・ゴラム

 

エミン・ムイルの麓はどこまで行ってもごろごろした岩と石しかありませんでした。もう坂を降りてゆくだけで良いはずなのですが、一向にどう進んでよいかも分かりませんでした。それにサムの言うような、身を隠せる大きな岩陰も木陰もなにもありませんでした。結局ふたりは疲れ果て、先ほどの崖からそう離れていない比較的大きな石の陰に身を投げ出しました。石と埃しかない闇の中で、ふたりはしばらく身を寄せ合っていました。サムが石に背をもたれかけ、フロドはその胸に頭を寄せていました。サムは、いつしかの夜が思い出されて仕方ありませんでした。こんな危ない場所だというのに、自分は一体何を考えているんだとサムは自分を叱り付けました。しかし腕の中にいるフロドはその日のように完全にサムに身を預けていました。フロドにはいつしか眠りが忍び寄っていましたが、サムの胸の鼓動を聞きながら心地よく目を閉じているだけでした。もしここでフロドが何かの気配を感じとらなければ、ふたりはあの夜のように安らかに結ばれることができたでしょう。しかし、そんな安らぎは当分訪れない翳が、ふたりに忍び寄っていました。

 突然、フロドがはっと目を開け、サムの腕を掴みました。
「あれは何だ?」
サムはまだどきどきしている胸の鼓動をどうにかしておさめようとしていたところでしたので、かなり驚いてびくっとしました。
「ほら、あそこだ。あの崖を見てごらん、サム。わたしたちの降りてきた崖だ。」
フロドが指差した先には、何か確かに動くものがいました。蜘蛛のように崖にへばりつき、蛙や何かのようにぺったりと岩にくっつきながらその崖を降りようとしていました。
「あいつですだ・・・くそぅ、ゴラムですだ!」
サムは心底憎そうにその名前を口に出しました。暗闇でそれのたてる音は、耳に障って響きました。スースーという音に混じって、なにやらぶつぶつと汚い言葉を吐き出していました。それにはフロドとサムはまだ見えていないようでした。
「あいつにどこまでもつけられるのは気持ちよくないですだよ。このまま寝たふりでもしてりゃ、うまくいけばあいつを捕まえちまう事だってできるんじゃねえですかい?」
サムはかねてから思っていたことを口にしました。
「・・・そうかもしれない。」
フロドは何か考え込んでいるようでしたが、この状況ではサムの言うとおりにする方がよいのかもしれません。ふたりはそろってマントに身をくるみ、隣り合って寝ているふりをすることにしたのでした。

「いとしいしと、いとしいしと、どこだよ、いとしいしと?どろぼう、どろぼう、きたねえちびのどろぼうめ。いとしいしとをわしらから取ったのよ、いとしいしと!」
そんな声がフロドとサムの上から聞こえてきました。そしてそのいやらしい声は、徐々に近づいているようでした。
「のろってやるぞ、いとしいしと!わしら嫌いよ、あいつら憎むよ、わしらあれがほしいのよ!いとしいしと!」
そう言ってゴラムがホビットたちに手を伸ばした瞬間でした。がばっとフロドとサムが起き上がり、ゴラムの腕を一本ずつ掴んで地面に引きずり倒しました。ギャァァと凄まじい悲鳴が上がります。しかしゴラムは決してその拘束から逃れようとしているだけではありませんでした。目が、何かに囚われていたのです。その力はものすごいものでした。フロドを突き倒し、フロドの胸元から細い鎖に通された指輪が外に飛び出しました。
「キィアア!」
ゴラムがそれまで格闘していたサムの手をぶんっとほどき、サムは後ろの岩に叩きつけられてしまいました。ゴラムはフロドに飛び掛りました。そこには「いとしいしと」があったのです!もしそこにフロドだけがいたのでしたら、これはおもしろくないことになっていたでしょう。ゴラムはその細長くてぬるぬるした指をフロドに、いえ、指輪に伸ばし、必死にそれを取ろうとしました。フロドがその腕を掴みます。しかし力で完全に負けているようでした。だんだんとゴラムの指がフロドに近づいてゆきました。シャラン、と、ゴラムの指が指輪に触れる音がしました。かっと、ゴラムの目の色が変わり、更に力が増したようでした。ああ、もうだめだと思った時でした。サムが岩から身を起こし、フロドの上に乗っかっているゴラムの身体を渾身の力を込めて引き剥がしたのでした。サムがそれを高く持ち上げ、一歩でもフロドから離そうとしました。ところが、指輪を目の前にしたゴラムの力はとんでもなく、サムは逆にゴラムに首を噛まれ、地面に倒され首を絞められてしまいました。フロドは自分が成すべき事を一瞬で理解しました。そしてスラッとつらぬき丸を抜いたのでした。
「離せ、ゴラム!これはつらぬき丸だ、お前はこれを昔見たことがあるだろう!」
フロドはゴラムの首筋に短剣を突きつけました。
「かれを離せ!さもないとその咽喉をかっ切ってやる!」
ゴラムは急に力をなくし、サムはその腕の下から首を外すことができました。
「かはっ」
とせきこみ、サムはフロドのもとへと滑り出ました。まだつらぬき丸は突きつけたままです。ふたりのホビットはその汚くぬるぬるして惨めな生き物を上から見下ろしました。力を失ったように見えるゴラムは、ぐにゃぐにゃとして石の上にはいつくばってすすりあげはじめました。フロドとサムは捕まえたはいいが、これからどうしようかと哀れなすすり泣きをやめないこのゴラムを見ていました。
「縛り上げちまいましょう、フロドの旦那!これ以上こそこそおらたちの後をついて来ねえように。」
サムは憎々しげにさっき掴まれた首をさすりながらそう言いました。
「やめてくれよ、そんなことしたらわしら死んじまうよ!しどいホビットだよ!死んじまうよ!」
「こいつを殺すなら、今すぐでないといけない。でもそれはできない。」
フロドはそう言ってふと、黙り込んでしまいました。フロドの耳には過去からの声が次第にはっきり聞こえてくるようでした。
 

――ビルボの情けが手を止めたのじゃ。死んだっていい者が命をながらえ、死んでほしくないものが死んでゆく。お前はそれに命を与えられるのか?誰にこの先の運命が分かる?――

「分かりました。」
フロドはそう言ってつらぬき丸を鞘に戻しました。
「わたしはこれを殺しません。」
サムはフロドが何を誰に向かって言っているのか分かりませんでした。ですが、フロドは痛いほどの真剣なまなざしをゴラムに注いでいたのでした。
「逃げないようにして、こいつを連れて行こう。」
そうしてゴラムは首に縄をかけられ、二人に引っ張られてゆくことになりました。

「約束」に続く。