・ホビット庄 

ホビットたちの間ではさほど噂にはならなかったのですが、ハムファースト親方が息子のサムワイズにお山の袋小路屋敷のお庭を任せて引退する事は、サムにとっては重大事件なのでした。サムはもう立派な庭師でしたし、バギンズの旦那方に対する忠誠心は親方にも負けないくらいでした。しかしサムにはこれが今までの人生で最大の事件なのでした。サムは親方に、フロドの旦那の庭を、バギンズ家のお山の中ほどにあり、ビルボの庭より小さめの庭を特に任すと言われていたのです。親方は引退しても庭いじりを止める気は毛頭ありませんでした。それに親方はビルボの使用人でもあり、友人でもありました。だから親方の世話するビルボの庭もまだあったのです。しかしサムはこれから正式にフロドの庭師なのです。サムは幼い頃からバギンズ家の親友であり、弟であり、息子であり、家族であったのです。しかしこれからはフロドだけの庭師なのです。これこそサムが事件だと思った訳なのでした。

「おはようサム!」
フロドはいつものようにサムに話し掛けました。それは明るい朝、雨上がりの花の上の雫よりもずっと綺麗な笑顔でした。少なくともサムにはそう思えました。フロドはごく普通にいつもの朝のあいさつをしただけでした。でもサムにはなにか特別な事のように聞こえたのです。
「今日からお前がわたしの庭をみてくれるのだね。」
フロドはサムにそう話し掛けましたが、サムは幸せでしばらく口がきけませんでした。
「サム?」
フロドは不思議そうな顔でサムの方へ近付いてきて、サムの目の前でひらひらと手を振りました。
「サム?どうしたんだい?」
フロドの目が少し心配そうに翳りを帯びました。
「なんでもないですだ、旦那。」
サムはやっとの事でそう言いました。
「そう、よかった。」
フロドはそれを聞いて安心したようにまた少し微笑みました。それを見てサムも少し笑いました。
「これからおらは、旦那のサムです。」
サムは照れ臭そうにそう言いました。
「そうだね。」
フロドもそう言ってまたふわりと笑いました。この時に、誰がこれからはじまる重い未来と旅を予感できたでしょうか。サムもフロドも幸せでした。このゆったりした退屈ではあるけれど暖かい幸せがずっと続くと、そう信じて疑いませんでした。ホビット庄には一点の翳りもなく、時は穏やかに過ぎていました。そしてもうすぐ村中が待ちに待ったビルボの111歳の、フロドの33歳の誕生日なのでした。

 その日は朝早くから村中が楽しい空気で満ちていました。ギャムジー親子は村中から羨ましがられていました。ただでさえ豪華な祝なのに、それを一番身近で見ることが出来るからです。サムは今日だけはお山のお庭の世話をしなくていいとフロドから言われていました。そのかわりにお山を訪ねて来る、うるさい客たちを避けて木陰で本を読みたい主人の邪魔をするやつをつまみ出すように言われていました。お祝いの準備はどんどん進んでいきました。フロドが選んだのは今日やってくるはずのガンダルフがきっと通るはずである小路の脇の木陰でした。フロドはサムに少し離れた場所で見張るように言いました。
「もちろんですだ、旦那。だれも旦那とガンダルフの旦那のお話の邪魔はしませんだ。このサムがいる限り。静かにご本でも読んでお待ちくだせえ。」
サムは胸をはってそう言いました。
「ありがとうサム。ではそうさせてもらうよ。」
フロドはそう言ってにっこり笑いました。サムの耳には遠くから聞こえる村の騒ぎと、風が枝をゆする音と、フロドが本のページをめくる小さな音しか聞こえませんでした。草のさきっぽを口にくわえてサムははじめ周りを注意深く見張っていましたが、そのうちあまりの心地良さにぐっすり眠ってしまいました。フロドにはそれも見えていたのですが、起こさないでやりました。だれも今日こんな時にこんな場所を尋ねて来る者はいないでしょう。フロドはただ、昨日も遅くまで今日の為に準備をしていたサムが疲れている事を承知で、休ませてやろうと連れて来ただけなのですから。
 

 フロドの耳にがたごという馬車の音と、歌声が聞こえてきました。ガンダルフです。いつもの歌を歌いながら綿毛の飛ぶ小路をガンダルフはやってきました。本を置き、何か不敵な笑みを浮かべたフロドは立ち上がりました。ガンダルフと会うのは久しぶりでした。フロドは、この灰色の魔法使いがいつも何か楽しい事を連れてくると知っていました。今日も馬車に積んでいるのは花火のようでした。楽しい再会をはたしたイスタリとホビットはそのまま馬車に乗ってホビット村へ向かいました。いろいろ話したい事は山のようにありました。でもフロドはサムの事を忘れた訳ではありませんでした。馬車を途中で降り、フロドは本を取り、サムを起こす為にガンダルフにつかの間の別れを言いました。その後でガンダルフが浮かべた重い表情は、フロドには見えませんでしたし、つぶやいた言葉の暗い暗示もフロドの耳には聞こえませんでした。村中で未来をこの時点で予想できたのはこの賢い灰色の魔法使いだけでした。

 フロドはサムを先ほどの木陰で見つけました。小さく寝息を立てながらサムは幸せそうに草の中で眠っていました。それを見てフロドは小さく笑いました。
「サム。」
フロドはやさしくそう言いましたがサムは起きませんでした。
「サム、もう起きてもいいんじゃないかい?お湯は沸かしてあるのかい?」
フロドは笑いを噛み潰しながらサムの肩に手をかけてゆり起こしました。サムはぱっと飛び起きました。
「はい!旦那!すぐおきますだよ。お顔を洗うお湯は台の上ですだ!」
寝ぼけ眼でそう言ったサムに、とうとうフロドは笑いをこらえきれなくなりました。まだぼんやりしているサムを見ながらフロドはふきだしてしまったのです。
「おはようサム!」
まだひいひいと苦しそうに笑いながらフロドはそう言いました。
「じゃあ台の上にお湯があるようだから、村に戻ろうか。」
フロドの言っている意味が分からないサムはきょとんとしていました。その間にフロドは村の方へ向かって歩き始めました。はっと我に返ったサムがフロドの後を追いかけました。
「待ってくだせえ!」
サムはそう言いましたが、フロドは楽しそうに笑って一回後ろを振り向いただけで、走って行ってしまいました。必死でサムが後をついて行きます。何度となく繰り返した二人の小さな遊びでした。村のにぎやかな声が近くなってきました。今夜のパーティーは今までで一番盛大になるのです。サムもいつの間にか笑っていました。やっと追いついたサムはフロドの隣に来ました。
「お誕生日、おめでとうございますだ。」
サムは誰よりも早くそう言いました。
「ありがとう、サム。」
フロドは誰に言うよりも早くそう返しました。二人は顔を見合わせてにっこり笑いました。そしてそのまま笑って村へと降りていきました。
 

 夜がやってきて、とうとうお祝いがはじまりました。サムも今日はお呼ばれになっているのです。にぎやかにホビットたちとガンダルフが踊っています。ビルボは小さなホビットたちにトロルのお話をしてやっています。サムとフロドはその周りで隣り合って座り、ビールを飲んでいました。フロドはサムがローズ・コトンと踊りたがっていると信じていました。いつものようにフロドはサムを強引に引っ張り出して踊っているローズに押し付けました。サムが照れくさそうな、困ったような顔をしてフロドを見ました。悪戯そうに笑ったフロドにはサムが照れているとしか映りませんでした。確かにサムはかわいいローズと踊れて嬉しくて照れくさかったのですが、本当はフロドともっとビールを飲んでいたかったのでした。 

 ダンスも終わり、メリーとピピンの花火騒動も静まった頃、ビルボのスピーチが始まりました。フロドはビルボが何かするとは知っていたのですが、ビルボが本当に考えていることは分かりませんでした。フロドはビルボが一瞬、思いつめたような眼でフロドを見たと思いました。その瞬間です。ビルボは消えてしまったのです。まるではじめからそこにいなかったように。もちろんサムもびっくりしましたが、びっくり加減はフロドのほうが上でした。フロドとサムはお互いに目を合わせました。サムにはフロドが何かに怯えているかのように見えました。フロドはここではじめて何か暗い影が自分の側に迫ってきていることを感じたのでした。二人は眉をしかめたガンダルフがすぐにお山へ向かって歩き出したことに気がつきませんでした。
「サム、おかしいと思わないかい?」
フロドがそう尋ねました。
「何がです?フロドの旦那?」
サムはまだ驚いていましたがそう答えました。
「ビルボだよ。」
フロドは少し難しい顔をしてそう言いました。
「これには何かあると思うんだよ、サム。わたしにはビルボが消えた事で何かが始まったと感じたんだよ。今この瞬間にね。」
フロドは暗い顔をしていました。サムにはもちろんそんな事は感じられませんでした。ですから主人をただ励まそうと思って、
「フロドの旦那はお山のほうを探してくだせえ、おらはこの広場でビルボの大旦那をお探ししますから。きっと何もないですだよ。ビルボの大旦那のお楽しみでしょうよ。」
とそう言いました。フロドは自分の表情が少し和らいだように思いました。サムの一言で少し言い知れぬ不安が拭われたようでした。たとえサムが何の根拠もなしにそう言ったとしても、フロドはなぜかいつも安心するのでした。
「そうだね。じゃあ見つかったらわたしに知らせておくれ。」
フロドはそう言って、まだ大騒ぎの広場を離れました。
 

 ビルボとガンダルフの間で何が起こったのか、フロドには分かりませんでした。お山の屋敷の戸口は開いていました。しかしなにかがあった事だけはフロドにも分かりました。
「ビルボ!」
そう叫んでフロドは一歩穴に入ろうとしました。するとドアのすぐそこに、ビルボの指輪が無造作に落ちていました。部屋の中ではガンダルフが椅子に座ってパイプ草をふかして何事かを呟いていました。フロドにはこれで何かを悟ったように思いました。ビルボはもう帰ってはこないと、そう感じました。指輪を拾い上げてガンダルフに近づくと、灰色の魔法使いは驚いて指輪を持っているフロドを見つめました。そして指輪を封筒に入れ、それを隠すように言いました。その視線は怖いくらいにフロドを射ました。その瞳で指輪を隠すように念を押し、そしてすぐに出て行ってしまいました。取り残されたフロドはどうしてよいのか分かりませんでした。
 

 フロドはずっと穴の入り口に立っていました。そしてどれくらいたったでしょう。ガンダルフが出ていった方角をぼおっと見つめていたフロドの耳にぱたぱたという、いつもの聞きなれた少しぽってりした足音が聞こえてきました。サムでした。
「旦那、フロドの旦那。やはり大旦那はいらっしゃらないですだ。」
そう言いながらサムはフロドの側にやって来ました。しかしフロドはドアの外を見つめたまま動きもしませんでした。
「旦那?」
心配になってサムはフロドの目を少し上から覗き込むようにそう言いました。それでもフロドの表情は変わりませんでした。
「そうだね。」
フロドはただそう言っただけでした。サムはなんとか主人のために自分が出来ることはないかと考えましたが何も思いつきませんでした。それができるとすれば、あの賢い魔法使いか、消えてしまった張本人のビルボだけでしょう。
「もう今日は遅いです。明日おらがもう一度ちゃんとお探ししますから、フロドの旦那はお休みになってくだせえ。」
サムに言えたことはこれだけでした。
「分かった、おやすみ。」
フロドはそう言ってサムの目の前でドアを閉めました。その青い瞳には何も見えていないようでした。サムの声も夢の中で聞いているようでした。外に閉め出されたサムは後悔していました。どうしてもっとなにか旦那が元気になる言葉を掛けられなかったのか、サムは自分のふがいなさを責めていました。これ以上サムのできることはありませんでした。サムはとぼとぼと、家に帰りました。

 翌日サムがお山に行くと、フロドはすっかりいつもの様子に戻っていました。フロドは昨日何かすごく疲れたように感じましたが、ビルボがいなくなってしまったのは、前々からビルボが言っていた事だったのでこれでよかったのだと思いはじめていました。しかしなぜ昨日はあんなに気分が沈んでいたのでしょう。それはまぎれもなくあの指輪のせいなのですが、フロドにはそんな事は分かりませんでした。だからきっと昨日は体調でも悪かったのだろうと思っていました。
「おはようサム。」
フロドはいつものようにそう言いました。サムは昨日のフロドの様子が気になってあまり眠れませんでしたが、今朝のフロドの元気そうな様子を見てすぐに元気になりました。
「おはようごぜえますだ、旦那。」
サムは微笑んでそう言いました。
 

しばらくはフロドとサムは身の回りの整理に時を追われていました。色々煩わしい事もあったりしましたが、フロドの生活にまた落ち着きが出てきました。今日はサムに、メリーとピピン、ローズやコトンさんまでお山に来てビルボの残していったものの最後の後始末をつけました。夜遅くなりましたがなんとか終わりました。宿屋にある酒場での打ち上げも、もうそろそろお開きでした。ほっと息をついてフロドはもう帰っていいとみんなに言いました。みんなは思い思いのことを口にしながら帰っていきました。サムも帰ろうとしましたが、なぜか胸騒ぎというには大げさすぎるのですが、なにか心にひっかかるのでフロドの庭をもう一度見てから帰ろうと思いました。サムが庭に入ろうとした時です。向こうの方から何かがものすごいスピードでやって来ます。しかもそれはこちらへ、つまりお山の袋小路屋敷にやってくるようでした。それは駿馬に乗ったガンダルフでした。

庭にたどり着いたサムは何かが暗闇の中にいるようで、背筋がぞくっとしました。けものの悲鳴のような細い鳴き声が聞こえたように思いました。なぜかは知りませんが、旦那が危ないと思いました。その頃ちょうどフロドは袋小路屋敷に着きました。しかし窓もドアも開け放ってあります。一吹き、風が通り過ぎました。灯りはありません。フロドは何か住み慣れたはずの穴の暗がりが恐ろしく思えました。と、その時です。ガンダルフに後ろから肩を摑まれました。秘密にしていたか?無事か?とガンダルフは強く問います。あまりに真剣そのもので、いつもの楽しい魔法使いではありませんでした。その訳は、封筒の中に入れておいた一つの指輪でした。

火に光る文字が消えてから、ガンダルフとフロドはその指輪について話しました。サムは何とかフロドとガンダルフの声を聞き漏らすまいとして、庭に面した窓のすぐ下にこっそりと忍び寄りました。すると中から少し大きな声がしました。フロドが指輪を持っています。サムには指輪の王のことも力の指輪のことも世界の終わりがどうとか言うことも分かりませんでしたが、フロドが何かすごく必死になっていることだけは分かりました。がたごとと旅支度の音まで聞こえてきます。サムはどうしたらよいか分かりませんでした。フロドが行ってしまう。これだけははっきりしているようでした。不意にサムは自分が涙を流していることに気がつきました。フロドと離れたくないのです。何か恐ろしいことが待っているとガンダルフは言っているようでした。しかしそれでもフロドだけを行かせたくありませんでした。話し声と旅支度が一段落したようでした。何も聞こえません。サムはもしや既に主人が自分を置いて旅立ってしまったのかと心配になってきました。もっと窓の側に寄ろうとして、つい草の音をガサっとたててしまったのです。

サムには次の瞬間何が起こったか分かりませんでした。気がつくとガンダルフの杖と腕にがっちりと押さえられ、視界の端にフロドが見えました。サムはまだ主人がそこにいることに安心しましたが、それも一瞬でした。ガンダルフが睨んでいます。怖くてたまりませんでした。でもサムが震えてわたわたしていると、ふいにフロドが笑いました。フロドにはこのホビットを連れて行かないのは無理だと分かっていました。フロドもサムから離れるつもりはなかったのです。気がつくとガンダルフも笑っています。しかし急にフロドは真剣な顔になりました。フロドはサムを見て、やっとこの旅の意味するところが分かりました。それは別れでした。このホビット庄や友人たちとの別れを意味しているのでした。フロドにはやらなくてはならないことができたのです。この指輪を捨てるのです。孤独な旅になるでしょう。フロドは悲しそうに言いました。
「しょうがないんだよ、サム。わたしは行かなくてはならないんだ。」
そこで言葉を切って、フロドはサムをしっかと見つめました。
「お前が本当にわたしの事を思ってくれているのなら、誰にもこの事を言ってはいけないよ。」
この旅に、このサムがいてくれたらどれだけ心が強くなれるでしょう。しかしフロドには辛いと分かりきっている旅にサムを誘うことはできませんでした。悲しみでフロドの心はいっぱいになりました。サムは旦那が今にも泣きそうな目をしていることに気がつきました。側に行ってなぐさめてあげたいと思いました。二人の目にはお互いしか映っていませんでした。と、その時です。ガンダルフがこう言いました。
「わしはいい事を思いついたぞ!サムワイズ・ギャムジー。お前の盗み聞きの罪を償わせてやろう。もちろん秘密を絶対に漏らせない方法でな。お前はフロドの旦那と一緒に行かせよう。」
それを聞いてどれだけ二人は喜んだでしょう!サムは床にへたりこんで涙が流れるのも構わず歓声をあげていました。フロドも目の端をそっと拭いました。こうして二人でブリー村の踊る小馬亭に行くことになったのでした。

「旅立ち」に続く。