9・ゴラムとスメアゴル
疲れ果てたサムがようやく固い地に足をつけるようになったと思えたのは、もはや夜半過ぎのことでした。フロドはゴラムが後ろを向いて立ち止まったとたん、どさりと地面に倒れこむようにして座り込んでしまいました。
「今日はここまでだ!旦那様はひどくお疲れだ、ゴラム!」
サムはじいっとフロドを見つめたままのゴラムに向かってそう言いました。
「おらも休まなきゃなんねえ、お前もそうだろ?明日も歩くならな。」
「わかってるよ、わかってるよ、いいホビットさん。わしら休むよ、わしら休むよ。さかなも鳥も、そうよ、うまい鳥よ、鳥もいないけど、わしら腹減ったよ、すぐ戻るよ。」
そう言ってゴラムはひょいひょいと姿を消してしまいました。サムはもうそれがどこかへ行ってしまうだろうという考えを思い浮かべるのも嫌だったのでその場でフロドをどうにかして回復させようと試みました。
「旦那、フロドの旦那。」
サムは囁くように優しくフロドに話しかけました。フロドの背中をさすりながらそっと目をのぞきこむようにしました。
「今日はもう休まないといけませんだ。旦那はずいぶんお疲れですだ。何か食べなくちゃいけないですだ。」
すると今まで一言も口を開かなかったフロドがふいにそう言いました。それはとんでもなく小さな声だったのですが、サムにはちゃんと聞き取ることができました。
「サム、わたしは何もいらない・・・。」
「だめですだ、だめです、フロドの旦那!」
サムはそんなフロドを見つめて強い口調で言いました。疲労したまま主人を寝かせるわけにはいきませんでした。こんな禍々しい沼に捕らわれた後ですからなおさらです。明らかにフロドは遠い過去の亡霊たちに心を奪われたままでした。サムはエルフのレンバスや、もう残り少ないアンドゥインの水がフロドにもう一度力を与えてくれると信じていました。フロドは今にも地面に倒れこみそうでした。このような疲労は今までフロドが見せたことのないものでした。フロドはサムが手を添えて飲ませた水は少し口に含みましたが、レンバスは手に持つこともしませんでした。そして虚ろに視線を彷徨わせるばかりでした。サムは何が何でも食べさせなければ、と思いました。そして自分でレンバスを噛み砕き、水を含ませてフロドの頬をそっと手のひらで包みました。
「・・・んん・・?!」
フロドが驚いたのはもっともなことでした。サムはフロドを地面に横たえ、レンバスを口移しでフロドに与えたのですから。
「サム!」
どうにかしてレンバスを飲みこんだフロドは、そこで初めて自分を取り戻した声をあげました。それは目の前の薄い覆いが取れたかのようでした。目を丸くしてサムを見上げるフロドにじっと目を当てたまま、サムは真剣な眼差しをフロドに向けました。
「エルフたちはこれは一口で十分一日歩けると言いました。旦那、こんなことしたことを許してくだせえ。しかし旦那は明日も、歩かなければいけないんですだ。ですからどうしても、口になさらないといけなかったんですだ。」
そう言うと、サムはフロドに背を向けて主人のすぐそばに横になりました。
「すみませんだ。ごめんなせえ。」
小さく口の中で呟いたサムの目には、ふいにこみ上げた涙が溢れそうになっていました。フロドは身体によみがえる力を少し感じて起き上がりました。サムの肩が震えているのが分かりました。そしてその肩に、そっと手をかけました。もうそれはいつものフロドでした。
「お前の言うとおりだよ、サム。すまない。わたしはもう大丈夫。ありがとう、わたしはお前のもとに帰ってこれたよ。ありがとう、わたしのサム。」
そしてそっとサムの髪に口付けました。それからフロドは、そのまま静かに目を閉じました。
真夜中過ぎのことでした。フロドは夢の中で自分が恍惚としたどす黒い光に包まれているのを感じました。それは綺麗で美しく、たとえがたいほどいとしい何かを手に持っている感覚でした。自分のものになったのだと、フロドは思いました。その何かを、です。そして自分でも起きているのか、それともまだ夢の中にいるのか分からぬまま、手の中のきらきらと星や月の光で光る指輪を繰り返し繰り返し撫でていました。執拗という言葉がぴったりそのまま当てはまるような、そんな手付きでした。それを撫でるたび、フロドの口からは、うっとりしたような吐息が漏れ出ました。目は悦びに細められ、焦点は定まらずただこの指輪に捕らわれるがままになっていました。すると、どこからか声が聞こえてきました。
「とってもきれいで、とーってもきらきら、わしらの、わしらの、いとしいしと・・・」
フロドは、はっとして慌てて指輪を胸元に隠しました。横にはサムが気持ちよさそうに寝息をたてていました。
「何と言ったんだ?」
フロドはゴラムに向かって思わずそう言いました。自分が言おうと思ってしまったことをそのままゴラムは口に出していたのでした。
「旦那は休まなきゃなんないよ、休むんだよ。」
そう言うと、ゴラムはくるっとそっぽを向いてまた自分の世界に戻ってゆこうとしました。しかしそれをフロドが許しませんでした。
「お前は、誰だ?」
「わしらに聞かないよ、聞かないでよ、関係ないよ、ゴクリ、ゴクリ!」
そしてフロドが邪魔だと言わんばかりの顔で目をそむけました。
「ガンダルフが言っていた。お前は川辺に住んでいたのだと。」
しかしゴラムは身を捻ってその言葉を避けました。
「――心もこの手も骨まで冷たい、家から遠く遠く離れた旅人――」
それはまるでゴラムでないような口調でした。ホビットたちの歌にもそのような節があったようが気がしました。しかしそれよりずっと冷たく綺麗でない調子でした。ですからフロドはゴラムに話しかけ続けました。
「かれはわたしにお前の悲しい話をしてくれた。」
「――かれらは道が見えない、太陽も月も死に果てて――」
「お前はかつてホビットとそうかわらない種族だった。そうだろう・・・スメアゴル。」
くるうりと、ゴラムは首をめぐらせました。そしてゆっくりと顔を上げ、フロドの瞳を見つめました。
「今なんて呼んだのかい?」
「それがお前のかつての名だろう?ずっとずっと、遠い昔の。」
フロドは確かめるようにそう言いました。二人の間には不思議な空気が漂っていました。
「わしの・・・わしの名前・・・ス・・・ス・・・スメアゴル・・・」
「翼に乗ったナズグル」に続く。 |