9・カラズラスの峠
フロドたちが峠へ向かい始めた頃はまだ空も明るく、雪は一面に積もっていましたが、まぶしいくらいでした。その白さに目がくらみ、フロドは足を滑らせて最後尾を歩いているアラゴルンのところまで転がってしまいました。サムが支える暇もない一瞬の出来事でした。それ以上主人が下に落ちなかったのを見てサムはほっとしました。フロドはじきにサムのところへ戻ってくるでしょう。雪まみれになってフロドがアラゴルンに助けられて起き上がってみると、指輪の通してあった細い鎖がありませんでした。一瞬はっとなってフロドがうろたえたその目の前には、鎖に通された指輪を見つめるボロミアがいました。ところがその瞳がいつものボロミアではありませんでした。
「こんな小さなものが・・・」
ボロミアは呟くようにそう言ったのでした。
「我々がこんな小さなもののために恐怖や疑いを持つとは・・・」
そう言ったボロミアの目は指輪に吸い込まれそうになっていたのです。しかし密かに剣を構えたアラゴルンの強い一言でボロミアはフロドに指輪を返しました。フロドは急にこの指輪を取ろうとした男が憎くなりました。その瞬間フロドはボロミアから指輪をひったくるように受け取りました。しかしその後にはフロドの心には後悔と恐怖が襲ってきました。今自分が何を考え、何をしたのか分かったのです。フロドはもう指輪から逃れられる事ができないと悟ったのでした。ですがボロミアはそれにさえ気がついていませんでした。人間は殊に誘惑や大いなる力に弱い種族なのです。ボロミアはいつものようにフロドの頭をくしゃっと撫でたつもりでしたが、フロドには怯えの色しか見られませんでした。
一行が山の頂に近づくにつれてだんだん雪がひどくなってきました。さっきまでの青空が嘘のように一面の暗い灰色の空になり、風さえふいてきました。もうホビットたちには自分の力でこれ以上前には進めなくなりました。
「おらはこんなの、好かねえぞ。」
フロドの真後ろで風がフロドに当たらないように立っていたサムがそう呟きました。
「朝方に降るなら雪も悪くねえ。ああ、悪くねえとも。だがよ、おらはその間ベッドにもぐりこんでる方がどれだけいいかわかりゃしねえ。この雪がホビット庄に行っちまってくれるといいが。みんな喜ぶかもしんねえ。」
ホビット庄ではあまり雪が降りません。たまに降ったとなると村の子供たちは大はしゃぎなのでした。こんなサムの独り言も、吹きすさぶ風にまぎれてどこかへ飛んでいってしまいました。フロドは先ほどから一言も口をきいていません。サムは心配になってきました。フロドの旦那はまだ先ほどのボロミアの事を気にしているのだろうかとサムはいぶかしみました。大丈夫ですか?と聞こうと思った時でした。
「ガンダルフよ!このままでは小さい人たちは埋もれて凍えて死んでしまいますぞ!」
とボロミアが叫びました。
「やはりローハンの谷へ行こう。」
しかしガンダルフは引き返そうとは言いませんでした。しかしガンダルフもホビットたちのことは気にしていたのです。
「それでは我々が小さい人たちを運ぼう。」
ボロミアがそう言って震えているメリーと鼻の先を真っ赤にして情けない顔をしているピピンを両腕に抱えました。アラゴルンもガンダルフの側から戻り、フロドとサムを同じように両腕に抱えました。フロドはボロミアの心遣いとその口調にほっとしたようでした。いつものやさしいボロミアでした。
アラゴルンとボロミアに抱えられて、ホビットたちはさっきよりずいぶんましになったと思いましたが、やはり寒いのには変わりありませんでした。アラゴルンのマントの下からサムがフロドに言いました。
「さっきよりゃいい具合だと思いますだ、フロドの旦那。だがこの寒いのはおらどうにもがまんできそうにねえです。旦那は大丈夫で?」
「うん。大丈夫だよ、サム。ちょっと馳夫さんに申し訳ないけどねえ。」
フロドは歯をかちかちいわせながらそう言いました。
「おらもそう思いますだ。おら、こんなに自分が重くなけりゃよかったと思ったのはこれでたった2回目ですだ。」
サムが正直に申し訳なさそうに言いました。フロドとアラゴルンが小さく笑ったのが見えました。
「サム、自分の体重を悪く言っちゃいけない。」
アラゴルンが前を向いたままそう言いました。
「サム、よかった。すみません、馳夫さん。」
フロドもそう言いました。そうこうしている間にもどんどん雪はひどくなっていきました。視界はほとんどが白くさえぎられ、先頭に立ち、一人何事もないように雪の上を歩くレゴラスの姿がフロドからは見えないほどでした。そのレゴラスが立ち止まって聞き耳をたてました。
「気味の悪い声がする。」
それを聞いてガンダルフが
「サルマンだ!」
と言った瞬間でした。フロドたちがかろうじて歩ける幅の絶壁のそのまた上の崖に、鋭く光る稲妻が走りました。崖が崩れ、大量の雪と共に岩が一行の上に落ちてきました。
「サム!危ない!」
「フロドの旦那!」
二人の声は同時でした。次の瞬間、二人とも目の前が真っ白になってなにも見えなくなりました。
サムは雪の中でもがいていました。早く旦那をお助けしないと。そう思っても体が動きませんでした。もがけばもがくほどサムは自分が雪の中に埋もれていくような気がしました。その時、サムは強い力で外の世界に引っ張り出されました。アラゴルンとボロミアに助け出されてみると、そこにはすでに同じように助けられた主人の姿がありました。サムはほっとした反面、少し悲しくもなりました。自分のできる事をしようと思ってはいても、いつもフロドを助けるのはアラゴルンやボロミアやガンダルフでした。フロドはサムに何度も助けられたとそう思っていましたが、サムにはそれが分かりませんでした。サムはそんな自分にがっくりして黙り込んでしまいました。
雪はますますひどくなり、サムもフロドもアラゴルンにしがみつくだけで精一杯でした。
「山をおりよう、ガンダルフ!」
アラゴルンが叫びます。
「ローハン谷を抜けよう!」
「いや、アイゼンガルドに近すぎる!」
「だからモリアを抜けようと言ったではないか!」
ボロミアもギムリも叫びます。さすがにガンダルフも困っているようでした。
「指輪を持つものに決めさせよう。」
ガンダルフの言葉はフロドを驚かせました。自分の決断にこの9人の仲間の命がかかっていました。フロドはサムを見つめました。どうしたらよいか分かりませんでした。サムは黙ったままでしたが、フロドの目を見つめ返しました。こんなところでサムを死なせてはいけないとフロドは思いました。
「坑道を抜けましょう。」
その一言で、次の道が決まったのでした。
「イシルディンの扉」に続く。 |