26・守るべきもの
「わたしにはできないよ、サム。わたしには・・・」
それは、フロドの声でした。何者にも縛られていないフロドの声でした。
「お前さえ、分からなかった。わたしには・・・わたしには、一番大切な者さえ、分からなかった。お前を・・・わたしのサムを殺そうとしていた・・・そんなわたしに、この使命は果たせない。できないんだ、サム!わたしにはできない・・・」
「分かってますだ・・・ええ、旦那。おらには分かってますだ。全てが、全てが間違いだったんですだ。」
サムはゆっくり起き上がり、フロドに近づきました。頬を伝う涙が風に乾く間もなく次から次へと涌き上がっては溢れてゆきました。
「こんな、こんな所まで来てしまった。おらたちはこんな場所にいるべきじゃなかったんですだ。」
サムは立ち上がり、フロドと、そして遠く空を見つめました。暗く灰色にくすむその先には禍々しい赤い火が見えました。戦いの音が地を揺るがしていました。多くの血が流れ続けていました。
――まるで、大きな物語のようですだ、フロドの旦那。大きすぎておらたちの手にはとても抱え切れない物語のようですだ。闇と危険だけが溢れていて、いつの間にかそれだけで全てが覆われてしまう。暗い未来の結末を誰も知りたがらない。恐ろしすぎて、どうなるか分かりきっているから。幸せになりえないと、知ってしまったから。こんな悪い事が起こってしまったこの地が、元に戻ることなどありえないから。――
――でも、いつかは終わりが来るもんですだ。そしてただ、過ぎ去った物語になるんですだ。この影も、暗闇でさえ、消え去り通り過ぎるんです。そして陽の光がもっともっと美しく輝く。闇を飛び越えて輝く朝日が来る。そんな物語の中に、おらは旦那といるんです。小っせえ頃には分からなかった。どうしてそれが心に残ってる物語なのかってね。ですが、フロドの旦那。今なら分かりますだ。そんな物語の中のひとたちは、決して道を引き返さなかった。引き返す機会だって時間だってあったはずなのに。それでもそんな物語では、ただ道を進むひとが描かれてた。――
サムは、フロドの手をそっと取って立たせました。そしてフロドの目をその奥の心まで包むように見つめながら語りかけていました。
「なぜだか分かりますだか?かれらは心に何かを抱いていたんです。」
「私たちは何を心に持てばいい?サム。」
フロドは、まるで子供のようにそう小さな声で聞きました。答をサム自身の中に見つけるように。どうか、教えてくれと訴えるように。サムは、そんなフロドをそっと抱きしめました。壊れそうな心を包むように。暗闇を取り除くように。あたたかさを、思い出すように。
「旦那、フロドの旦那。世界には、守るべきよいものがあるんですだ。戦って、失われないように守るべきものが。美しく忘れたくない思い出が、眩しいほどの今が、光と喜びに満ち溢れるまだ見ぬ日々が。旦那は知ってらっしゃる。ひとりひとりの中に、それはいつだってあるってことが。安らぎも、幸せも、全部そこにあるんですだ。心の中に。」
「わたしにも、わたしにもあるのだった。守りたい、守るべきものが。お前にも、あるのだった。わたしはお前と、お前の大切なものを守りたい。わたしは、そのためにならこの道を進もう。お前と一緒なら、きっと戦ってみせる。」
フロドはそう、サムの耳元で囁きました。それは誰にも聞こえない、小さな小さな決心でした。深い青に、澄んだ涙が浮かび上がりました。全ての澱みを押し流すその激情は、溢れて流れてゆきました。フロドはそっと、サムに口付けしました。あたたかい唇は、全てを癒していくようでした。フロドがまた、ゆっくりと顔をサムから離し、サムがフロドの肩に両手を添えてもう一度抱きしめました。そして、そっと離れました。
ファラミアは、その様子を神聖なものを見るような目で見つめていました。自分の中の間違いが全てこのふたりによって流されて行くのが分かりました。かれらを行かせなければならないと、何かがファラミアに語り掛けました。それは優しい兄の声のようでした。ファラミアは、知らない間にフロドの前にひざまずいていました。そしてそっとフロドとサムを見つめました。
「わたしは、ようやくそなたを理解できた、フロド・バギンズ。わたしは間違っていたと、やっと気が付いた。そなたの忠実なホビットが思い出させてくれたのだ。これで、われわれは理解しあえた。わたしはそなたたちを行かせなければならないようだ。」
「そんな、ファラミア様!この国の法をご存知でしょう?お父君の定めなさった法です。彼らを行かせたら、あなたが死をもって償わなければならないのですよ!」
ファラミアを、失いたくないばかりのゴンドールの兵士たちは言いました。彼らにとってこの大将を今ここで失うわけにはいきませんでした。しかしファラミアの意志は固く、今やフロドとサムに負けないほど強くなっていました。
「わたしはその罰を、死さえ甘んじて受けよう。さあ、彼らを自由にするのだ。」
その瞳の向こうには未来が映っているかのようでした。そしてフロドは言うべき言葉も見つからず、ただ口の中で小さく感謝の言葉を繰り返すだけでした。
「ありがとうございます、ファラミア殿、ありがとうございます。そしてサム、わたしのサム、ありがとう、・・・ありがとう。」
「物語の中の物語」に続く。 |