16・一行の離散
偉大なる滝ラウロスの轟々たる音が響く岸に、一行は船をつけました。レゴラスとアラゴルンを除く皆は疲れ果てて見えました。そのレゴラスとアラゴルンもオークではない新たな恐怖の存在について話していました。フロドはそっとその場を離れました。サムも長い船旅で疲れたようで、岩にもたれて目を閉じていました。フロドはひとりで考えたいと思っていました。森に入り、崩れ落ちた王の像の足元にうずくまって何を見るともなしにじっと東の方に目を向けていました。フロドの中にはビルボがホビット庄を去ってから今までの事が全て思い出されました。そしてガンダルフの言葉を繰り返し繰り返し思い出しながら考えましたが、いっこうに選択や決断はできないでいました。
不意にフロドは自分の背後に敵意を持った視線を感じて考え事から覚めました。はじかれたように振り向くと、驚いたことにそこにいたのはやさしく微笑むボロミアでした。
「我々は一人で出歩いていてはいけない、特にフロド、あんたは。しかしあんたは一人で考えたかったんだろう。だがそんなに心痛ませる事はない。我々のとれる道は他にもある。わたしと共にミナス・ティリスへ行くことも。」
フロドは微笑みながらそう言ったボロミアの中に、雪山のそれよりもっと強い狂気の色を見出していました。
「わたしにはあなたの言葉が警告に聞こえる。」
フロドは少し身構え、ボロミアから少しずつ離れるように間を取りながらそう言いました。
「警告?何に対する警告かね?皆恐れているのだ。我々の持っているものに。しかしそれを滅ぼす事ができるかね?それこそおかしな考えだ。」
「道はこれ以外にないのです。」
フロドはそう言ってボロミアの前から逃げるように立ち去ろうとしました。しかしボロミアの声が追って来ました。
「なぜ逃げる?わたしは盗人ではない!」
「嘘だ!」
フロドは思わずそう叫んでしまいました。しかしそれにかまわずボロミアは続けました。
「何をそんなに意固地になる必要があるのだ!わたしはただそれを借りたいと願っているだけなのだ!われわれ人間のために、試すだけだ!貸してくれ!」
「だめです!だめです!」
フロドは叫びました。しかしなおもボロミアは渡せとますます強い口調になってフロドに飛び掛ってきたのです!
「嫌だ!」
ボロミアによって倒されたフロドは必死になって逃げようとしましたがホビットと人間では力の差がありすぎました。フロドにはもう指輪をはめて逃げるより他に術はありませんでした。
ボロミアが気がつくともうそこにはなにもありませんでした。呪われた言葉をフロドに投げつけていたはずのボロミアが、はっと元のボロミアに変わりました。
「許してくれ!フロド!フロド!」
その叫びはフロドには届きませんでした。フロドは薄明かりの中をどこをどう走ったのか分からないうちに、アモン・ヘンの頂に着きました。はじめのうち、フロドは何も見えませんでした。影のみが存在する霧の世界にいるようでした。しかし急激に霧は晴れ、フロドの周りに幻がいくつもいくつも通り過ぎたのでした。戦争とオークと炎と、そして最後にはバラド=ドゥア、サウロンの砦が見えたのです。サウロンのまぶたのない炎で縁取られた目にフロドは見つめられました。その時フロドは自分の中で二つの大きな力が叫び合っている事に気がつきました。一つは「必ず、必ずあなた様の下にこれを持って行きます!」と。もう一つは「はずせ!はずせ!それを抜き取れ愚か者!指輪をはずせ!」と。フロドはこの二つにぎりぎりとはさまれて苦しみもがきました。しかしフロドは自分の存在に気がつきました。そのどちらかを、自分がこの一瞬に選べる事を知ったのです。フロドは高見座から地面に落下しながら指輪を自分の意思ではずしました。気がつくとかれは明るい日光の中に跪いていました。空は青く澄み渡り、木々の間からは小鳥の声が聞こえました。フロドは荒い息を鎮めながら、もうやらなければならない事を決心していました。
その頃岸ではメリーがフロドがいないことに気がついて一騒動起こっていました。
「フロドがいない!」
「ボロミアも!」
サムにはこの状況がすぐに理解できました。みんなはフロドが一緒に言ってくれない事を気にかけていると思っていましたが、サムにはたったひとりフロドの気持ちが分かっていたのでした。フロドはただこわいのです。いよいよという時になって、ただもう怯えているのです。しかしフロドは怖さのあまり指輪を河に投げ捨てるなんてことはしないことも分かっていました。ですがそれでもやっぱり恐ろしくて出発できないと、サムには分かっていました。そしてボロミアもいない。サムはフロドの危険を一瞬で理解したのでした。アラゴルンが止めようとした時にはもう、サムは
「フロド!フロドの旦那!」
とホビット特有の高い声をあげて森の奥へ真っ先に駆け出していました。アラゴルンはサムの後を追い、森の中へ入って行きました。
『指輪の魔性はすでにわたしたちの仲間にまで働きかけた。わたしはさらに害が広がらないうちに指輪を遠く遠く持ち去らなければならない。信用できぬものもいるし、信頼できるものたちはわたしにとってあまりに大切すぎる。かわいそうなサム!わたしがいなくなったらサムはいったいどうすることだろう!しかし今行かなければ、もう絶対に行かれない。もう二度と機会はない。わたしはみんなから離れたくない!それもこんなふうに説明もなしで。みんなは分かってくれるだろうか?サムは分かってくれる。それ に他にどうしようがあるというんだ!』
フロドはもう立ち去ろうとしました。その時です。アラゴルンの声がすぐ側から聞こえたのです。
「フロド?」
「ボロミアが指輪を取ろうとしたのです。」
フロドは震える声を必死で抑えてそう言いました。
「指輪はどこだ?」
「来ないでください!これをあなた自身のために使うのではありませんか?あなたはこれを葬れますか?」
フロドは指輪を手のひらにのせて、アラゴルンに差し出しました。アラゴルンがフロドに近づきました。やはりこの人も指輪の力に・・・フロドがそう思って先ほどと同じように逃げようとした時です。アラゴルンはフロドの手をそっと閉じさせ、フロドに返しました。
「できればあなたとともに滅びの亀裂までをと。」
フロドは分かりました。アラゴルンは指輪の狂気に取り付かれてはいませんでした。
「分かっています。他の者を、よろしくお願いします。特に、かわいそうなサムのやつ。かれはわたしと共に行かない事を納得しないでしょうから。」
そう言ってフロドが去ろうとすると、フロドのつらぬき丸が青く光っているのが見えました。
「逃げろ!早く!」
フロドはもう振り返りもせずに船を目指して走り出しました。一行の離散は一瞬の出来事なのでした。
「ボロミアの死」に続く。 |