22・ヘンネス・アンヌーンの池
フロドとサムは黙り込んだファラミアの前に立っていました。不安と哀れみがふたりを包み込んでいました。口を閉じてから、ファラミアは動きもしませんでした。フロドとサムは話し掛けることもできず、この場から去る事もできず、ただそのまま立ち尽くしていました。しかしそうしているのもそう長い間の事ではありませんでした。ファラミアの部下らしい人間がフロドとサムを洞窟の中の一室に案内したのでした。案内されたのは樽や木の箱やらが積んである小さな部屋でした。人間たちは口は重く、フロドたちがちょっとしたことを訊ねても答えは慎重でした。ただ、少しばかりの食べ物と葡萄酒を差し出し、
「ここで眠るのだ。」
そうふたりに言い残しただけでした。
フロドもサムも、この部屋では休まる気持ちが全くしませんでした。与えられた食べ物を食べる時でもサムはあちらこちらから大きな人たちの気配を感じ取っていましたし、鋭い視線がどこからかフロドに刺さるように感じていました。しかしせっかく大望の食べ物ですから、喜んでそれをお腹に納めようとしました。それからサムは、フロドに寝床――と言えるようなものではありませんが、今までの旅の中でよりは良いでしょう。洞窟の床はやわらかく、毛布がありました――を作り、フロドを寝かせようとしましたが、自分はどうあっても起きていなければならないと思っていました。
「旦那、旦那はどうぞお眠りくだせえ。ここはおらにゃ何だか落ち着きませんがね、外でオークやらなんやらに怯えて眠るよりずっとましですだ。」
フロドはそんなサムの調子に少し微笑みました。
「そうだね、サム。」
しかしフロドはサムほど警戒する必要はないと、なぜか思ったのでした。それに側にはサムがいてくれます。ですから横になったフロドの胸にサムがそっと手をあてて、まるで赤ん坊をあやすようにその瞳を見つめると、フロドには安らかな眠りがおとずれました。
「おやすみ、サム。」
言葉の最後は小さく洞窟に反響し、しばらくのちに消えました。
「おやすみまさいまし、フロドの旦那。」
フロドの疲れ旅で汚れてもなお美しい顔を見つめながらサムもそう言いました。
しばらくすると、サムは知らず知らずのうちに主人の隣で眠りに落ちていました。安らかな主人の寝息に吸い込まれたのでしょうか、遠くから響くような近くの水音が気持ちを落ち着かせたのでしょうか。サムもフロドも小さく丸まって眠り込んでいました。しかしその眠りは長いこと続きませんでした。フロドはふと目をさまし、ファラミアとその部下が自分の目の前に立っているのを見ました。フロドは一瞬、以前の恐怖に捕らわれたかのように怯えて後ずさりしました。
「何も恐れる事はない。」
ファラミアは言いました。
「しかしそなたには、今われらと来てもらわねばならない。」
そう言うと、ファラミアは踵を返し、フロドはまだ抜け切らぬ夢の世界と現実の間でのろのろと立ち上がり、あたたかい寝床をあとにして、彼らについて行きました。
サムは何か、本能的な警戒心からはっと目を覚ましました。そしてはじめに自分の隣を見ました。するとどうでしょう、フロドの姿はそこにはありませんでした。サムはばっと飛び起きました。そしてそっとフロドの寝床に手のひらを当ててみました。
「まだあったけえ。」
サムはフロドがここを立ち去ってそれほど経っていないことを確信し、辺りをさっと見渡してみました。ホビットはもともと目と耳のいい種族です。サムはもうほの白く光が差し込む遠い洞窟の入口に人影を見ました。そしてその中に主人の影――他に比べてずっと小さな影――も見つけたのでした。
「旦那。」
サムは口の中でそう呟くと、成り行きを見守ろうと(そして主人の危機には――そんなことがあってはならないのではありますが――すぐに飛び出せるようにと)その後を追いました。サムはフロドを追って洞窟の外の細い通り道を歩いていきました。サムは寒さと自分があまりにも高いところにいる恐怖と、それに周りの景色の美しさに背筋がぞっとするのを感じました。滝のわきには木々がつやつやと生い茂り、幾層にも重なった岩棚に跳ね返る飛沫は儚く美しいものでした。仄かに明るく感じた光は真っ白い月から降り注ぎ、サムの足元にある全ての世界を照らしていました。遠くには靄と闇が混沌とした谷があり、さらにその奥にはアンドゥインの冷たき流れと、ひややかに聳え立つエレド・ニムライスが見えました。サムはその広大さに骨まで冷えてしまうような気持ちになりました。そして景色に奪われていた視線を主人に向けました。フロドはサムよりずっと滝に近いところまで歩いていきました。隣はいつのまにかファラミアだけになっていました。サムはこっそりと、そうエルロンドの会議の時のようにフロドとファラミアの背後に隠れました。耳をすませると、主人の小さな細い声と、ファラミアの低く強い声が、水音の合間にかすかに聞こえてきました。
「あれを見てみよ。」
ファラミアは滝の下を指差すと、そう言いました。フロドがそっと下を覗き込んでみると、そこは池のようでした。黒い水面に白い月の光が静かに反射し、滝から流れ落ちる雫が波紋を広げていました。しかしそこに、その美しい水たちの調和を崩すものが見えました。ぬるぬるして骨ばった背中が池に飛び込んだのでした。それはゴラムでした。フロドは戸惑いました。自分の仲間ではないと言ったゴラムですが、大きい人たちはそれを見つけたがっていました。そしてそれは現実となり、今目の前にいました。しかしゴラムは案内人です。モルドールへの道は、フロドにもサムにも分かりません。ここでゴラムを失う訳にはいかないのです。しかしファラミアはなぜフロドにこの光景をわざわざ見せようとしたのでしょうか。フロドは今何を言ったらよいのか分からず、ただファラミアの言う事を聞いているだけでした。
「ヘンネス・アンヌーンの禁断の池だ。そこに入ったものは罰として命を失うだろう。」
ファラミアはフロドに身振りで周りを見渡すように言いました。
「今もまた、部下たちがわたしの命令を待っている。あいつを射るために。」
フロドが見ると、木という木の茂みに弓を既につがえた大きい人たちがいました。狙いはきっちりとゴラムに合い、その中のたった一本の矢だけでも、ゴラムを射抜くのに十分だと思わずにはいられませんでした。
「さあ、射るか?」
フロドは恐れを含んだ目でまたゴラムを見つめました。池の中のゴラムは歌っていました。池には魚がたくさんいました。ゴラムは魚を捕まえたのです。そしてつるつる滑る岩の上によじのぼり、魚をそこに叩きつけはじめました。――岩と池はとってもいいよ、冷たくてひんやりきもちいいよ、さかなよ、さかな!つかまえたのよ。のたくってて生きてる、しるけたっぷりよ!――その目には恐れも不安も浮かんでいませんでした。ゴラムはさかなに惹かれたのと人間を知らないので、今全くの無防備でした。
「待ってください!」
フロドはゴラムを見つめるうちに、ここでゴラムが殺されることが苦痛に感じられました。ただ哀れみを感じただけではありません。何かがフロドの心を止めました。
「あの哀れな生き物はわたしと関わりがあるのです。そしてわたしもかれとつながりがある。・・・かれはわたしたちの道案内なのです。」
フロドは先ほどまで言うべきか迷っていた言葉を思わず口にしていました。
「お願いです!わたしをかれのところに行かせてください!矢はつがえたままで結構です。わたしが何かかれのことでしくじったら、せめてわたしを射ってください。わたしは逃げませんから!」
ファラミアは驚きの眼差しをフロドに向けましたが、黙ってうなずきました。そしてフロドはファラミアのわきをすり抜け、サムの存在にも気が付かずに下へ下へと降りてゆきました。サムはゴラムの事しか見えないフロドをこれ以上見るのが苦しくなりました。しかしどうしても成り行きを見守らなければならないような気がしました。そしてサムはファラミアが立ち去った後、そっと茂みを抜け出し、フロドの後を追って下へ降りていきました。
フロドがゴラムのすぐ側まできてみると、ゴラムは魚をがつがつと食べていました。
「スメアゴル。」
フロドは自分でも気がつかないうちに、とても優しい声を出していました。その声に、ゴラムがくるうりと首をフロドの方に向けました。
「スメアゴル、お前を探しに来たんだよ。主人はここだ、おいで、スメアゴル。わたしを信じるんだ。さあ、おいで。」
フロドはそう言いながら、ゴラムを手招きしました。今のゴラムは「スメアゴル」だとフロドは思いました。ですからフロドはそれを褒めるような口調になっていたのかもしれません。
「もう行くのかよ、いい旦那?」
「そうだ、スメアゴル、お前はわたしを信じなくちゃいけない。わたしについておいで。さあ、おいで、おいでスメアゴル。いいスメアゴルだろう?さあ!」
するとそれに答えるようにゴラムもフロドをちょっと上目遣いで見て、池と魚を名残惜しそうに見てから、そちらに動き出そうとしました。
それは一瞬のことでした。ゴラムは魚を口にくわえたままフロドの後を追って来ているはずでした。しかしそこでゴラムは捕まってしまったのです!フロドの通った道のわきに大きな人たちが隠れていました。そしてキィァァ!と叫ぶゴラムの頭から布をかぶせてしまったのです。
「やめてください!」
フロドは、自分のしたことにはっとなりました。フロドには分かっていたはずでした。もしフロドがゴラムを自分のところに呼び寄せれば、ファラミアたちがなんらかの手をうつと言う事が。もし悪ければゴラムを殺してしまうと言う事が。これではぺてんです。フロドは自分のしたことを後悔しましたが、もう手遅れでした。ですが、それでも叫ばずにはいられなかったのです。
「どうかお願いです!傷つけないでください!スメアゴル!もがくんじゃない、大丈夫だ。わたしがひどい事をさせないよ。スメアゴル!わたしの話を聞くんだ!」
「旦那ぁぁ!」
ゴラムの目は絶望と裏切りに打ちひしがれて見えました。救いの手をフロドの方に伸ばしましたが、フロドはどうしてやることもできませんでした。
「イシルドゥアの禍」に続く。 |