24・黒い翼の使者
ファラミアが立ち去り、またそこにフロドとサムは取り残されました。暗闇の中で胸元を握り締めて震えているフロドを、サムはうしろからそっと抱え、陰から連れ出しました。そしてその部屋の片隅にそっと座らせました。状況は昨夜のそれとほとんど変わらず絶望的でした。しかも今度はもっと悪い事に、見張りがつきました。ファラミアは、この二人を手放すまいとしているように見えました。大きな逞しい人間相手では、到底かないっこありません。ですからフロドとサムは黙って寄り添っているより他ありませんでした。荷物と言ってもフロドの荷物はいつの間にかなくなり、サムの荷物もずいぶん軽くなっていましたから、準備する時間もほとんど必要ありませんでした。洞窟の中では武器が触れ合う音と、忙しなく動き回る大きな人たちの足音が響いていました。サムは小声でフロドに話し掛けようとしました。見張りに聞こえないような小さな声でです。サムが肩を抱いていてやるうちに、フロドの震えは治まってきていました。
「旦那、フロドの旦那。大丈夫ですだか?もう、寒くないですだか?」
「あぁ・・・。」
フロドは心配そうなサムの声に、どうにかして答えようとしましたが、そんな受け答えしかできませんでした。ファラミアの視線とかつてのボロミアの視線、それに優しかった時のボロミアの目とボロミアを思い出すファラミアの目がフロドの頭の中をぐるぐる回っていました。フロドはそのどちらが本当の彼らであるか知っていました。そしてここにいてはならないとさらに強く思いました。ここにいてはいけない。脆く弱い人間の側にこの指輪を置いてはならない、と思いました。
「サム、ゴンドールへ行くわけにはいかない。」
「ええ、ええ、そうですだ。」
サムは下を向いて固い声でそう言ったフロドを悲しそうに見つめてそう言いました。
「そうですだ・・・」
しかしそれ以上言葉は出てこず、ただフロドにまわした腕に力を込める事しかできませんでした。
人間たちの準備が整うと、フロドのフロドとサム、それにゴラムは、再び目隠しをされました。どうやらゴンドールの都ミナス・ティリスとモルドールとの間の大切な拠点であるオスギリアスが襲撃されていると言う事です。ファラミアたちはホビットに合わせてのんびり歩くわけにはいきませんでした。彼らは目隠しをしたホビットたちの肩を掴み、急かして歩かせました。そして厳しい地形でふたりが足をとられそうになったり転びそうになったりすると担ぎ上げて歩き続けました。彼らのホビットの扱いはゴラムよりはずっとましで、ゴラムは後手に紐で縛られ、担ぎ上げられる事もなく、犬のようにほとんど走らされていました。ホビットたちに会話は許されませんでした。そしてかれらはかつてエフェルドゥアスの麓で見当をつけた十字路にさしかかる場所で、目隠しを取られたのでした。そこからは、はるか彼方にオスギリアスが見えました。
「見ろ!オスギリアスが炎上している!」
「敵が来たんだ!」
誰かがそう叫びました。人間たちの目はもはやオスギリアスだけに向けられ、その反対方向にあるモルドールへの道は誰も見ていませんでした。フロドには分かっていました。いえ、フロドだけではありません。サムも分かっていました。ホビットたちはこの十字路から出る左の道を進まねばなりません。もしこのまま人間たちにオスギリアスに連れてゆかれたら、その分だけモルドールから遠ざかってしまうのです。せっかくここまで来たと言うのにです。フロドは思わずこみ上げる涙を振り切って叫びました。
「指輪はゴンドールを救うことはできません!あれには破壊の力しかありません!どうか、どうかお願いです!わたしたちを行かせてください!」
一瞬、その声にファラミアが戸惑ったように見えました。しかし炎上する拠点を見た今、彼はそれを振り切るようにホビットの背中をオスギリアスに向かって押しました。
「急ぐのだ。」
「ファラミア殿!」
フロドはもう一度叫びました。涙が一滴、頬を伝いました。
「行かせてください!お願いです!」
サムはそれを見て涙が出そうになりました。どうして主人がこんなに苦しまなければいけないのだろうか、どうしてこの人たちは分かってくれないのだろうか。どうしてフロドだけがこんなに・・・。サムは苦い気持ちを噛み締め、どうにもできない状況と自分をのろいました。しかしそれでもかれらは虜囚のままでした。そのまま、とうとう矢と岩の降り注ぐ戦場に足を踏み入らされてしまったのでした。
ファラミア一行はオスギリアスの西の岸にたどりつきました。敵の数は多く、既に東の岸は占領されていました。このままでは夕暮れ前にこちら岸も占領されてしまうでしょう。巨大な石が、こちらの陣にわずかに届かず大きな音を立てて落下し、黒く鋭い矢が雨あられと降り注ぎました。その中をフロドとサムとゴラムは大きな人たちに庇われるように走りました。ここは戦場です。それ自身に力のないホビットたちは今はもう邪魔者でしかありませんでした。廃墟の壁に避難場所を求めてホビットたちが立ち止まったその時でした。フロドが突然、何かに襲われたかのように打ちひしがれた表情になりました。フロドは何か大きな力を感じました。逆らい難い、巨大な闇の力です。耳の奥ではるかな地からの声が響き渡り、だんだん周りの音が消えてゆきます。そしてそれと同時にフロド自身も失われつつあったのです。
「サム!サム!」
フロドは盲目の人のようにサムの姿を死に物狂いで探しました。
「旦那?!」
真っ青になったフロドの顔を見て、サムは主人の方に無理矢理向き直りました。
「サム、これが、これが彼を呼んでいるんだ、サム!『目』が、わたしを見ている!」
その声はうろたえ、息が震えていました。
「大丈夫ですだ、フロドの旦那・・・大丈夫ですだ。おらがおります・・・フ・・・」
フロドはサムが何か言ってくれているようだと思いました。しかし、かれの耳には何も聞こえなかったのです。何も!サムの声が聞こえなくなりました。そして、サムの顔も、見えなくなりました。フロドの感覚は生きながらにして完全に指輪と「目」に捕えられてしまったのでした。
そんなフロドがおかしいと、サムは心のどこかで分かっていながらもフロドを励まし続けました。
「大丈夫ですだ、おらがおります。大丈夫、フロドの旦那。しっかりしてくだせえ、旦那!」
それがどうあれ、ファラミアにはもうホビットとそれが持つ「贈り物」の行く先を決めていました。サムの必至の声とフロドの尋常ではない様子にも関わらず、ファラミアはこう言って放ちました。
「デネソール侯に彼らを届けよ。わが父に告げるのだ、ファラミアからの『贈り物』だと。この戦いとわれらの運命の浮沈に関わる強大な武器だと。」
それを聞いた瞬間、サムの胸に怒りが湧き上がり、自分でも押さえきれなくなりました。結局この人も同じだった。同じだった・・・ボロミアと!
「ちょっとまってくだせえ!ボロミアの旦那に何が起こったか知りたくねえんですだか?」
ファラミアはサムの言葉に立ち止まり、ゆっくりと振り向きました。
「どうしてあんたの兄様が死んだとお思いですだか?ボロミアの旦那は・・・ボロミアは、指輪をフロドの旦那から取ろうとしたんですだよ!フロドの旦那を守ると、守ると誓ったのに!それなのに、それなのにフロドの旦那を殺そうとしたんですだよ!指輪が、あんたさんの言うその指輪があんたの兄様を狂気に追いやったんですだよ!あんなにお優しく強かったあの人を!あんたも同じなんですだか!?何とか言ったらどうですだ!」
ファラミアは何も言えず、ただその場に立ち尽くしていました。
『ボロミアが・・・ボロミアが指輪の主を襲ったと、殺そうとしたと!あの高潔なボロミアが!そしてわたしは何をしている?ボロミアと同じではないのか?指輪を手に入れ、わが故郷を守ろうと。デネソールの心を得ようと。わたしは指輪に魅入られていたのか?人間であり脆いが故に?』
もしその時大きな岩が彼らの上にそびえる古い塔を打ち崩し、誰かが危ないと叫ばなければ、ファラミアは我に返らなかったかもしれません。サムの言葉は真実の響きがあり、そしてまたファラミアはそれが事実であると理解する聡明さもありました。しかしそれは建物の崩れる音で全てが遮られました。
フロドは、自分を全て手放していました。すぐそばに迎えが来ている。それが心にある唯一の強制的な思考でした。表情が一変し、それは美しくも恐ろしい狂気に満ちた顔になりました。目はうつろに見開かれ、足どりは覚束なくふらふらと戦いの真っ只中に歩き出しました。
「フロドの旦那!?」
サムがファラミアを睨んでいた目をはっと主人にかえし、叫びました。
「――かれらがここに――かれらが来る――」
その声はフロドのものではありえませんでした。遠くから操られているかのような耳に残る邪悪な響きを伴っていました。
「旦那!!」
サムの呼ぶ声と、空いっぱいに渡る醜い翼の音、悲鳴のような血の凍る鳴き声、そしてファラミアの叫びが同時に響きました。
「ナズグルだ!」
「オスギリアス」に続く。 |