5・キリス・ウンゴルの峠
ゴラムがふたりの先に立って歩き始めてしまってから、サムはゆっくりと視線をフロドに戻しました。フロドはまだ、肩で息をしていました。片手は古い傷跡を、まるでそこに手を当ててさえいれば少しでも痛みが和らぐのだと言わんばかりに握り締め、もう片手はサムの手の中にありました。サムとつながっているそこだけが、フロドの身体で唯一温かい場所でした。
「さあ、行きますだよ。」
サムがそっとそう口に出し、握ったその手はそのままに、フロドの身体を立たせました。フロドは少しよろめきましたが、なんとか立ち上がることができました。その肩は、まだ疼痛でじくじくと痛んでいました。少し前には、もう完治したのかと思えるほど痛みも疼きもなくなっていたというのに。
「ああ。」
フロドはなんとかそう一言だけサムに返事をして、熱に浮かされたような瞳で崖を見上げました。サムの言った言葉も、フロドの耳にはただ遠い風の音のようにしか聞こえませんでした。
「さあ、先にお登りくだせえ。旦那が、万が一足を滑らせちまっても、おらが下なら受け止めて差し上げれますだよ。安心して後ろを任せてもらっていいですだ。さあ、行きましょう。」
ふたりの前を、というよりは上を、ゴラムが吸盤のような手と足を使って器用に登っていました。時々振り返っては、ホビットたちが落ちていないか確かめていました。今のところ、ふたりとも少し遅れるだけでついてきているようでした。サムは思いました。
『こりゃ、階段なんて生易しいもんじゃねえよ。崖って言ったっていいくれえなもんだ。』
サムが思うより、この階段はやっかいでした。角が風化して取れているような段もあれば、つるつると滑る足がかりになりそうにもない段もありました。そして一番やっかいなのは、足や手をかけた途端に崩れていく段でした。フロドの足取りは、時折よろけはするものの、確実に階段を登り続けていました。しかしその目はほとんど虚ろで、目の前のゴラムの姿さえ映っていないようでした。
一体どれほどこうして沈黙の中、登ってきたことでしょう。もうかなりの距離が、サムの足元から地上までを占めていました。ホビットの硬い足の裏にも、血が滲んでいました。ここで落ちたら二度と立ち上がれぬ身体になることでしょう。サムはぞっとしました。もう、大概の感覚は麻痺していたと思っていたのに、この場にいるのがとても恐ろしく思えました。その時、サムの少し上から声がしました。それはフロドの美しい声ではなく、ゴラムのかすれた醜いそしてなぜかどこか嬉しそうな声でした。
「気をつけるよ、旦那さん。落ちたら遠いとこまでいっちまうのよ。あぶない階段なのよ、そうよ、危ないのよ。」
声がしたすぐ後でフロドの足が止まりました。サムが、もうこれ以上は耐えられないと思った時でした。
「最初の階段はこれで終わりよ。よくやったのよホビットさん。」
ゴラムが一段高い岩棚に登ったのでした。フロドは、何も言いませんでした。ただ、ゴラムの導く先に、必死になってすがりました。手が、滑ります。何かを掴んだはずのその手が空を切ります。岩棚に当たったフロドの身体から、小さな音がしました。それはほんの小さな音で、金属が擦れるような音でした。しかしその小さな音が、ゴラムの目に怪しげな光を宿らせました。
「ほら、来るよ旦那さん、おいでよ、おいでよスメアゴルのとこへ。」
指輪が、見えたのでした。ゴラムの目は、フロドの胸元にある小さな金色の指輪に吸いつけられていました。そして、ゴラムは手を指輪に伸ばしました。
「フロドの旦那!」
サムが、声色のおかしくなったゴラムにはっとしてつらぬき丸を抜きました。フロドの身に、危険が迫っているとサムの中の何かが言いました。その元凶はゴラムの心に他ならないのでした。
「下がれ!旦那に触るな!」
サムはつらぬき丸を握り締めたまま叫びました。返事はありません。ゴラムは少しずつ、指輪に手を伸ばしていきました。
「下がれ!!」
ゴラムが指輪を掴むか、サムがゴラムに切りつけるかというその時、ゴラムがフロドの腕を掴み、岩棚の上にひっぱりあげました。サムは、それを胡散臭そうに見、そして怒りに震える手でつらぬき丸を鞘に戻しました。そして、フロドが登っていった岩棚によじ登ろうともがきました。
フロドが引っ張りあげられたそこは、段々にこそなっていませんが、なだらかな坂にはなっていました。気を抜くとすぐに滑り落ちそうでした。フロドは、ぞくぞくと身震いしました。登ってきた間に汗をかいていたのです。それが冷え、じっとりとした寒気がするのでした。その岩棚には上からの冷たい風が吹き降ろしているのでした。フロドは寒気と疲れに逆らえず、うつぶせに寝転がったまま動けずにいました。そこへ、ゴラムが近づいてきます。フロドには、逃げることも避けることもできない声の誘惑が届きました。
「どうしてあいつは可哀相なスメアゴルを嫌う?スメアゴルがあいつに何か悪いことした?したのかい、旦那さん。ねえ、旦那さん、旦那さんは重い荷物を持ってるよ、とっても重いよ。スメアゴル知ってるよ。とっても重いの知ってるよ。あの太ったホビットは知らないのよ、スメアゴルが旦那さんのめんどうみるよ。スメアゴルがだよ、ちゃんとだよ。よく考えるんだよ旦那さん、あいつは、それをほしがってるよ。あいつ、それを手に入れたいんだよ。」
フロドの目が、ゴラムと同じ光を帯びました。ホビットが持つ純粋な光が消え、邪悪な闇がフロドの視界を奪いました。
「スメアゴル見たよ、あいつの目がそう言ってるよ、そのうち言うよ、言うに決まってるよ。旦那さん、そのうちわかるよ、あの太ったホビットが、旦那さんからあれを取っちまうんだよ!」
その言葉にはじかれたように、フロドは身体を起こしました。そしてその先には、必死な顔をしたサムがいました。怒りに燃えているような目でした。揺れる不安を抱きしめるように、フロドは指輪を握り締めました。小さな疑いの芽が、フロドに植えつけられてしまったのでした。
「操られた心」に続く。 |