Loss of
memory
これはサムと、記憶を失ってしまったフロドの物語です。
サムとフロドはエミン・ムイルの荒れ果てた岩の間をよじ登っては眺め、下っては見渡していました。そしてたっぷり一日分歩いてから、どうやら二人とも迷ってしまったことに気がつきました。
「にっちもさっちもいかねえです!」
サムが下のほうからフロドに叫びました。
「ここにゃ見覚えがありますだ!」
フロドは高い岩の上にのぼって少しでも周りが見えないかと苦心していました。しかしどうやらサムの言うとおりです。
「そりゃそうさ、サム!ここはもう2回も通ってる!」
フロドはそっと溜息をつきました。同じところをぐるぐる回っていただけだと分かり、疲れはさらに増したように思いました。もうこうなってはどうしようもありません。今日はこれ以上進んでもきっと同じところに出てしまうでしょう。ですからフロドは身を隠せそうなサムのいる岩の下へ行って休もうと思いました。フロドは疲れていました。心も身体もです。
「そっちへ行くから食べ物の用意でもしておくれ、サム!」
フロドはもう一度サムに向かって言いました。フロドはもうずいぶん旅にも慣れ、山道や岩の間の道も平気で歩けるようになっていました。しかし旅慣れてきた自分の身体とは裏腹に、心がどんどん息苦しくなっていることに気がついていました。指輪が重くなるのです。足が滅びの亀裂に一歩向かうごとに、指輪は重さを増しました。それだけではありません。自分の中で、この指輪を破壊すると強く思えば思うほど、指輪は重くなるのです。フロドは気がついていませんでした。自ら迷い込んだのだと。しかしそれはまた別の物語として語られるべきでしょう。とにかく、フロドは自分で思っている以上に疲労していました。サムのところへとりあえず行こう、そう思って足を踏み出した瞬間でした。もつれた自分の足をフロドは見たような気がしました。そして、
「危ねえっ!フロドの旦那ぁっ!」
と、サムが青くなって叫んでいるのが聞こえたような気がしました。サムがフロドの落ちる真下に必死で走ってくるのが視界の端をかすめました。
『ああ、あれでは間に合わないだろうに。』
フロドは暗くなっていく目の前の風景を感じながらそんなことを思いました。景色が灰色一色になり、やがて全てがぼんやりとかすみ、フロドは記憶の暗闇にのまれていきました。
それは一瞬のことでした。サムはフロドが高い岩の上から落ちるのを見ました。走ってもフロドを受け止めるには間に合わないと分かっていても走りました。サムがフロドに駆け寄ると、フロドは目を瞑って砂地に横たわっていました。
「旦那!旦那ぁ!」
サムはフロドを動かさないように気をつけて叫びました。怪我はないようです。サムはフロドの胸に耳をあてました。ちゃんと音が聞こえます。サムはフロドの鼻や口元に頬をかざしました。フロドの細い吐息が感じられました。そこでやっと、サムは少しだけほうっと息をはきました。しかしフロドは目を覚ましませんでした。サムは自分の手のひらをぺちぺちとフロドの頬に当てました。
「旦那!どうしちまったんです?起きてくだせえ!」
するとフロドの眉が少しひそめられました。
「旦那!」
サムはそういうと、水をそっとフロドの唇にあて、力なくうっすらとあいたその隙間に押し流しました。水がフロドの口からもう少しであふれそうだと思った時でした。こくん、と音をたててフロドが水を飲み込みました。そしてその目を、青く澄み切った湖のような目をゆっくりと開けました。
「ああ!よかった、フロドの旦那!」
サムは思わずそう言ってフロドをその身体ごと抱きしめました。しかしフロドの口から出た言葉は、サムをはっとさせるには十分すぎるものでした。
「とおさまとかあさまはどこ?」
サムは、まさかこんなことあるはずないと思いました。旦那のおふざけだろうと。しかしフロドの瞳は明らかに怯えを含んで、怖い知らない場所に来てしまった子供のように潤んでいました。サムはあまりびっくりしたのでフロドの肩を両手でつかんだまま、固まってしまいました。さらに追い討ちをかけるようにフロドがあどけない瞳で言いました。
「ねえ、あなたはだれなの?ここはどこ?ぼくおうちにかえりたいよぅ・・・」
フロドの声は震えていました。涙が一筋フロドの頬を流れました。サムはそれを見てやっと動くことができました。
「泣かねえでくだせえ、旦那!おらここにおりますだよ。」
サムはまたフロドを、今度は落ち着かせるようにしっかと抱きしめました。混乱していましたのでそんな言葉しか出てきません。そしてしばらく沈黙がありました。サムは次のフロドの言葉が出るまでに、今の状況をやっと把握することができました。どうやらフロドは落ちたショックで記憶の断片がなくなっているようでした。ということはです、フロドは今ただの小さなホビットなのです!指輪のことも、旅のことも、サムのことさえも知らないただの子供なのです!サムはどうしたら良いのか分かりませんでした。
「あなたは、はむふぁーすとのおやかたなの?だんなってだれ?」
サムの暖かい腕が幼いフロドの心を落ち着かせたようでした。フロドは涙をサムの袖で拭いてサムの目を覗き込みました。純粋で何も知らない子供の目でした。
「おらとっつぁんじゃねえです。サムですだよ。旦那はあなたのことですだ。」
「さむ?」
「サム、サムですだよ。覚えておいでじゃねえですかい?あなたの庭師ですだよ。」
「ぼくの?」
サムは眩暈がしました。フロドはフロドのままなのに、心だけ子供に――そうまるっきりの子供に――戻っているのです!サムはフロドが小さい頃から賢いと聞き知っていました。ですからこの状況を少しでも説明しようと考えました。
「そうです、旦那の庭師です。ご自分のお名前は分かりますだか?」
「フロド・バギンズ。」
フロドははっきりとそう言いました。名前は分かるようです。それに、とサムは思いました。フロドの両親はフロドがかなり小さい頃に亡くなっていました。つまりフロドはそんな昔の自分に立ち返っているのです!それにしてもサムはショックからなかなか立ち直れませんでした。フロドが、あのフロドが自分を忘れてしまうなんて!ありえないと思っていたのです。しかしここにいるフロドはもとのフロドではありません。それなのに、とにかくこの状況でも旅を続けなければいけないことは確かでした。今夜休んだら明日はまた歩かなければなりません。この心だけ小さいホビットを連れて!指輪の力はたやすく幼い心を蝕むでしょう。サムはそれを怖れました。もしフロドが記憶を取り戻しても、指輪の影響は強くなったままなのではないかと。いえ、それ以上に、フロドがずっとこのままだったら・・・そう思うと身がすくみました。
「ぼくのことはフロドってよんでよ。」
頭の中で一気にいろんなことをぐるぐると考えていたサムにフロドがいきなり話しかけました。
「へ?」
「ぼくもサムのこと、サムってよぶから。ね?『だんな』はへんだよ。」
「しかしフロドの旦那・・・」
「でもじゃないよ。わかった?サム!」
「へ・・・へぇ。」
しゃべり方は幼くともフロドはこういう場面に慣れているような口調をしていました。サムは思わず逆らえずに返事をしてしまいました。
「よかった、サム、ぼくらはもうともだちだよね。」
フロドは心細いでしょうに、にこりと笑ってそう言いました。サムはその笑顔に思わず涙がこぼれそうになり、それをぐっとこらえました。
「もちろんですだ!もちろんです。おら、ずっと、ずっと旦那のお側におりますだ。いえ、・・・フロドの側に。」
フロドは潤んだサムの目の意味が分からないようでした。しかし何か悲しそうだと思って手をサムに差し伸べました。そしてそっと手のひらでサムの頬をなでました。
「ないてるの?」
サムは目の前にいるフロドと聞こえてくる声の調子とがあまりにもかけ離れており、目を瞑りました。そうすればフロドを『フロド』と近所のホビットの子供に言うように言えると思ったのです。しかしいつまでもそうしてはいられません。サムは決心したように目を開き、思いっきりの笑顔をフロドに見せました。そしてすぐ、真剣な眼差しになりました。
「いえ、とんでもねえ、旦那・・・いや、フロドのサムが泣くなんて。フロドは優しい子だよ。それに賢い。これからおらが言うこと、よく分かってくださるだね?」
「うん。」
フロドは素直にそう言いました。サムは自分が今しなければならないことをしようと思いました。
「フロド、これからおらの言うことをよっく聞いててくだせえ。」
サムは一つ深呼吸をしてから話し始めました。フロドにはまだ何の変化もありませんでした。指輪の力による変化です。指輪にも気がついていないようでした。サムは少しほっとしながら、でも緊張して続けました。
「フロドは何にも覚えちゃいないと思うだが、おらたちは旅をしてるんですだ。長い長い旅を・・・」
サムが指輪の話をしている間、フロドは真剣な目でサムを見つめていました。何も話さなければ、それはまったく以前のフロドのままでした。サムは、本当は今目の前にいるのはあの主人だと思えて仕方ありませんでした。しかし瞳の色がどこか不安定で幼く、そのサムの考えが違っているのだと教えているようでした。そしておおかた話が終わるとすでに日はとっぷりと暮れ、暗闇がすぐ背後まで迫っていました。そして最後にサムはその指輪の今の場所のことを言いました。
「・・・そして、その一つの指輪は今、フロドの胸にかかってるんですだ。」
「ぼくの・・・」
サムはそう言ってしまったことを後悔しました。フロドが細い鎖をするすると引き上げ、指輪を取り出したのです。そしてその目と声には、まるで幼い子供にはふさわしくない邪悪な光が宿っていたのでした。
「これが、ひとつのゆびわ・・・ぼくのゆびわ・・・」
「違いますだ!!」
サムはフロドの手を鎖から半ばひったくるように離させてそう叫んでいました。
「だめですだ!旦那は・・・いえ、フロドはそれに触っちゃなんねえのです!」
サムは幼い心のフロドを守ろうと必死に大声をあげました。
「だめですだ!」
「なぜ?これはぼくのでしょう!」
「違うんです!おらの話、分かってくだすったでしょう?」
サムの余りの真剣な瞳と口調に、フロドはびくっとして、そうですガンダルフに諭されたビルボのようにすっかりおびえて、指輪の鎖から手を離しました。そしてサムが悲しそうに微笑み腕を広げると、フロドはそっとその腕に飛び込みぎゅっとサムにすがりつきました。
「おらが、力になりますから。」
サムはフロドの背をさすっていてやりました。
しばらくのち、サムがフロドをそっと離して、なけなしの食料をフロドに渡しました。フロドは黙ってレンバスのかけらを食べ、黙って残り少ない水を飲みました。そしてサムの腕の中で眠ろうと思いました。そんなフロドにサムはもちろん訳もなく慌てました。フロドは今ただの子供で、いつもの誘うような仕草ではなく、単に両親の温もりの代わりをサムに求めているだけだと、頭の中では理解しているのです。しかし何も言わずにサムの腕の中に納まろうとする身体はフロドそのものでした。
『この大馬鹿サムワイズ!』
サムは自分の胸に頬を摺り寄せて安心したように寝息をたてはじめたフロドを見てどうしようもなくどぎまぎしました。
『旦那じゃねえだ!フロドっちゅう子供に戻っちまったホビットだ!おめえは何をそんなにどっきりする必要があるかね、サム・ギャムジー!ただの子供だ!』
サムがいくらそう自分に言い聞かせてもそれは無理と言うものでした。眠ってしまったフロドはフロドのままでした。どこもいつもと変わった様子が感じられません。最近のフロドはサムの腕の中で眠ることも多くありました。その時と同じような、安心した幸せそうな表情をしていました。まるで自分のお屋敷にいるときのような何も苦しいことを知らない顔でした。幾重にも重なった黒い睫は大きな目を縁取り、唇にはほのかな朱が浮かび、ずいぶんこけてしまった頬や項は白く透きとおり、ホビットにしては小さな耳にかかる巻き毛が綺麗なカーブを描いていました。サムは次のフロドの寝言がなかったら確実に、理性もろとも吹き飛んでしまうところでした。
「・・・とおさまぁ、かあさまぁ・・・」
サムははっとしてフロドを見つめました。先ほどまでの幸福そうな面は一転し、フロドの眉がつと顰められ、フロドの閉じた目じりからすうっと一筋涙がこぼれました。サムは思いました。ここにいるのは本当に何も分からない子供なのだと。親の温かい腕が必要な子供なのだと。サムはそんなフロドがあまりに不憫でその細い肩をぎゅっと抱きしめてやりました。そして髪をすきながら額にそっと唇をあてました。
「大丈夫ですだよ。おらがおりますから。」
フロドの眠っている表情がふいに和らぎました。微笑みさえ浮かべているようでした。サムはそれを見て安心し、この暖かさを感じながらいつの間にか不安定な眠りに落ちていきました。
小さな心のフロドが目を覚ましたのは、夜もずいぶん更けてからの事でした。はじめは自分が家にいて、父親の腕の中で眠っているものだと思いました。しかしフロドは気がつきました。この腕はもっと温かく、もっと優しく、親のそれではないなんらかの愛情で自分を包んでいることが。そして今の状況を思い出しました。
「ああ、そっか。ぼくはいまサムといるんだ。」
フロドはそう口に出して言い、サムの方へ向き直ろうとしました。ところがフロドは急に何か自分の周りにとりついたように感じました。体が重くて動けないのです。さらにフロドは胸が苦しくなるような気がしました。『フロド、フロド』と何かの声が聞こえます。『それを持って来い』と。それはどこから聞こえるのか分かりません。背筋が凍るような響きと残酷なこだま、それに心臓を抉り出すような支配力のある『目』がフロドの前に瞬間的な切り返しの幻を見せました。
「ひっ」
と、フロドが声にならない声を上げました。余りのその恐怖に目は見開かれ、額からとめどなく脂汗が流れ落ちました。手が、勝手に動きます。胸元から出した金色の滑らかな指輪に、フロドの指が這い回りました。瞳に狂気の色が今までにない濃さで現れています。フロドの幼い心は今にも砕け散りそうでした。
「ぼくの、いとしい、しと・・・」
ばっと、サムが飛び起きました。耳につく「s」の発音が聞こえたのです。そう、確かに『いとしいしと』と!サムは怖れていたことが今一つ現実になろうとしていることに気がついたのです。
「フロドの旦那!」
サムは思わずそう叫んでいました。そしてフロドの両腕を指輪から奪い取り、地面に縫い付けるように押さえつけました。こちらを見たフロドの目はもはやあの純粋なものではありませんでした。完全なる絶対の悪に染め替えられたどす黒い光しかそこには見出せませんでした。サムは必死でした。いつものように。サムの下でフロドが力の限りもがきます。
「はなせ!ぼくのものだ!ぼくの、いとしいしとだ!あぁ!」
「だめです!だめですだ!」
サムはいつの間にか自分が泣いていることに気がつきました。
「目を!目を覚ましてくだせえ!旦那!お願えです!こちらに、おらの所へ・・・・!」
サムの涙がひとしずく、かっと見開かれたフロドの睫にかかりました。フロドの狂気が一瞬揺らいだように見えました。それを振り払うような力がフロドの中から湧き上がるようでした。
「うわあぁぁぁ!!!」
フロドが自由にならない手のかわりに首を捻り、常なら美しい言葉が漏れ出る泉であるその口で、サムに食いかかろうとした瞬間でした。サムはその口を自分の口で塞ぎました。
「ぅん!むぅ!」
チリ、とした痛みがサムの舌に走り、フロドの狂気が口内を鉄の味に染め替えました。血生臭さが口いっぱいに広がっても、サムはその口を離しませんでした。反対に噛み付くような、フロドに息を継ぐ暇を与えない口付けを与えたのでした。息がつけないフロドの瞳がわずかに濁り、もがくフロドは急速に肺中の空気を使い果たしてゆきました。そしてどれほどたったでしょう。かくん、とフロドの全身から力が抜けました。
「はぁっ、はぁっ!」
サムが口を離すと青ざめたフロドの顔がそこにありました。強い力で掴んでいたフロドの手首を離すと、そこにはサムの指の痕が暗闇を透けてくっきりと見えるようでした。そして血で染まった唇もそのままに、サムはフロドを見つめました。
「すまねえですだ・・・」
それはサムにとってあまりに辛いことでした。フロドを守るためとはいえ、フロドから息と意識を奪ってしまったのです。サムは顔をしかめてフロドの顔の輪郭をそっとたどりながら呟きました。
「これしか、ちっせえ旦那を救えなかったんですだ。許してくだせえ・・・サムを、許してくだせえ・・・フロド・・・」
サムは、今度はそっとフロドの頬を両手で包み込み、額にキスしました。止まらない涙にくれた顔のまま。そしてもう一度、唇だけを触れ合わせました。
フロドの意識は暗闇を彷徨っていました。子供の自分がいました。そして傍らに誰かがいました。
『だれなの?』
暖かく、大きな愛情がフロドの周りを包み込みました。ぼやけた感覚に確かな温もりが与えられました。
『わたしはこの温かさを、知っている・・・』
ぼんやりと、フロドの意識が上昇しはじめました。
『・・・サム・・・』
フロドは自分の心がそう呟くのを耳にしました。
『サムだって!』
全ての暗闇が風をはらみフロドの脇を通り過ぎていきました。時の流れが確かなものになり、薄明るい白い光が見えました。
『サム!サムや!わたしはここだ!』
「・・・・・・」
ふと、サムはそのやわらかい気配に気がつきました。フロドはまだサムの体の下に横たわっていました。すっと、フロドの中に大人びた光が戻り、そしてそっとサムに伸ばされる手がありました。
「サム?」
サムは思わず息をのみました。
「フ・・・ロドの旦那・・・?」
サムのおそるおそるの呼びかけにふっと微笑むフロドが、もとのフロドがいました。
「どうしたんだい、サム。ひどい顔をしているように思えるけど。」
暗闇の中でサムの唇をフロドの優しい指がたどります。フロドはそのぬるっとした感触に驚いたようでした。独特の異臭がフロドの鼻をつんと刺しました。
「・・・・・・・サム、何があったんだい。」
サムは何も答えませんでした。何も、答えられませんでした。ただ、もう一度フロドをぎゅっと抱きしめました。
「ねえ、一体どうしたっていうのだい?おかしなサムだね。」
フロドは縋り付くような抱擁に微笑んでそう言いました。そしてサムの髪をそっとすきました。何度も、何度も。
「ほら、わたしはここにいるだろう?」
フロドはサムにそっと言いました。
「ええ、ええ!」
サムは強く何度も頷きました。いつものフロドでした。いつもと変わらない、優しい主人でした。
「おかえりなさいまし、フロドの旦那・・・」
おわり
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