4・ミナス・モルグルの砦
フロドとサム、二人の間に何の会話も、言葉すらもなくなってからどれほど歩いたでしょう。フロドはいつの間にかゴラムの手を離していましたが、それでも隣にサムを来させることをしませんでした。そうしようと思ってしていたのではありません。どうしても前のように振舞えなかったのです。心の中でどれほどサムを呼んだとしても、まるでその叫びが自分の心の壁に遮られて言葉にならないのでした。そしてその叫びが届かなくなるのと比例して、フロドの心は重くなってゆきました。そしてその重みがもう耐え切れなくなるほどのところで、ほの青く光る場所に着きました。ミナス・モルグル、アングマールの魔王の城でした。
その城は、かつての輝きを失い、おぼろげな緑の光を闇に放っていました。冷たいその光は決して目を愉しませてくれることなく、ただ心を突き刺すように鋭く空気を切り裂いていました。周りには草一本生えぬごつごつとした黒い谷間が広がり、岩は緑の光を反射して怪しくてらてらと光って見えました。そうです、ここは脅威と恐怖をはらむ、ナズグルの砦なのでした。
「死の谷だよ、とっても嫌な場所だよ、ゴラム、ゴラム。敵ばっかり、あっちもこっちもみんなだよ。」
ゴラムが、その城に近づきながらそう呟きました。その言葉は忌みを含み、束の間サムにゴラムが自分達の側にあるものだと勘違いさせるのに十分でした。城の余りの禍々しさに言葉を失ったフロドとサムは、その後によろよろと続きました。
「はやく、はやく来るよホビットたち!みんな見てるよ、そう、みーんなわしらを見てる!」
そうゴラムが手招きしてふたりを呼んだのは、城のすぐ脇にある小さな岩陰でした。サムは思いました。こんな小さな岩場なんかにいて、それもこんなに城の近くにいて、オークやらもっと嫌らしいものに見つけられないなんて可能性が一体どれほどあるのかと。サムにしてみれば、こんな場所にいるだけで誰かに見つかって、どうにかされてしまいそうでした。それなのにゴラムは手招きします。
「こっちよ、こっちだよ!見つけた、みつけたのよ、わしらみつけたよ。モルドールに入る道よ、内緒の階段だよ!」
そしてその指先には、とても階段とは呼べない黒い絶壁が遥か雲の上まで続いていました。かすかに岩に刻みをつけたようなおうとつが見えました。しかし、そこを上れるなど到底不可能だとサムは思いました。サムが階段を見上げて途方にくれていると、ふらっとその隣で空気が不自然に動きました。それは、足元のおぼつかないフロドの歩みでした。
フロドは、自分が今どうなっているのか分かりませんでした。何か、耳が遠くなったように感じました。ゴラムが何か言っているのが聞こえたような気がしましたが、それも気のせいだと思えました。そして耳をふさがれたような不思議な感覚のまま、足が勝手に動いていました。それはまるで夢の中の心地でした。それも覚めたいと思っているのに覚めない悪夢の中のような。指輪が急に一層重く感じられました。そして目を、美しくも恐ろしいうす緑の城から離せなくなりました。あそこに行けば、何かが終わる。この苦しいことが終わる。フロドの中の何かが言います。ほら、身体も動いていくだろう?そこに行けば楽になる。フロドは心の声のままに足を出していました。後ろで悲痛な叫びが響いても、それをやめませんでした。
「やめてくだせえ、フロドの旦那!だめですだ!」
サムは、フロドがどうかしてしまったのではないかと思いました。自分の隣ではゴラムも叫んでいます。
「そっちにいっちゃだめだよ!そっちじゃないよ!」
そうです、絶対にフロドをそちらにやってはいけません。しかし、サムがいくら叫んでもフロドは歩みを止めようとはしませんでした。ふらふらと、水の中を歩くように進んでいきます。ゆっくりではあるものの、確実にその先は闇へと向いていました。サムは思いました。フロドをそっちにやってはいけないと。ですから、かろうじて安全かもしれないと少しは思えた岩陰からばっと飛び出しました。そしてフロドを後ろから抱きかかえました。
「旦那!行っちゃいけませんだ、そっちに行っちゃなりません。おらの声が聞こえますだか?」
しかし、フロドは緩慢な動きでその手と声をも振り払おうとしました。サムの温かさは感じられなかったのです。フロドは、煩そうに耳を振りました。まるでサムの声が、夏の午後に耳に飛び込む嫌な虫の羽音のように聞こえました。
「駄目だ、彼らがわたしを呼んでいる。」
フロドがうわごとのように、そう呟きます。どうして邪魔をする者がこんな自分の近くにいるのか分からなくなりました。あっちに行かなければならないのに。どうしてもあちらに行かなければ楽にはなれないのに。どうして!
サムは、自分の声が届かないと分かった瞬間、フロドを力ずくで後ろに引っ張り始めました。自分の力が、今まで主人の側にあった自分という存在の力が、たとえこの障害を乗り越えられないほどの脆弱なものであっても、自分は主人を守らねばならないと、そう思ったからでした。それを認めるのは悲しいことでした。所詮サムという存在は、フロドにとって指輪や暗黒の力の前では何の役にも立たないのです。それをフロド自身から突きつけられたようなものでした。涙が溢れそうでしたが、今はまだその時ではありませんでした。こんなところでくじけるような愛であったのかと、自分を叱咤しました。今まで何度も主人は自分の声が聞こえなくなったではないかと。そして抗えない力が少しでも弱まれば、また自分のところに主人は戻ってきてくれたではないかと。ですからサムは、やっとの思いでフロドを危険な場所から少しだけ遠ざけることができました。岩陰にフロドの全身が入った瞬間でした。
「かくれて!」
ゴラムが叫び、ミナス・モルグルが冷たい閃光を放ちました。轟いた音は大地を揺るがし、強烈な光が目を焼きました。アングマールの魔王が城から現れたのでした。そのナズグルは、翼に乗っていました。醜く凶暴な生き物の上で、ナズグルは叫び声をあげました。その叫びは三人の耳に突き刺さりました。あの身を凍らせ、心をも突き刺す声でした。耳を塞いでも、その声は少しも小さくなりませんでした。以前にも感じたことのある、まるで頭に直接響いているような音でした。そしてそれ自体が恐怖でした。以前、死者の沼地で聞いた時よりも、更に恐ろしさが増していました。その声を聞いているだけで、サムはおかしくなりそうでした。しかし、フロドはそれ以上の苦しみを受けていました。
フロドは、この声で我に返ることができました。今まで何をしていたのだろうと思いました。しかし、さっきまでは確かに甘美な心持ちでしたが、それが突如として痛みに変わりました。鼓膜というよりは、その音はフロドの肩に刺さりました。そう、癒えることのない、アモン・ヘンで、このナズグルから受けた傷が、まるでその時の再現のように痛みました。エルフの力で一時は治まっていた痛みと冷たさが、フロドを襲いました。フロドは近くにサムを感じました。しかしそれは痛みの前では何の助けにもなりませんでした。
「あの刃を感じる!ああぁ!」
助けになれるとは、思いませんでした。痛みが和らぐとも思いませんでした。それでも、サムはフロドの手を握っていました。もうこれは、自分のためだとか、主人のためだとか、そういう範囲を超えてしまっていました。サムには、そうすることしかできませんでした。自分の耳が痛いなど、とうにどこかに行っていました。自分の心が恐怖で満たされる怖さなど、とうに忘れていました。苦しむフロドを見てしまったら、そう身体が動いていたのでした。ミナス・モルグルからオークたちの軍隊が列を作って出て行っても、自分たちのほんのすぐ目の前をそれが通っても、その上をナズグルが飛び越えていっても、サムはその手を離しませんでした。何も言わず、ただフロドの手を握っていました。
「さあ、いくよホビットさんたち。わしら登るよ。」
そして、全てがそこを去った後、ゴラムが言いました。目の前にはただ、キリス・ウンゴルの峠と一緒に絶望がそそり立っているだけでした。
「キリス・ウンゴルの峠」に続く。 |