時間はふたりに残されていませんでした。もう、これ以上の言葉を発することすらふたりにはできませんでした。
 

「バラド・ドゥアへ」に続く。