・ヒスラインの綱

 

 サムが綱を下ろすと、フロドはそれが銀色に輝く光のように見えました。暗闇だった視界に急に現れた美しい光でした。細く頼りなげではありますが、フロドはその光で目がくらむように感じました。上で、サムが呼んでいるのもしっかり聞こえました。そして、サムの姿も見えるようになっていました。フロドはそれを見ると何かがこみ上げてくるような気がしました。これほどいとおしい姿を見たことはあったのでしょうか。いいえ、なかったように思いました。
「さあ、つかまってくだせえ、フロドの旦那。おらが引っ張り上げますだよ。」
 

 サムがフロドをひっぱりあげると、先ほどからしていた轟音が、フロドのいた岩棚辺りを飲み込んで去ってゆきました。もう随分暗くなり、どうなっているかはよく分かりません。しかし、フロドがあのままあそこにいたら、水と共に流されていたことは確実なようでした。
「お前が綱を持っていて助かったよ、サム。」
フロドはその水音を聞きながらそう言いました。
「もっと早くに気がついてりゃ、もっと良かったに違いねえんですが。」
サムは申し訳なさそうにそう言いました。
「いいや。お前の綱があれば、この崖を降りて行けるだろう。」
その綱は三十エルほどありました。ちょうど、フロドが崖の高さを目算したくらいの長さです。雨はいつの間にかやみ、轟音は遠くに去ってゆきました。そして小さく瞬く星がひとつ、ふたつと、ふたりの頭上に輝き始めました。
「また星が見えるようになって嬉しいよ。」
フロドは今見えているもの全てが愛しいようにそう言いました。
「ええ、そうですだね。星は、なんだかエルフ的ですだ。星を見るとおらも元気が出ますだ。」
フロドはそんなことを言って目をきらきらさせながら星を見るサムを優しい瞳で見つめました。
「ほんとうに。」
その先には常にサムがいました。
 

 ヒスラインの綱で降りる崖は、思ったより半分も悪くはありませんでした。はじめにサムが降りました。枯れてはいますがしっかりした古い切り株に綱を巻き、自分の身体にきちっと巻きつけ、サムは高い崖を降りてゆきました。さっきの鉄砲水で濡れた岩の壁は滑りやすく、ところどころサムはこの細いエルフの綱に全ての体重を預けなければなりませんでした。しかし綱は切れることなく、無事に下までつけました。
「旦那、降りましただよ!」
「分かった。わたしも行くよ、サム。」
サムは上を見上げましたが、声はしてもフロドの姿は見えませんでした。灰色のマントは暗闇に紛れてしまっていました。しばらくすると、サムよりは時間がかかりましたがフロドも降りてくることができました。サムはその姿が無事なのを見てほっとしましたが、次の瞬間顔をしかめました。
「?どうしたんだい、サム。」
フロドはそれに気がついて言いました。
「忘れてましただ、フロドの旦那。ふたりが降りちまったらこの綱は置いてくしかねえですよ!奥方様が手ずから作ってくだすったのかもしんねえのに!」
サムは本当にがっくりして言いました。
「それならお前、もう一度のぼって解いてくるかい?」
「めっそうもねえです!でも・・・おら手放したくねえですだよ、旦那。それにあいつです、ゴラムって言いましただか、あの嫌なやつです。この綱を置いときゃ、あいつの格好の降りる道具になっちまいますだ。」
「そうだね・・・」
フロドはサムがエルフの贈り物を手放したくないという可愛らしい面を見てほほえましく思いましたが、ゴラムのことを考えて、また深く考え込んでしまいました。ここでこんな崖をゴラムが一人で降りてくることは難しいかもしれません。そうしたら、サムの言うとおり綱を残しておくのは賢明ではないでしょう。しかしどうすればよいのでしょう。フロドは口をつぐみ、サムは悲しそうに、小馬のビルを手放す時のように綱をその働き者の手で撫でました。するとどうでしょう。綱が上からふわりと降りてきたのでした。
「お前はちゃんと結んだのかい、サム!」
フロドは思わず笑い出してしまいました。
「わたしがこの綱にどれだけ信頼を置いたと思ってるのかい。」
するとサムはいかにも憤慨したようにぼそぼそと言いました。
「おら、ちゃんと結びましただ。とっつぁんに習ったとおりですだよ。ホビット庄の誰よりもちゃんとできますだよ。それにこの綱は切れちゃいねえです。おらも綱もどっちもちゃんとしてましただよ。きっとこの綱が『降りて』来たんですだよ。」
しかしフロドはまだ少し笑っていました。そして怒ったようにまだ顔をしかめているサムの腕を取りました。
「わたしは疲れてしまったよ。今夜はもうこれ以上この石ばかりの道を進めそうにない。時間が経つのがうらめしいが、この道じゃ無理だ。」
「そうですだね。」
サムはしかめた顔をはっとさせて言いました。フロドの顔は笑っていますが、その表情には疲労がみてとれました。
「どっか、身を隠せるとこが見つかればいいんですがね。」
サムはそう言ってフロドの絡ませてきた腕にそっと手をかけました。
「岩陰か何かを探して休みましょう。」

「ゴラム」に続く。