28・灰色港
九月二十一日に、一行はホビット庄を出発しました。先導するガンダルフ、それに幌馬車にはフロドと、いかにも老いて年相応になったビルボが寄り添って乗っていました。さらにはサムもメリーもピピンまでもがついてきました。ホビットたちはビルボとガンダルフを港に送りに行くのだと思っていました。幌馬車の中でビルボが言いました。
「フロド、わたしの指輪はどこへやったんだね?」
「・・・なくしてしまいました。」
苦しそうに顔をゆがめたフロドがどうにかそう言うと、ビルボは残念そうな、どこか安心したようなため息をつきました。
「そうか、もう一度だけ、この手にとってみたかったのだがね。」
そうして目を閉じたビルボに、フロドはそっと身を寄せました。そして一緒に目を閉じ、ゆったりとした揺れに身を任せていきました。
そこは、今までホビットの誰一人もが見たことのない場所でした。灰色の海と、そこに浮かぶ白い船がありました。そこには背の高い船大工のキアダンの迎えがあり、エルフたちがいました。エルロンドをそこに認めたビルボは、にっこりと笑って手をあげました。
「おお、おお。わたしはもう、すっかり行く用意ができていますよ。」
エルロンドの手に招かれるよう、ビルボは船に乗り込みました。一度も後ろを振り返らず、ゆっくりとその姿が消えてゆきました。そして指輪を持つ者たちもいました。それはガラドリエル、それに偉大なるネルヤをはめたガンダルフでした。ガンダルフは、輝く海を背に、ホビットたちに向き直りました。
「指輪の力はなくなった。人間の時がやってきて、そしてわしの時も、もう終わりじゃよ。」
メリーとピピンはもう、溢れてくる涙に無理やり浮かべた笑顔をガンダルフに向けました。
「ああ、友よ。わしは泣くなとは言わぬ。すべての涙が悪しきものではないからの。さらばだ。」
そしてガンダルフは、まっすぐにフロドを見て言いました。
「時間じゃよ。」
はっとしたサムが、フロドの方をばっと振り向きました。
「どういうことですだ?!」
フロドは、うつむいて言いました。
「指輪所持者たちは一緒に行くべきなのだよ。」
「おらは行かれません!」
サムは、必死にそう言いました。しかしフロドはすっと顔をあげ、そして一度目を閉じ、今度ははっきりと目を開いてサムを見つめました。
「そうともサム、お前はまだ行けない。まだすべきことがあるのだから。しかしお前もほんのわずかな時間とは言え指輪所持者であったのだよ。いつかはお前の時も来るだろう。あまり悲しがってはいけないよ。」
「それでも、おらは旦那もまたホビット庄での暮らしを楽しまれると思っていましただ。」
サムが叫びました。
「あんなにも尽くして、こんなにも守りたかった地なのに!行かねえでくだせえ!ねえ、そうでしょう?旦那が行っちまうなんてこと、ねえですだよね!」
涙をこぼし、サムはすがりつくように言いましたが、しかしフロドは静かな声でこう言うだけでした。
「わたしの傷は深すぎたのだよ、サムや。ホビット庄もこの世界も、もう穏やかな日々に戻った。でもそれはわたしのためにではないのだよ。何かをし、愛するものを守ろうとする時、何かが失われなければならないのだよ。わたしの持っているものは全てお前に託そう。お前にはローズがいる。それにエラノールやまだ見ぬ子供たちも。お前はだれよりも幸せになるだろう。物語の中でお前の役割が続いてゆく限り。そしてこの物語は、最後はお前が書くのだよ。さあ、もう別れの時だ。」
そう言い終わると、フロドはメリーとピピンを抱きしめました。そのありったけの愛情を伝えられるように。そして最後に、サムのところまでやってきました。サムは、フロドに抱きしめられた時、その手を離せませんでした。主人の、哀しくはあるものの、迷いのないその声を、その言葉を聞いたのでした。サムには良く分かっていました。自分がこの手を離さなければ、主人は、フロドは苦しみから解放されないと。もう旅立たせてあげなさいと、心の中から声が聞こえました。それは誰かの声に似ていて、それでいて聞いたことのないような、そんな声でした。もしかしたら、ずっと未来の自分の声だったのかもしれません。しかしそれはあまりにも耐えがたい瞬間でした。この手を離せば、主人はもういなくなってしまうのですから。この腕を解けば、フロドは二度と戻ってこないのですから。絶対という名の付く別れと死は、一体どこが違うと言うのでしょうか。それでもフロドの瞳は一点の曇りもなく、澄みわたっていました。サムを見つめるその目は、孤独と悲しみと痛みがかすかに浮かんでいました。微笑んでおあげなさいと、また声が聞こえました。ちゃんとさいごまで、見送っておあげと。ほら、かれは微笑んでいるでしょう?美しい陽と海を背に、フロドは微笑んでいました。鳴いていたカモメたちも、今はやさしいさざなみに口を閉ざしているようでした。
サムの耳にその言葉を囁いたフロドは、さいごにサムの額にキスをしました。そして乗船し、メリーとピピンとサムの方を向いて、にっこりと、それはもう言葉にならないほどの美しい微笑みを浮かべました。それはようやく全てのものから解き放たれ、去って行くものの顔でした。
『ああ、旦那がそう望まれるのなら。』
サムはこぼれる涙でフロドの顔が見えなくならないように、フロドの最後に笑顔を贈れるように、そして泣き顔で心配をさせまいと、ゆっくりと微笑みました。苦しくて、悲しくて、もうどうにかなってしまいそうな微笑みでした。
『いつの日か。必ずあなたのもとへ。』
「旅の終わり」に続く。 |