Lukewarm
water
これはフロドの物語です。ある小さな夜の、小さな物語です。
フロドは草の中に取り残された自分を叱咤しました。男は既にこの場を去っていました。
「立ち上がらなくては。でも・・・」
瞳に灯った小さな光はまるで汚れていて、とてもあの庭師には見せられませんでした。忠実で、純粋な穢れなき、わたしの宝。
「この身体、今日はもう、動かないかな・・・」
ふっと自分を嘲ったフロドは先ほどまでの行為を引きずるように気だるげに身を起こしました。ずきん、と自分の中に小さな痛みが走りました。一瞬息を詰め、フロドはやっと立ち上がることができました。
「あの男のにおいがする。」
自分の腕をそっと嗅ぎフロドはまた笑いました。今度は少しだけ泣きそうな顔をして。
どうしてこういうことになってしまったのだろうか。フロドは少しだけ考えて、それ以上考えるのをやめました。
「ああ、そうだった。わたしが誘ったんだ。」
そう分かったからです。フロドはお屋敷には帰らずに月明かりの道を小さな池まで歩いていきました。少し、辛そうに。サム以外になら誰にでも見つかればいい。そんな投げ遣りな思考とは裏腹に、今夜ホビット庄は静かでした。降ってくる月の光さえもが音を立てて散っていくような、そんな晩でした。
池のほとりにフロドは腰掛け、はだしの足をそっと水に浸しました。ぱしゃん、と思いのほか大きな音がしました。足をそっと水面に引き上げると、ぱた、ぴちゃん、ぽた、としずくが垂れました。
「ああ、気持ちいい。」
思わず声が零れました。今宵は、ここでずっとこうしていよう。フロドはそう思いました。
湿気を含んだ肌に生温い風が頬をくすぐるような夕べでした。フロドはサムをお屋敷に残し、一人で緑竜館へ行こうとしていました。少しの後ろめたさを背中に隠して。
「今日は遅くなるからね。待ってなくていい。先におやすみ。」
フロドは感情の色を出さないでそう言いました。
「でも・・・」
「ひとりで、歩きたい気分なのだよ。」
「でも、おら待ってます。旦那のこと。」
綺麗な茶色の目が、後ろから語っているようでした。おれではいけないのですか?と。ふ、と思わず笑いが漏れました。
「お前じゃわたしを穢せないだろう?」
「え?」
「なんでもないよ、わたしのサムや。」
後ろでぴたっと動きを止めたサムの気配がフロドに伝わりました。「わたしの」なんて、それだけでサムは恥ずかしく思ってしまうのでした。フロドはそれが愛しくてたまりませんでした。でも、わたしはお前が思うほどきれいじゃない。フロドは自分にそう言いました。わたしを汚すのにお前では綺麗すぎる。わたしの誘う手には刺が、あるのだよ。そっとフロドは自分の胸元を見ました。ああ、ここで涙のひとつもこぼせたら、わたしはきっとまだ、きれいなのだろうな、と思いました。お前に嘘をつきたいわけじゃない。でも、ワタシヲケガシテ・・・声にならない声は夜空に消えました。
フロドは緑竜館の隅にそっと腰掛けていました。周りの喧騒もぼんやりとしか耳には届きません。目の前の冷えたビールも、もう何杯目だか記憶にありませんでした。いつの間にか、フロドの薄紅く染まった目じりの端に一人の男がいました。年の頃、ちょうどサムくらいの、ここらではあまり見かけない顔でした。
「ここへは、初めてかい?」
いかにも労働者階級らしいその均整のとれた体の持ち主に、フロドは気だるげな視線を投げ掛けつつそう言いました。目に映ったその男の瞳はホビットには珍しい透きとおるような緑色でした。ひとこと、ふたこと、男はフロドに話しかけました。声の調子はやや低く、美しい目はずっとフロドに注がれたままでした。心地よい、そう思わせる何かがある男の視線は、したたかに酔ったフロドを狂わせるのに十分な強さを持っていました。フロドはにこりとも微笑まずに男に再び視線を這わせました。そしてフロドがふらつく足を地に付け、そっと酒の席をはずすと、男の姿もいつの間にか緑竜館から消えていました。
フロドは水の辺村の池のほとりを歩いて行きました。月明かりが木の梢から顔に降り注ぎます。少し上を向いて、フロドはほう、と溜息をつきました。身体の熱が少しでもこの身から出て行くことを願いながら。そして立ち止まり、そっと耳を澄ませました。かすかな足音が聞こえました。こちらへ男が来るならば、とフロドは美しく危険な笑みを浮かべました。わたしをやろう。振り向くまでもありませんでした。木の暗闇に後ろから引きずりこまれたフロドはやっと男に向かって微笑んでみせました。街道から少し外れた茂みは深く、男がフロドに与える音、フロドが男に与える声は木々の間に吸い込まれてゆきました。
大切なものをなくしたくないから、わたしは流されてゆくのだろう。フロドは熱い身体を持て余して、朦朧とした意識の中でそう思いました。わたしはこれからも矛盾の川をくだり、砂利になって海に沈むのだろう。そう思いました。わたしは脆くて愚かだから、「いいえ、旦那は賢いお方。」きっとサムはそう言うのだろうけれど。でもわたしは自分の刺で自分を切り裂いているのだよ。お前のような光を曇らせたくないから。つと、頬を流れる涙がありました。それはフロドの心が泣いているのか、ただ身体が流させた涙なのか、それはフロドにも分かりませんでした。
しんしんと、夜が更けてゆくのをサムはひとり、お屋敷の窓から見ていました。
「旦那はどこに?」
サムのいけない考えは、今や頭中を支配していました。
「旦那は誰と・・・?だめだ!だめだ!」
サムは頭をぶんぶんと横に振って愚かな考えを追い払おうとしました。
「旦那はひとりで歩きたい気分なのさ、サムワイズ・ギャムジー!お前の詮索好きも困ったもんよ!」
サムは思わず声を出してしまいました。そしてはっと口を噤みました。考えれば考えるほど、サムは苦しくなってきました。もう、手のひらから逃れ出る水のようなフロドを全部飲み干してしまいたいという思いが今にも自分の中から溢れ出しそうでした。頭を冷やさないと、今日はもう家にも戻れない。サムはそう思い、袋枝路の家を通りすぎ、川に沿って歩き出しました。さらさらと、清らかな水音が心地よくサムを包んでいました。水は怖いはずです。でも今日のサムにはそれが自分を誘ってやまない美しい流れに見えました。
はた、と何かの気配に気がついてサムは足を止めました。小さな森を抜けるとそこには銀色に輝く池がありました。池は小さな波紋を投げ掛け、わずかにひたひたと岸に寄せていました。サムはごしごしと自分の目をこすりました。フロドが見えたような気がしたのです。真っ白い肢体はしなやかに腰まで池に浸かり、すくっては零れゆく水を見つめるその姿はまるでこの世のものとは思えぬ美しさでした。サムはエルフの水浴びというものがあるとしたら、きっとこのようだと思いました。そして、そんなことを考えるなんて、自分もずいぶんのんびりしていると思いました。しかしそれはエルフではありませんでした。それは紛うことなき主人の姿でした。サムは自分の咽喉が急にからからに渇いたようで、声が出ませんでした。そしてフロドはこちらに気がついていないようでした。
フロドは小さく歌っているようでした。サムには分かりませんでしたが、エルフ語の悲しい歌のようでした。池は浅く、フロドがしゃがみこんでも胸のあたりまでしか浸かりません。フロドはこの生ぬるい水をすくっては一糸纏わぬ身体にかけていました。何かを清めるように。池に近づきすぎたサムの鼻に、嗅ぎなれぬ異臭が届きました。主人の匂いでも、自分のそれでもありませんでした。今まで鎮まっていたサムの中の何かが、かっと熱を持ちました。
「旦那!」
思わず出た言葉と自らの行動は、フロドよりもサム自身を驚かせたようでした。サムはなんと苦手なはずの水の中に自ら足を踏み入れてしまったのです。
「サム。」
少し振り向いたフロドの言葉はあまりに普通で、サムはこんなに熱くなっている自分がおかしいと思わずにはいられませんでした。それに、冷たいはずの池に入れた足はまるで密度の濃い空気に触れているようで、感覚がおかしくなりそうでした。サムは水に対する恐怖心がなくなっていくのが分かりました。それでもきっと今、この時だからなのでしょう。サムは頭の片隅でそう冷静に考える自分が可笑しくもありました。
「フロドの旦那・・・」
ばしゃばしゃ、とサムがフロドに近づいてゆきました。フロドはゆっくりと身体ごとサムの方を向きました。サムはその真っ白な胸に一つの華も散らされていないのに、なぜか鼓動が速くなるのを感じました。心が、ざわめきました。
「サム。」
フロドはもう一度愛しい庭師を呼びました。何かの熱に浮かされているような、そんな声でした。確かに隠された刃がありそうな、濃厚な甘美な声。サムはそれにひきつけられ、フロドの望むがままに口付けを与えました。気がつくとサムも腰までこの水に浸かっていました。
「サム、サム・・・」
フロドはサムの目の奥を覗き込み、光をさがしているようでした。
「お前を、おくれ。」
そしてもう一度、サムに口付けました。サムはまた、あのにおいがしたと思いました。自分の中の何かが弾けたように思いました。
「フロドの旦那。」
掠れた声でそう言うと、目の前の滑らかな肌をかき抱きました。はあ、と漏れた溜息はどちらのものだったのでしょうか。それはかれらにも分かりませんでした。
体温のようなこのぬるい水に濡れた身体にサムは手を滑らせました。普段では、信じられないほど淫猥な音をたてるその動きにも、ただ水の静かな波になって消えるだけでした。それは見てはいけないほど美しい光景でした。二人のホビットは銀の水に身を半分委ね、金の月光にもう半分を預けていました。上下するその動きも口から漏れ出る吐息さえも全てが夜空と池に吸い込まれ、全てを洗い流していくようでした。フロドを清めるよう、サムは隅々まで自分をフロドに捧げました。フロドは神聖なものを受け取るようにそれを身体に収めました。白い月が視界いっぱいに広がり、水と自分と空気と、そしてサムの境目が分からなくなった頃、フロドはふっと自分の意識が遠のくのを感じました。
フロドが目を覚ますと、そこは自分の屋敷でした。服は夜着に替えられ、身はあったもの全てをかきだされ、痛みも何もありませんでした。もしそこにまだ乾かぬ上着を着たサムがいなければ、フロドは今宵の出来事は夢だったと思ったでしょう。しかし濡れたままのシャツで、サムがフロドの枕元に座っていました。
「お眠りくだせえ。」
サムはそっと言いました。
「まだ、夜明けにはちいとばかし時間がありますだ。」
「そのようだね。」
フロドは声が出せた自分に驚きました。あれほど啼いたはずなのに。フロドは目を優しく細めた庭師に向かってささやきました。
「やはりお前はわたしを汚せないのだね。」
「・・・・・・旦那。」
「お前が触れると、わたしが・・・きれいになってしまうようだ。」
サムはフロドの言葉の意味が全てではないにしても、理解した分だけ頬を赤らめました。もう、あのにおいはひとかけらもフロドには残っていませんでした。サムは何も、聞きませんでした。
「ありがとう、わたしのサム。」フロドは小さくそう呟き、目をもう一度閉じました。サムが小さく何かを口ずさんでいるようでした。子守唄のような、そんな安心する調べでした。
『あの男は――』
フロドは夢うつつでサムの声を聞きながら思いました。
『瞳の綺麗なあの男は、この地を去り、二度とわたしの前には現れないだろう。』
小さな安堵感と小さな罪悪感が通り過ぎていったようでした。しかしそれもまた、サムの声に流されてゆきました。
「おやすみなさいまし、フロドの旦那。」
おわり
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