23・イシルドゥアの禍

 

 サムが下に降りてみると、もう既にことは全てが片付いた後でした。サムは降りる途中でぐにゃぐにゃしたものを運ぶ大きな人たちを見かけました。そしてその場には主人がたったひとりで取り残されていたのでした。フロドの目は焦点が合わず、放心しているようでした。サムはもう見つかろうが見つかるまいが、自分の主人以外どうでもよくなってフロドに駆け寄りました。
「旦那!」
サムはまだぼおっとしているフロドにそう声をかけました。その声にふと気が付いたようにフロドがゆっくりとサムの方へ振り向きました。
「旦那。おらさっきあいつを見ました。やつをつかまえられたんですか?」
フロドはサムのその問いにのろのろ答えました。
「そうだ。いや、違う。わたしはつかまえなかった。かれの方からわたしのところにやって来たんだ。スメアゴルはわたしを信用していた。わたしがかれを呼んだから、かれは来たんだ。それなのにあんなことになってしまった。いや、違う!わたしは分かっていたはずだ!わたしのもとに呼び寄せればかれは捕まってしまう事を!それなのに、それなのにわたしは・・・!」
「やめてくだせえ、フロドの旦那。」
困惑したように首を振り、両手で頭を抱えてそう言うフロドに一歩近づいて、サムはささやくようにそう言いました。
「ご自分を責めるのはやめてくださいまし。」
サムはもう一歩近づいてフロドの手を取りました。フロドが疲れきった表情に、涙を浮かべた目でそっと顔を上げました。
「あいつはあの場で射られてもしかたのねえやつです。それにあいつがいるところじゃ、何一つうまくいきっこねえですだ。それなのに旦那はお止めなすった。おら、いけねえと分かってても旦那とあの大将の話を聞いてましただ。旦那がやつをお救いになったんですだ。やつが大きい人たちに捕まったのは旦那のせいじゃありません。」
サムはフロドの手を落ち着かせるように両手でやさしくなでながらそう言いました。顔を上げたフロドはまだ涙で濡れた瞳を潤ませながらサムを見つめました。
「ああ、すまないね、サム。ありがとう。でも・・・いや、やめておこう。わたしは疲れてしまったよ。洞窟に戻ろう。」
「ええ、戻りましょう、フロドの旦那。ここは寒いです。」
そしてふたりは手に手をとったまま、まだ薄暗い洞窟へと戻ってゆきました。
 

 サムはフロドを樽にもたれかけさせ、その疲れた顔をみるともなく見ていました。そしてサムの心にこみ上げてくるのはこんなところにいつまでもいたら、フロドが分からぬ不安に取り付かれてしまうということでした。それにフロドの心にゴラムへの罪悪感が募るのもたまりませんでした。
「旦那、おらたちもうここから逃げなきゃならねえですだ。」
サムが思いつめたようにそう言いました。
「旦那だけでも行ってくださいまし。さあ、行くなら今ですだ。指輪を使うんですだよ、フロドの旦那。これっきり、一回だけです。それをはめて消えるんですだ。そうすりゃ逃げられます。さあ、旦那だけでも!」
サムは言いながらフロドににじり寄りました。その目は真剣で、なんとしてでもフロドを助けようと、それをフロドに承諾させようと必至でした。しかし一瞬の沈黙をはさんで言ったフロドの答えは小さな呟きだけでした。
「できないよ、サム・・・」
フロドはまるで息を吐いているだけのような声を出していました。
「お前の言うとおりだった。わたしを許しておくれ。」
サムは一瞬、フロドが何のことを言っているのか分かりませんでした。フロドにはサムが怪訝な顔をしたのが見えないようでした。
「お前の言うとおりわたしは指輪に囚われているんだ。わたしはそれをはめられない。もしわたしがそれをはめると、あいつがわたしを見つける・・・わたしを・・・かれは見ているんだ!」
フロドは急にがたがたと震え出しました。それは何かに取り付かれているような、そんな怯え方でした。指輪の力はいまや前とは比べ物にならないほどに大きくなっていました。フロドは分かっていました。もしここで指輪の力を使えば、あっという間にサウロンに見つかるでしょう。そしてそれで全てはおしまいになるのです。フロドにはまだ指輪をはめないでいようとする意志が残っていました。しかしフロドには感じられました。そんな自分の意志が前よりうすっぺらに引き伸ばされていることが。そしてその意志は、いつかは消えてなくなってしまうであろうことが。どうあってもそれまでに火の山に指輪を投げ込まなければなりません。フロドにはそれがおそろしいのでした。果たしてその場面まで今の自分の意思があるだろうか。あの「目」をモルドールの空の下で見ても、自分の心を持っていられるか・・・。
「フロドの旦那!」
そんな悪い思いに捕らわれてしまい切らないうちにサムがそっとささやきました。
「すみませんですだ。おら、勝手なこと言っちまって。大丈夫ですだ。指輪がだめなら考えますだ。ふたりで考えりゃ、もっとましなことが出てくるはずですだ。」
サムはそう言ってフロドをそっと抱きしめました。震えが止まるように、子供をあやすように。しばらくすると、フロドは今まで頭にこびりついていた恐怖が少しずつ取り除かれていくように感じました。サムの体温が心まで温めてくれたようでした。
「サム・・・ありがとう、ありがとう。」
フロドは言いたいことのどれも言葉になりませんでした。ただ、そう言うだけで精一杯でした。
「フロドの旦那・・・」
サムがそう小声でこたえ、フロドの顔を覗き込もうとした瞬間でした。何者かが突然ふたりの空間に押し入ってきました。
「そうか、それが全ての謎への答なのだな・・・」
それは、鞘を払った剣を持ったファラミアでした。
 

 サムとフロドははっとして立ち上がりました。ファラミアの目は何かに取り付かれたようにぎらぎらと光りました。
「そなたたちはわたしの手の中にいる。二人の小さい人とわたしに従う部下たち。イシルドゥアの禍とはやつの『いとしいしと』であった。指輪の中の指輪・・・力の指輪はわたしの手中にある・・・」
ファラミアの声は妙に低く、ゆっくりしていました。抜き身の剣はサムをフロドから離れさせ、じりじりとフロドを岩の壁に押しやりました。シャラ・・・と音がして、細身のその剣はフロドの胸元から指輪を取り出しました。サムは息を呑みました。それはまるでフロドののど元に剣を突きつけられているのと同じでした。
「思いもかけぬ幸運だ・・・ゴンドールの大将ファラミアがその人柄を試す機会とはな!」
ファラミアの視線は指輪に釘付けになりました。その目は何かに餓え、どす黒い光を放っていました。それはまさにボロミアの狂気と同じでした。突然、フロドの中に憎しみが生まれました。指輪を自分の手から離してなるものか、誰にも渡さない。フロドの中にある思いは、いまやただそれだけでした。そして自分に剣が突きつけられているのも忘れ去っていました。
「止めろ!」
フロドはそう叫ぶなり剣を振り払い、呆然とするファラミアから抜け出し、無意識にサムの後の暗闇へと逃げ込みました。また、フロドに恐怖が襲い掛かってきました。全身が震えて止まりませんでした。光を見るのも恐ろしく、暗闇にうずくまって指輪のある鎖を服の上から握り締めました。その手も震えています。サムは一瞬何が起こったのか分かりませんでしたが、震えるフロドを目にした途端、ファラミアに猛然と食って掛かりました。
「やめてくだせえ!旦那をほっといてくだせえ!お前さまには分かってなさるのかね!?フロドの旦那はあれを壊しに行くだ、そこがおらたちの行く所だよ。モルドールだ。滅びの山に行くだ!分かってなさるだか!もうほっといてくだせえ!旦那をこれ以上苦しめないでくだせえ!」
サムはフロドをかばうようにファラミアの前に立ちはだかりました。もしここでばっさりと斬り捨てられたとしても、サムは満足だったでしょう。フロドの心を守らなければ、ただそれだけの思いでサムはそこに立っていました。するとどこからかファラミアの部下がファラミアに指示を仰ぎに来ました。それが良いタイミングだと言えたかどうか、それは定かではありません。しかしファラミアは少なくとも先ほどの狂気の色から抜け出していました。
「オスギリアスが襲撃されています。応援が必要です、ファラミア様。」
サムはファラミアの目に、いつもの聡明な光が戻るのをしかと見ました。そしてもう一度、ありったけの気持ちをもって懇願しました。
「お願いですだ、あれは旦那にとって重荷なんですだ。どうか、助けてくだせえ!」
しかしサムの気持ちは通じませんでした。
「出発の準備をしろ。一つの指輪はゴンドールへ行く。」
ファラミアは正気に戻った今も指輪を手放そうとはしませんでした。考えはボロミアと変わらず、ゴンドールへと持ち帰ろうとしたのでした。ここにはそれを諌めるアラゴルンもいません。一緒になって助けてくれる他の旅の仲間もいません。サムは悲しそうに立ち去って行くファラミアの背中を見つめていました。

「黒い翼の使者」に続く。