10・イシルディンの扉

 

 一行が峠から降りてホビットたちが自分の足で久方ぶりに歩けるようになってしばらくすると、モリアの大いなる壁が見えてきました。壁は暗く澱んだ池の側にそびえ立っていました。フロドはこの池が何かとても恐ろしく感じられました。ホビットはサムを筆頭に水が嫌いですが、フロドはそれほどでもありませんでした。しかしそれでも何か悪い予感がしていました。ですからフロドは片足が池に滑りこんで小さな水音がした時、思わずサムの腕を掴んでしまいました。
「どうしたんです、フロドの旦那?」
サムは主人があまり強くサムの腕を掴んだのでびっくりしてそう言いました。
「何かいる。」
フロドはただそう言いました。サムにはフロドが怯えているように見えました。その池の端を回ってゆくと、ガンダルフが立ち止まりました。そこはドワーフたちのイシルディンの扉がある所でした。月光に照らされ、白く光る扉には『唱えよ、友、そしてはいれ』と書いてありました。しかしその意味が分かるものは誰もいませんでした。一行は途方にくれ、ガンダルフが何か思いつくのを待つしかありませんでした。
 

 フロドはガンダルフの近くに座り、扉に書かれた意味を考えていました。サムはかわいがっていた小馬のビルに別れを告げていました。ビルは勇敢な小馬ですが、この坑道を抜ける事はできないでしょう。サムは主人かこの小馬かを選ばなければいけませんでした。
「ビルは賢い小馬だ。自分のいた場所に帰り着く事ができるだろう。」
アラゴルンにそう言われてサムは少しは気が楽になりました。サムは主人についていかなければならないと分かっていました。何をおいてもフロドと離れるつもりもありませんでした。
「さよならビル。」
サムは悲しそうにそう言ってビルの手綱を放しました。フロドはサムの様子も見ていました。フロドはサムが自分を選んでくれて嬉しかったのですが、サムがあまり悲しそうにしているので何も言いませんでした。
 

池から嫌な感じを受けていたのはフロドだけではありませんでした。メリーとピピンも池が気にくわないようでした。二人は石を池に向かって投げました。ぼちゃんと、大きな鈍い音がそのたびに響き渡りました。
「やめろ!」
アラゴルンが二人を止めました。
「この池を騒がせてはいけない。」
アラゴルンがそう言わなければ、フロドがそう言うつもりでした。ふと、フロドは思いつきました。
「ガンダルフ、エルフ語で『友』とはなんと言うのです?」
「メルロン。」
ガンダルフがそう言った瞬間でした。今までびくともしなかった扉が外へ向かって開いたではありませんか!ギムリはそれを見てとても喜びましたが、レゴラスは入るのが嫌そうに見えました。そんなレゴラスを横目にギムリは中へ入っていきました。しかし洞窟の中はいっこうに暗いままでした。厳しい顔をしたガンダルフが光を灯したそこは、もはや坑道ではありません。もはやオークやドワーフたちの墓場でした。


「やはりこのような所へ来なければよかったのだ。ローハンへ行こう。ここを出て!」
ボロミアがそう言った瞬間です。フロドは何かに足をつかまれるのを感じて声をあげて倒れました。サムはフロドの叫び声ではっとしてフロドの引っ張られた方向へ走り出しました。水の中からくねくねしたものが這い出てきて、フロドを水の中に引き込もうとしているようでした。サムはフロドをつかんでいる一本のぬるぬるしたものをナイフで切り、フロドを抱きかかえて後じさりしました。しかし次々とそれは出てきてフロドを水上高く持ち上げてしまいました。
「馳夫さん!!」
サムはそう叫んでいました。フロドも同じように叫びました。サムを除く全員は、その場に棒立ちになっていました。サムの声で他の者も我に返りました。ぬるぬると光る腕はフロドをぶんぶんと振り回します。フロドは恐怖で顔が引きつっていました。これもあの指輪の力なのでしょうか。サムは必死に短剣でそれらに切りつけました。切られた腕からフロドが落下しました。
「旦那!」
サムが目を見開いた瞬間、ボロミアが落ちてきたフロドを受け止めました。ほうっとサムはため息をつきました。それでもまだ腕は追ってきます。
「洞窟へ入れ!」
フロドは足ががくがくしていました。それをサムが後ろから抱きかかえて走りました。ガンダルフが叫んでみんなが扉の中に入るのと、腕たちの本体が池から出てきて入り口を崩したのはほぼ同時でした。真っ暗になってお互い息づかいしか聞こえませんでした。フロドはサムの胸にもたれかかったまま、まだ恐怖から覚めやらぬ表情でいました。もう進む他に道はありませんでした。

「モリアの坑道」に続く。