16・本当の救出

 

いまだ縛られている手を解けずに、フロドは床に横たわっていました。今まで聞いていた歌声はやはり夢だったのかとフロドはぼんやり思いました。先ほどの歌がフロドの口をついて出、流れていました。しかしフロドの前に現れたのは、ガラドリエルの姿をした幻でもなく、サムの姿をした夢でもなく、現実としか言いようのないオークのうちの一人スナガでした。
「いいかげんに黙らねえか!このキイキイうるさい野郎が!静かにしねえとその長くねえ体に忘れられねえ事を覚えさせてやるぞ!」
途端、ピシリと音がしたかと思うと今まで忘れていたと思っていた痛みが勢ぞろいしてこちらを向いたようにフロドを打ち据えました。声も出なくなり、黙り込んでぐったりと転がったフロドに、スナガは剣を振り上げました。
「このまま永遠に黙らせてやる!血まみれの豚みたいにな!」
『もういい、もう十分だ。ここでおしまいか。』
フロドがその剣の先に自分の死を見た瞬間でした。それは自分に振り下ろされる代わりに、ぴたっと空中で止まりました。訳が分からず目を剥くフロドのすぐそこに、青い光が差し込んだように感じられました。いいえ、それは幻覚ではなくスナガの腹から突き出たつらぬき丸の光でした。
「お前が先だ!」
懐かしい声は、酷く凶暴な響きを持っていましたが、確かにそれは愛しいホビットの声でした。ぐらりと倒れたオークが階段を落ちていくのを視界の端にとらえたフロドは、その黒い飛沫の向こうに、サムを見つけたのでした。
「サム!」
フロドは叫びました。自分でもどこにこんな声が出せる力が残っていたのか分からないくらいの声でした。
「ああ、サム!」
 

フロドの身体は、汚いぼろの中にまるで死んだように横たわっていました。フロドが声をあげなければ、生きているとは思えなかったでしょう。フロドのわき腹には、赤くにじんだ蚯蚓腫れの跡が痛々しくついていました。サムは涙で前が見えない自分を叱咤し、そしてひっしとその身体を腕の中に抱きとめました。
「フロドさまあ!フロドの旦那!サムですだよ、ええ、サムですだよ!」
ほう、とフロドが身じろぎし、そしてため息をつくのが分かりました。フロドは生きていました。次々と溢れ出る涙をぬぐいもせず、サムはその腕に力をこめました。
「夢ではなかったのだね。あの声、あの歌!」
身体の全てをサムに預け、フロドは親にすがる子供のように、サムの胸に頭をすり寄せました。しかし次の瞬間、自分のしたこととこの暖かさがいかにそぐわない物かを思い出し、喜びとは別の涙が流れ落ちました。
「ああ、すまないサムや!許しておくれ。わたしのした全てのことを、どうか許しておくれ、わたしのサムや!」
フロドは、かすれる声を振り絞って言いました。サムの胸に暖かな滲みができました。
「ええ、ええ、何をおっしゃいますだかフロドの旦那!おらはいつでもあなたの側にいますだよ。夢や何かじゃねえですだ。うつつなんですだよ。謝らねえでくだせえ。お願いですだ。おらの方こそ言わなきゃなんねえことがたっくさんあるんですだ。」
その穏やかな声を聞くうち、フロドは目を閉じていました。これで全てが終わっても、この腕の中でならそれもいいだろうと。しかし自分の思った「終わり」という言葉に、フロドは我に返り、そして取り乱しました。
「サム!ああ、遅かったのだよ、サムや!全ては終わってしまった!終わったんだ。やつらにあれが取られてしまった。サム、指輪はかれらの手に渡ってしまったのだよ!」
ですがそれは、サムに強い力で肩をつかまれたことで遮られました。
「フロドの旦那、聞いて下せえ。」
涙で濡れたフロドの瞳は美しく、たとえその目が映す風景が地上で最も穢れたものであった時ですら、澄んでいました。サムはその深淵を覗き込むように、静かにフロドに言いました。その瞳もまた、大粒の涙で濡れそぼっていました。
「おらも許してもらわにゃならねえですだ。やつらは取ってなどいませんですだよ。」
そうして、サムは少しだけ体をフロドから離しました。そして自分の服から取り出したものは、銀の鎖の先に揺れる一つの指輪でした。
 

フロドの目は、もうサムを見ることを忘れてしまったかのようでした。強制的に指輪に釘付けにされ、口を動かすのも億劫になりました。
「おら、旦那が死んでなさると勘違いしたんですだ。ですから、これを預かりましただ。」
サムがこう言う声ですら、耳が聞くのを拒否しているようでした。
「その指輪を返すんだサム!」
フロドは自分の声の棘に、まったく気がつかないように叫びました。
「わたしにそれを渡すんだ。」
しかしサムは動きませんでした。いいえ、動けないのでした。サムはフロドと同じように指輪にたった今魅入られ、そしてそれをほしい、自分のものにしたいという誘惑に激しく揺さぶられていました。サムにもフロドの声が聞こえにくくなりました。遠くで愛しいはずのホビットの声がします。自分の偽られた心と、呼び戻される本当の心がぶつかりあい、サムの鎖を持つ手が震えました。
「寄越すんだ、サム!」
はっと、命令口調のフロドの声に、サムは反射的に指輪を差し出しました。出してから後悔と恨めしい感情に囚われそうになり、サムはぐっとそれをこらえました。なぜなら、指輪を奪うように受け取り、それを首にかけたフロドが見せた恍惚とした表情があまりに美しく、そして残酷で冷たく、醜かったからでした。目には何か得体の知れぬ曇りがかかり、光が急激に消えていきました。しかしそんな表情も一瞬で去り、フロドはまた重くなった身体に一抹の安堵を覚え、そして現実に立ち戻ることができました。目の前に、サムがいたからです。サムを自分と同じ目に合わせなくない。たとえ一瞬これに魅入られ、そしてそれを一瞬でも所持してしまった過ちがあるとしても、これ以上サムをこちらの――フロドやゴラムや、そして滅んでいった指輪所持者たちの――側に置いておきたくないというただ一心で、フロドは正気を保てたのでした。
「サム、お前は分からなくてはいけないよ。指輪はわたしの運ぶべきものなんだ。お前の負うべき重荷ではないのだよ。これは、お前を破滅に導く。分かっておくれ、サムや。」
サムの視線は、まだその指輪にありました。表情にも、ありありとその欲望の様子が表れていました。しかしサムはありったけのホビットらしさを総動員して、どうにかそれから目を逸らしました。それができたのは、指輪の存在していた今までの中で、ビルボとサムにしかできなかった偉業なのでした。もちろんサムはそんなことには気がつかず、心が二つの事を好き勝手にわめきたてるのを外に出さないようにするのに精一杯でした。
 

『何を見てるだ!旦那がおっしゃっただろうサムワイズ・ギャムジー!それをなくすために、おらはここまで来ただよ!』
『ほしい、ほしい!それがほしい!おらのものになんねえのは何でだよ?』
 

サムは、フロドの言葉に答えられず、ただぎくしゃくした動作でフロドの縄を切り、そしてすっくと立ち上がりました。
「さあ、行きましょうフロドの旦那。何か着るものを探さなくちゃなりませんだ。裸でモルドールは歩けねえですだよ。」
フロドはそれを悲しそうに見つめ、肩をかしてくれるサムに腕を回しました。そして無言で立ち、急に現実味を帯びた痛みに顔をしかめました。

「キリス・ウンゴルを去って」に続く。