17・キリス・ウンゴルを去って

 

サムが探し当てた着るもの、それはオークの一揃いの布切れでした。何かで黒く変色していて、ごわごわと肌にささり、さらに酷いことには吐き気がする臭いがしていました。しかしそれはここで着るのに最も適した服装なのかもしれません。フロドはサムがどうやってこれを手に入れたか知りたくもありませんでしたが、サムに
「ちょいとそこらに転がってるオークどもをひっくり返したらすぐに手に入りましただよ。」
と言われて、少しだけ複雑そうに笑おうと努力しました。オークの布切れは、いくらサムが小さめのオークから引き剥がしてきたものだとしても、ホビットには大きすぎて、巧く着ることができませんでした。サムに手伝ってもらってぎゅっと腰の紐を締め、大きすぎるかぶとを被り、立ち上がると、それはまるで小ぶりなオークそのもののように見えました。
「さあ、行きますだよ。」
 

一匹の獣にもオークにも出会うことなく塔を去って、フロドとサムはとうとうモルドールを一望する場所にやってきました。ここまでの安全とは言いがたいけれども、少なくともオークや明らかに敵である生き物に出会わずにいられた場所がなつかしくなるような風景でした。死に瀕した土地にはまだかろうじて生きている棘やら逆刺やらしなびた葉っぱのついた灰色の茨の茂みが広がり、その向こうには平原が広がっていました。そのゴルゴロス平原には、ちらちらと禍々しい光が揺れ動き、まるでそれ自体が大きな生き物のように見えました。しかしそれを越えねば滅びの山には辿り着けません。岩と茨に隠れて、蝿やぶよに悩まされながら進む二人は、とうとう平原のふちまで着ました。そして見たものは、ふたりをさらに追い詰める景色でしかありませんでした。何千、いえ何万というオークたちがひしめいていたのです。
「とうとう来ちまいましただね、フロドの旦那。とうとう、モルドールに着いちまいましただよ。」
サムは、フロドの肩をそっと抱いて言いました。肌にこの布が食い込まないように。それでも自分の体温が伝わるようにと。フロドの身体は心持ち震えているようでした。
「ああ、でもサムや、多すぎる。やつらが多すぎるのだよ。ここを通り抜けることはできないよ。たとえオークの格好をして、エルフのマントで身を隠せたとしてもね。」
そう言うと、フロドは自分の言葉にさらにおびえたように、今度ははっきり分かる程度に震えだしました。おこりにかかったようなフロドの身体を自分に引き寄せ、サムはそのかぶとから覗く、恐怖に見開かれた瞳をじっと見つめました。
「ええ、そうですだね。でも、おらたちはきっとどこかに道を見つけるでしょうよ。」
フロドには、その言葉は聞こえないようでした。
「ああ、かれがいる!あの目がわたしを見るだろう!」
「旦那、旦那!」
サムはその瞳がある一点を見つめて動かなくなっているのを無理やりに動かしました。顔を両手で包み、そして自分の方に向かせました。
「フロドの旦那、ここにはおらがおりますだ。あそこにはたっくさんオークどももおります。でも、フロドの旦那。おらたちは、これをやっつけちまわなきゃなんねえんですだ。あそこに行かねばならねえんですだ。さあ、行きましょう!」
フロドの目は、小さく覗くサムの茶色い目と合わさり、今まで瞬きを忘れていたことを急に思い出したかのように涙で湿ってゆきました。一、二度フロドはまぶたをゆっくり開け閉めし、それからほうと息を吐きました。
「ああ、そうだねお前と行こう。たとえ茨より険しい道がこの先にずっと続いていても。」
 

そうして苦労した末に茨の茂みから抜け出せた二人の目の前で、今まさに奇跡としか言いようのない光景が繰り広げられていました。オークがいっせいにその場から去っていこうとしていました。
「見てくだせえ、オークどもが!」
サムの抑えた、でも興奮した口調に、今までずっと足元しか見ていなかったフロドが視線を上げました。その目は虚ろで、どこか心ここにあらずと言った感じではあるものの、邪悪なものには囚われていませんでした。ただ、体力の限界を指輪がさらに推し進めて、表情を動かすことですら辛くなっていたからなのでした。そんなフロドを振り返り、少しだけ安心したサムは、もう一度オークたちが動き始めて、まるで地面がそのまま動いているようなゴルゴロス平原をじっと見ました。
「やつらどっか行っちまいます。見えますだか、フロドの旦那?なんてこったい。おらたちにも、まだ運っちゅうもんが残っていたみてえですだよ。」
いやいや首を上げる動作をしたフロドは、サムが指差す先を、眩しくもないのに顔をしかめて見ました。確かに移動が始まっていました。それは遠くから見た今はそれほどの速さでもないのですが、着実に自分たちから遠ざかってゆくのが分かりました。足元から伝わる振動が、それを裏付けていました。
「どうしてだろう・・・」
フロドはまた良からぬ方へと考えが行ってしまう自分に檄を飛ばし、それでも今ここにいる自分たちには少なくともそこにいられるよりは良い影響を受けるだろうという結論に達して、息を吐きました。同じく、サムにも何が起こったのか分かりませんでした。誰が黒門のある方でオークを呼んでいるのか、何がその地で行われようとしているのか、ふたりには全く予測もつかなければ想像もできないことでした。そしてふたりはそれが、ただホビットたちに与えられた幸福であるかのように感じられました。
 

オークが道を開けてくれるまで、まだ時間がありそうでした。それに、重いオークの皮鎧の布やかぶとは、ただでさえ体力の限界にきているフロドのなけなしの力を吸い取っているようでしたので、サムはここで一休みすることにしました。
「さあ、全部荷物をおろして下せえ。旦那は休まなきゃなんねえですだ。それに、さっきの傷も手当しとかねえとなんねえですだよ。」
「ああ・・・」
フロドはそう言ったかと思うと、急にしゃがみ込み、岩にもたれて動かなくなりました。
「フロドの旦那!」
サムはどきりとしてフロドの肩を揺すりました。ちょっとした安心が、命取りになることを、サムは本能的に知っていたのです。
「ここで倒れちゃなんねえです。傷から何か悪いもんが入ったらえらいことになります。こいつを脱ぐんです。」
そう言いながら、サムはフロドのかぶとを脱がせ、そして腰でしばっていた縄を解きました。身体を動かされることが嫌そうに、しばらくサムになされるままになっていたフロドは、サムの手が素肌に触れるところになって、急に羞恥を思い出したようでした。そしてたゆたう意識を手元に引き戻して、フロドはオークの衣装を脱ぎ捨てました。サムは、荷物に入っていた、最後の清潔な布でフロドの鞭で打たれた痕を綺麗にふき取り、それからこういう時のためにとってあった最後の強い酒を少し口に含んで吹き付けました。フロドは、う、と言っただけで、他には何の反応も見せませんでした。しかしそれで大方は大丈夫でしょう。サムはよし、と言いながらフロドに既に汚れてはいますが、オークのものよりはましな、シャツとズボンを渡しました。
 

着替えも手当ても終わり、フロドは自分の水入れを唇にあて、水を飲もうとしました。しかしそこに残っていたのはほんの数滴のしずくだけで、唇の荒れて皮のはがれた場所を潤すのにさえ足りませんでした。サムはそんなフロドを見、そして自分の荷物と水入れを見比べ、フロドの側へと一歩寄りました。
「さあ、これを飲んでくだせえフロドの旦那。おらの水は、もう少しだけ残ってますだ。ええ、少しだけですだが。おらはまだ平気ですだ。」
そう行って渡された水入れの中には、まだちゃぽっと音がする程度の水が入っていました。フロドのそれを持つ手は震えていました。せっかくの水をのどに流し込もうと必死なのに、手がうまく操れず、半分くらいがあごを伝って大地に消えてゆきました。そして水入れをさかさまにして、もう水が一滴も出ないことが分かったフロドは、ようやく声を出せるだけの力が戻ってきたようでした。
「すまない、水をこぼしてしまったよ。」
「謝ることなんて何もねえですだよ、フロドの旦那。」
そう言うとサムはフロドのあごから垂れた一滴をすいと人差し指ですくってふき取ってやりました。それに気持ちよさそうに目を細めたフロドは、しかし次の瞬間厳しい顔になって、サムに話し始めました。
「これでもう、帰りの分はなくなったというわけだね。」
「ええ、そうですだね。おらも、そう思いますだよフロドの旦那。」
そう言ったふたりの頬には、どちらにも涙の跡がありました。そしてホビットたちは、再び歩き始めたのでした。穢れ、乱れきり、生き物のいない不毛の大地の真ん中へと。

  「モルドールの大地」に続く。