・エミン・ムイルの崖

 

 やがてふたりは、はたと足を止めました。そこに今までにないような深い峡谷のようなものがありました。
「この峡谷を這って降りるしかないよ、サム。もうここ以外降りられそうなところはないもの。三十エルくらいかな。」
フロドは谷の深さを目で測りながらそう言いました。しかしサムには「そりゃもうめっそうもない」ことでした。
「まっさかさまですだよ・・・」
フロドの言葉にがっくりしたサムは思わずそうこぼしてしまいました。しかしフロドの言うとおりです。ここで降りるより仕方ありません。岩のところどころには亀裂が入り、岩棚と呼べるようなものもところどころには見えますが、降りるにも命がけの崖でした。下を覗き込んだサムは、下から来る風に乗る臭いに思わず顔をしかめてしまいました。
「うへぇっ!フロドの旦那、臭いますだか?いやな沼でもあるに違いねえですだよ。行きたくねえですだよ・・・」
「臭うよ、サム。そうだね、お前の言うとおり沼がありそうだ。」
それだけ言って、フロドは崖に足を踏み出そうとしました。フロドは、サムが高いところも沼も大嫌いだと言うことを知っていました。とにかく進むしかありません。もし自分が行って安全なら、サムも来させることができるでしょう。しかし足を踏み出したフロドの腕をサムが、がしっと捕まえてしまいました。
「ちょっと待ってくだせえ、旦那!おらが先行きますだよ。」
「お前が?気が変わったのかい?」
フロドは少し驚いてそう言いました。むしろ少しおどけたように。しかしサムの表情は真剣そのものでした。
「気が変わったわけじゃねえですだよ。でもこりゃ常識ってもんですだ。『落ちやすいやつは一番下に置け』ってね。おら、自分が滑って旦那を振り落としたくねえです。ひとりまぬけなサムが落ちて、ふたりが死ぬのは利口じゃねえです。」
そういい終わらないうちに、サムは崖に腰かけくるっと体の向きをかえてどこかに足がかりがないか空中に足をぶらぶらさせました。
「いけない、いけない!サム!このばかが!」
フロドは今にもふらっと下に落ちそうな無謀な試みをしているサムを力の限り引っ張り上げながらそう叫びました。
「下も見ずに降りるなんて!間違いなく落ちて死んでしまう!」
フロドの顔は青ざめても見えるようでした。それなのに、このぼろぼろの身体でどこからこんな力が出るのかと言うほどの力でフロドはサムを引っ張ったのでした。崖から引っ張り上げられたサムは目をぱちくりしてフロドを見ました。
「いいから!お前はここにおいで。わたしがちゃんと降りてみるよ。」
「ですが旦那!もう随分薄暗くなっちまって。こんなとこ、ちゃんとなんて降りられっこねえですだよ!夜が明けて明るくなるのを待ったほうがいいんじゃねえですか?」
「いや、待たない!」
フロドは驚くほど熱を込めてそう言いました。まるで後ろから何かに急き立てられているかのような口調でした。
「わたしはこの時間が惜しいのだよ、サム。わたしがこうしてのろのろしている時間が!」
サムはもう一度フロドを見つめました。フロドの青い瞳は焦りと恐怖の中にいながら、強い決心を秘めていました。サムはこういう目をした主人に逆らおうとは思えませんでした。
「わたしが降りてみるから。お前はついて来てはいけない。分かったね?」
「へぇ・・・」
サムにはそう言うより仕方ありませんでした。
 

 それは、はじめのうちはうまくいっているように見えました。フロドの身体は少しずつ下へと降りようとしていました。サムはもう、はらはらしっぱなしで瞬きもせずにフロドを見つめていました。すぐに助けられるように。それでたとえ自分が落ちたとしてもフロドを助けられるように。でもサムの心の中には常に自分も主人も助かる道を探す光がありました。
「ほら、まず一段降りたぞ!」
フロドは爪先が見つけた小さな岩棚に下りることができました。そしてほっとしてサムに声をかけたのです。
「この岩棚は右のほうが広くなってるようだ、サム。あそこまでならそれほど気をつけなくても行けそうだよ。わたしは――」
ここでフロドの声はぷっつりと途切れました。

 いつの間にかすぐそばに迫った夕暮れが辺り一面を覆っていました。どこからやってきたのか、暗雲が立ちこめ鋭い稲妻が山にぶつかりました。それと、共に轟音を伴って風が吹き荒れ、強い雨が頬を叩きました。それはホビット庄で聞けば、ただの嵐だったのかもしれません。しかしこのような場所でのその音は、ふたりの心を恐怖と絶望で切り裂きました。そしてサムはがばっとその場にひれ伏し、フロドは思わず岩から手を離してしまったのでした。かれの身体はぐらっと傾き、細い悲鳴を残して崖の下へと滑り落ちてゆきました。
「旦那、旦那ぁ!」
サムはまだ恐れで足が立ちませんでしたが、どうにかして崖の端まで身を乗り出しました。サムにはこの状況が分かってしまいました。フロドは落ちたのです!
「フロドの旦那!」
サムはもう一度叫びました。答えはありませんでした。サムは全身が震えているのが分かりました。サムはこんなところで主人をなくしてしまったのでしょうか。そんなことはないと、サムは心の中で自分に言い聞かせました。そしてやっとのことで息をもうひとつ吸い、出しうる限りの声でがけ下に向かって叫びました。
「旦那ぁぁ!!」
風は吹き荒れ、雨は容赦なく吹きつけ、サムの声は暗闇に吸い込まれているようでした。しかし、今度は答えがあったのです。小さく、細くはありますが、それは確かに主人の愛しい声でした。
「サム!」
「旦那!」
サムは涙がこぼれそうになりながらそう叫びました。そしてそれはもう危ないほど崖に身を乗り出してフロドを探しました。すると、見えました!小さな崖にしがみついている灰色の姿を見つけたのです。サムはほうっとして言いました。
「旦那!大丈夫ですかい!」
「大丈夫だ、サム!でも、見えないんだ!」
フロドは自分が本当の暗闇にいるのか、それとも自分が失明したのではないかと疑いました。フロドには何も見えなかったのです。目の前が全くの暗闇なのです。サムはサムでフロドに手をのばそうとしましたが、それはいくら伸ばしても届く近さではありませんでした。
「戻っておいでなされ!戻っておいでなされ!」
サムはそう叫びました。
「だめだ!何も見えないんだ。わたしはここから動けないよ。」
サムはおかしいと思いました。確かに回りは暗いのです。薄暗くて雨が叩きつけています。しかしまったく見えないほどの暗さではありません。現にサムはフロドの姿が見えました。それなのに、フロドは見えないというのです。それならば、とサムは思いました。
「何かおらにできませんか、フロドの旦那!降りて行きますだよ!」
「だめだ!お前はそこにいるんだ!」
フロドの声はさっきより随分ちゃんとして聞こえました。さっきほど弱々しくはありませんでした。
「きっともうすぐよくなる。でも綱がないとどうにもならない。」
「綱ですと!」
サムは自分の頭を小突いて叫びました。
「ありますだよ!綱が!ありますだよ!おら、なんちゅう間抜けなんだ!そいつで首をくくってもまだ足りねえ!」
サムはそう言って急いで自分の雨で濡れた荷物を探りました。そしてそっと大事そうに一つの包みを取り出しました。その中には、ロスロリアンの奥方様に頂いた、ヒスラインの綱がありました。

「ヒスラインの綱」に続く。