1・ホビット庄 ホビットたちの間ではさほど噂にはならなかったのですが、ハムファースト親方が息子のサムワイズにお山の袋小路屋敷のお庭を任せて引退する事は、サムにとっては重大事件なのでした。サムはもう立派な庭師でしたし、バギンズの旦那方に対する忠誠心は親方にも負けないくらいでした。しかしサムにはこれが今までの人生で最大の事件なのでした。サムは親方に、フロドの旦那の庭を、バギンズ家のお山の中ほどにあり、ビルボの庭より小さめの庭を特に任すと言われていたのです。親方は引退しても庭いじりを止める気は毛頭ありませんでした。それに親方はビルボの使用人でもあり、友人でもありました。だから親方の世話するビルボの庭もまだあったのです。しかしサムはこれから正式にフロドの庭師なのです。サムは幼い頃からバギンズ家の親友であり、弟であり、息子であり、家族であったのです。しかしこれからはフロドだけの庭師なのです。これこそサムが事件だと思った訳なのでした。 「おはようサム!」 その日は朝早くから村中が楽しい空気で満ちていました。ギャムジー親子は村中から羨ましがられていました。ただでさえ豪華な祝なのに、それを一番身近で見ることが出来るからです。サムは今日だけはお山のお庭の世話をしなくていいとフロドから言われていました。そのかわりにお山を訪ねて来る、うるさい客たちを避けて木陰で本を読みたい主人の邪魔をするやつをつまみ出すように言われていました。お祝いの準備はどんどん進んでいきました。フロドが選んだのは今日やってくるはずのガンダルフがきっと通るはずである小路の脇の木陰でした。フロドはサムに少し離れた場所で見張るように言いました。 フロドの耳にがたごという馬車の音と、歌声が聞こえてきました。ガンダルフです。いつもの歌を歌いながら綿毛の飛ぶ小路をガンダルフはやってきました。本を置き、何か不敵な笑みを浮かべたフロドは立ち上がりました。ガンダルフと会うのは久しぶりでした。フロドは、この灰色の魔法使いがいつも何か楽しい事を連れてくると知っていました。今日も馬車に積んでいるのは花火のようでした。楽しい再会をはたしたイスタリとホビットはそのまま馬車に乗ってホビット村へ向かいました。いろいろ話したい事は山のようにありました。でもフロドはサムの事を忘れた訳ではありませんでした。馬車を途中で降り、フロドは本を取り、サムを起こす為にガンダルフにつかの間の別れを言いました。その後でガンダルフが浮かべた重い表情は、フロドには見えませんでしたし、つぶやいた言葉の暗い暗示もフロドの耳には聞こえませんでした。村中で未来をこの時点で予想できたのはこの賢い灰色の魔法使いだけでした。 フロドはサムを先ほどの木陰で見つけました。小さく寝息を立てながらサムは幸せそうに草の中で眠っていました。それを見てフロドは小さく笑いました。 夜がやってきて、とうとうお祝いがはじまりました。サムも今日はお呼ばれになっているのです。にぎやかにホビットたちとガンダルフが踊っています。ビルボは小さなホビットたちにトロルのお話をしてやっています。サムとフロドはその周りで隣り合って座り、ビールを飲んでいました。フロドはサムがローズ・コトンと踊りたがっていると信じていました。いつものようにフロドはサムを強引に引っ張り出して踊っているローズに押し付けました。サムが照れくさそうな、困ったような顔をしてフロドを見ました。悪戯そうに笑ったフロドにはサムが照れているとしか映りませんでした。確かにサムはかわいいローズと踊れて嬉しくて照れくさかったのですが、本当はフロドともっとビールを飲んでいたかったのでした。 ダンスも終わり、メリーとピピンの花火騒動も静まった頃、ビルボのスピーチが始まりました。フロドはビルボが何かするとは知っていたのですが、ビルボが本当に考えていることは分かりませんでした。フロドはビルボが一瞬、思いつめたような眼でフロドを見たと思いました。その瞬間です。ビルボは消えてしまったのです。まるではじめからそこにいなかったように。もちろんサムもびっくりしましたが、びっくり加減はフロドのほうが上でした。フロドとサムはお互いに目を合わせました。サムにはフロドが何かに怯えているかのように見えました。フロドはここではじめて何か暗い影が自分の側に迫ってきていることを感じたのでした。二人は眉をしかめたガンダルフがすぐにお山へ向かって歩き出したことに気がつきませんでした。 ビルボとガンダルフの間で何が起こったのか、フロドには分かりませんでした。お山の屋敷の戸口は開いていました。しかしなにかがあった事だけはフロドにも分かりました。 フロドはずっと穴の入り口に立っていました。そしてどれくらいたったでしょう。ガンダルフが出ていった方角をぼおっと見つめていたフロドの耳にぱたぱたという、いつもの聞きなれた少しぽってりした足音が聞こえてきました。サムでした。 翌日サムがお山に行くと、フロドはすっかりいつもの様子に戻っていました。フロドは昨日何かすごく疲れたように感じましたが、ビルボがいなくなってしまったのは、前々からビルボが言っていた事だったのでこれでよかったのだと思いはじめていました。しかしなぜ昨日はあんなに気分が沈んでいたのでしょう。それはまぎれもなくあの指輪のせいなのですが、フロドにはそんな事は分かりませんでした。だからきっと昨日は体調でも悪かったのだろうと思っていました。 しばらくはフロドとサムは身の回りの整理に時を追われていました。色々煩わしい事もあったりしましたが、フロドの生活にまた落ち着きが出てきました。今日はサムに、メリーとピピン、ローズやコトンさんまでお山に来てビルボの残していったものの最後の後始末をつけました。夜遅くなりましたがなんとか終わりました。宿屋にある酒場での打ち上げも、もうそろそろお開きでした。ほっと息をついてフロドはもう帰っていいとみんなに言いました。みんなは思い思いのことを口にしながら帰っていきました。サムも帰ろうとしましたが、なぜか胸騒ぎというには大げさすぎるのですが、なにか心にひっかかるのでフロドの庭をもう一度見てから帰ろうと思いました。サムが庭に入ろうとした時です。向こうの方から何かがものすごいスピードでやって来ます。しかもそれはこちらへ、つまりお山の袋小路屋敷にやってくるようでした。それは駿馬に乗ったガンダルフでした。 庭にたどり着いたサムは何かが暗闇の中にいるようで、背筋がぞくっとしました。けものの悲鳴のような細い鳴き声が聞こえたように思いました。なぜかは知りませんが、旦那が危ないと思いました。その頃ちょうどフロドは袋小路屋敷に着きました。しかし窓もドアも開け放ってあります。一吹き、風が通り過ぎました。灯りはありません。フロドは何か住み慣れたはずの穴の暗がりが恐ろしく思えました。と、その時です。ガンダルフに後ろから肩を摑まれました。秘密にしていたか?無事か?とガンダルフは強く問います。あまりに真剣そのもので、いつもの楽しい魔法使いではありませんでした。その訳は、封筒の中に入れておいた一つの指輪でした。 火に光る文字が消えてから、ガンダルフとフロドはその指輪について話しました。サムは何とかフロドとガンダルフの声を聞き漏らすまいとして、庭に面した窓のすぐ下にこっそりと忍び寄りました。すると中から少し大きな声がしました。フロドが指輪を持っています。サムには指輪の王のことも力の指輪のことも世界の終わりがどうとか言うことも分かりませんでしたが、フロドが何かすごく必死になっていることだけは分かりました。がたごとと旅支度の音まで聞こえてきます。サムはどうしたらよいか分かりませんでした。フロドが行ってしまう。これだけははっきりしているようでした。不意にサムは自分が涙を流していることに気がつきました。フロドと離れたくないのです。何か恐ろしいことが待っているとガンダルフは言っているようでした。しかしそれでもフロドだけを行かせたくありませんでした。話し声と旅支度が一段落したようでした。何も聞こえません。サムはもしや既に主人が自分を置いて旅立ってしまったのかと心配になってきました。もっと窓の側に寄ろうとして、つい草の音をガサっとたててしまったのです。 サムには次の瞬間何が起こったか分かりませんでした。気がつくとガンダルフの杖と腕にがっちりと押さえられ、視界の端にフロドが見えました。サムはまだ主人がそこにいることに安心しましたが、それも一瞬でした。ガンダルフが睨んでいます。怖くてたまりませんでした。でもサムが震えてわたわたしていると、ふいにフロドが笑いました。フロドにはこのホビットを連れて行かないのは無理だと分かっていました。フロドもサムから離れるつもりはなかったのです。気がつくとガンダルフも笑っています。しかし急にフロドは真剣な顔になりました。フロドはサムを見て、やっとこの旅の意味するところが分かりました。それは別れでした。このホビット庄や友人たちとの別れを意味しているのでした。フロドにはやらなくてはならないことができたのです。この指輪を捨てるのです。孤独な旅になるでしょう。フロドは悲しそうに言いました。 「旅立ち」に続く。 |