27・癒えない傷

 

喜ばしい出来事が相次いで起こる袋小路屋敷には、また嬉しい知らせがやってきました。サムに娘が生まれたのでした。はじめの子は『フロド』という名にしようと心に決めていたサムでしたが、女の子でしたので、サムは途方にくれました。そしてフロドにエラノールという名をもらいました。穏やかで幸福の光に満ち溢れた生活は、ゆっくりとした時間の流れを形づくり、サムの前に広がっていました。しかしそれはその主人にも当てはまる光ではないのでした。ある日サムはフロドの書斎を何気なく覗いてみました。主人は書き物をしているようでしたが、サムが覗いてそばに近づいてみると、その顔からは血の気がうせ、まるで夢見ているひとのようでした。
「どうしましただか、フロドの旦那?」
サムはフロドを驚かさないようにそっと側に寄りながら言いました。
「わたしは傷ついている。」
フロドはそう言って、目の前に広げてあった本をぱらぱらとめくりました。そしてその手が止まった場所には、こう書いてありました。
 

ゆきてかえりし物語 ビルボ・バギンズ
指輪の王の没落と王の帰還 フロド・バギンズ
 

ふたりのホビットの話 フロドの回想録に基づく語られざる物語

「とうとう書き終えなすったんですだね、フロドの旦那。」
嬉しそうなサムの声に、フロドは小さく首を振りました。
「いいや、まだだよ。」
そしてそれ以降、一日口を開こうとはしませんでした。
 

その夜、フロドは自分の部屋でずっと眠れずにいました。月明かりは眩しいくらいで、星々の輝きが少しだけ薄れていました。ふと、夜中に目覚めたサムは、今日の書斎で見たフロドの顔が妙に気になり、フロドの部屋をそっと覗いてみました。すると窓辺に腰掛けたフロドが、夜風に髪をなびかせて佇んでいました。
「・・・フロドの旦那・・・夜の風が身体にさわりますだよ。それともどこか具合が悪いので?それに・・・」
サムが言葉を続ける前に、フロドがそっと口を開きました。
「肩の傷が痛むのだよ、サムや。それから闇の記憶がわたしを苦しめるのだよ。もう、あの日からたくさんの時が過ぎ去ったというのに。癒えない傷というものは、存在するのだよ、サム。本当に元に戻ることなどできないよ、わたしには。ホビット庄はどこも変わっていないはずなのに、わたしにはどうしても前と同じようには見えないのだよ。それはわたしが変わってしまったからなのだろうか。わたしの中にはいくつもの傷が残されている。ナズグルの短剣、シェロブの毒針、そしてゴラム歯の傷が。そしてあの重荷の傷も。」
フロドは指輪とあえて言うようなことはしませんでした。それを口にしたらまた重荷が自らの身に降りかかるのを恐れるように、フロドは囁くように言いました。
「旦那・・・」
サムはそれ以上部屋に入ることなく、入り口で突っ立ってその姿を見つめていました。その横顔は月明かりに照らされて青白く見えました。そしてまた、フロドが口を開きました。それはそれは静かな声でした。
「わたしはどこに休息を見出したらよいのだろうか。」
それにも、サムは答えられませんでした。サムにはフロドの苦しみを、もうこれ以上取り除くことができなくなっていました。もう、サムにはどうすることもできませんでした。そして、フロドもそのことを分かっていました。自分がどうするべきかということも、フロドには分かっていました。
「ここには何もかも、ホビットに必要なものは少しずつだがあるのだね、サムや。ないのは海だけだ。そう、海だけ。」
フロドはまるでそこにサムがいないかのように、そう繰り返しました。サムはフロドの冷たいくらいの美しい横顔を見ましたが、その表情からは何も読み取ることはできませんでした。ただ、フロドの目ははるか遠くを見つめているようでした。
「永遠になくなったんだ。そして今は全てが空虚に埋め尽くされようとしている。わたしはその中にただ一人で佇んでいる。」
沈黙だけがその場を支配し、雲が月明かりを隠すまで、サムは動けないでいました。ふと、フロドがサムの方を向きました。
「おやすみ、サム。」
そうしてまた窓辺から外を見つめたフロドの瞳は、二度とサムの方を向くことはありませんでした。

「灰色港」に続く。