2・暗がりの出発
毎日、フロドとサムはゴラムの案内で薄暗がりのイシリアンの森を歩き続けました。太陽は確かにそこにあるはずでした。しかし、ホビットたちに感じられるのは、それを覆う何かと、自分たちの影と、そして沈黙だけでした。何リーグも、ひたすらに自分達の足が動いてくれる限り、日中はずっと歩き続けました。そしてとうとう歩けないとフロドがしゃがみこむか、そうなる一歩手前にサムがゴラムに声をかけ、ただ倒れるように休みをとるのでした。夜になると、ゴラムはどこかへ行くようでした。しかし次の朝には戻っていてその嫌な喉を鳴らす音でサムの目を覚ますのでした。サムはいっそこのままゴラムが戻ってこなければいいと何度思ったでしょう。しかしまだいけません。目的のためにはゴラムが必要だと、それはフロドの命でもありました。ですから今日も、眠りに付く前にゴラムを胡散臭い目で見て、それでも疲れには逆らえず目を瞑るのでした。
サムはフロドの傍らに横たわり、マントで身体を覆うようにくるまって寝息をたてていました。しかしフロドはいつものように気持ちが落ち着かず、何度も何度も起きてしまいました。フロドの夜は今や二つしかありませんでした。気を失うように何も考えられずに眠り込むか、もしくは疲れているのにも関わらずちっとも眠れないか。そして今日は後者でした。横になることもせず、フロドは古い遺跡が崩れかけて出来た穴の奥で、壁にもたれて指輪を取り出していました。フロドはただ、その指輪を見ていました。そっと手を触れると、フロドの中に蜜のような安息が訪れました。それが指輪の誘惑だということを知っていながらも、フロドにはそれに抗う力がだんだん少なくなっていっていることが分かっていました。自分が自分でなくなっていくのです。そして今も、その指輪を見る目が、サムの知っているフロドではありませんでした。しばらくフロドはそうしていましたが、何かの物音にはっと我に返り、指輪を服の中にしまい込みました。誰にも触れられないように、誰の目にも晒されないように、誰もこれ以上指輪に壊されないように。
「起きなきゃいけないよ、起きるんだよ寝坊のホビットたち!行かなきゃなんないよ、すぐにだよ!」
ゴラムの遠慮の無い声は、ぐっすり眠っていたサムを起こしました。一度顔をしかめ、サムはまずフロドを目で探しました。毎日、目が覚めた時に主人が無事でいるのを確かめること、これがサムの日課になっていました。そしてフロドが起き上がり、壁にもたれているのを見て、少しほっとしたような目になり、それからちょっとだけ顔をしかめました。
「旦那、お顔の色が少しよくねえようですだ。眠れましただか?」
するとフロドは苦しげに首を振りました。
「そうですだか・・・おらは、どうやら寝すぎちまったみてえですだ。」
「いいや、そんなことはないよ、サム。ここはいつでも暗いんだ、とても暗い。朝が来たことが分からないくらいに。」
フロドがそう言い終わるか終わらないかのうちに、地面が揺れました。滅びの山が身を震わせたのでした。それはただの身震いだったのかもしれません。しかしそれは多くの人々に恐怖と警告を与えました。遠く離れたゴンドールの城の者たちにも、もちろんゴラムやフロドたちにもです。
「行くよ!ホビットさん、行かなきゃなんないよ。時間がないのよ、そう、ないのよ。」
しかしサムにはそれよりも、フロドのことが心配でした。どれほど大きなことが外で起ころうとも、ひたすらに主人のことを思うのでした。
「ちょっと待つだよ。フロドの旦那は何か食べなきゃなんねえ。ほとんど眠っちゃいねえんだ。せめて食べなきゃ歩けねえだよ。」
「だめだよ!何言ってる、時間がないのよ。馬鹿なホビットだよ。」
ゴラムにどう言われようが、サムはフロドに何かを口にさせなければ一歩でも進む気はありませんでした。ですからその言葉をほとんど無視して、自分の荷物を覗き込みました。そこにはもう、ファラミアが用意してくれた食料はありませんでした。あるのは、水がいくらか入った袋と、いくつかのレンバスの包みだけでした。
「さあ、旦那。食べてくだせえ。」
そう言いながら、サムはできるだけの笑顔でフロドにレンバスを渡しました。今までどこか遠くを見つめていて焦点の合わない目をしていたフロドが、ようやくサムに気が付いたようにレンバスに手を伸ばしました。そして一口かじったところで、ふとサムの視線を感じて目を上げました。するとそこにはサムがいました。そしてフロドを見ていました。ですが、ただそれだけでした。サムは水も飲まず、レンバスもかじってはいませんでした。フロドははっとしてサムに問いかけました。答えは分かりきっているというのにです。
「サム、お前の分はどうしたんだい?わたしばかり食べるなんて・・・」
「いえ、おらはそんな腹も減ってませんだよ。ゴラムがどこ行ったか分かんねえぐらいしっかり眠っちまいましたしね。それに、レンバスはもううんざりですだよ。」
サムが、少しおどけた調子で言いました。フロドにはそれがサムの優しさだと痛いほど分かっていました。サムが、子供の頃から憧れ続けたエルフの食べ物を悪く言うなんてことがあるはずがありませんでした。そして空腹ではないということもありえませんでした。ですからフロドは、困ったような、悲しいような、とがめるような目をサムに向けました。
「サム。」
サムは、その視線には勝てませんでした。元よりフロドには敵うはずなどないのです。
「分かりましただ。ではおらも少しだけ頂きますだよ。でも、もう残りが少ないんですだ。おらが見るところ、今フロドの旦那が食べなさる分には十分に足りるはずですだ。」
「何に足りるというんだい?」
フロドは、サムの真意を掴みかねて言いました。
「帰途までの分がですだよ。家に、帰るまでの分ですだ。」
フロドは、はっとしました。サムはまだ希望を全く捨てていないのです。なんということでしょう。この暗闇を歩き、絶望を目の前にし、不吉な振動を感じながらも、まだこのホビットは希望の光を目に宿していたのです。フロドは思わず涙がこぼれそうになりました。サムは続けました。
「とっつぁんがよく言ってましただ。『命がありゃ望みがある』とね。それから、『それには食いもんが必要』とも。ですから、フロドの旦那。それだけは今食っちまってくだせえ。そしてさあ、それを片付けたら、また歩くんですだ。おらはどこまでもお供いたします。」
そう言ってほほ笑んだサムの瞳は、ホビット庄にいた頃のままの、綺麗な目でした。フロドはこんな薄気味の悪い場所にいながらも、もう一度微笑むことができました。
「ああ、そうだね。ありがとう、サムや。」
「姿をあらわした陰謀」に続く。
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