15・エフェル・ドゥアスの山陰

 

「あの人は、われわれの旅の仲間の中で、一番に指輪に魅入られたひとだった。」
フロドはそこから、ほとんど呟くような声で独り言のように続けました。サムはその間、一言もしゃべりませんでした。
「あの人は自分の国を愛していた。かれが執政官の息子だったからというだけではないと思う。あの人は人間をとても愛していた。この暗闇の迫る時代にありながら、希望を捨てない人だった。だがその気持ちが強すぎたんだ。ボロミアはとても強い人だった。武勇に優れ、その高い身丈はきっと戦場で輝く光であったんだろう。だからかれには自信もあった。どんな武器でも、そう、たとえ悪の力でも使いこなして戦えると。それはまさに指輪のことだったんだ。ボロミアはアラゴルンをとても尊敬していたし、王と認めようとはしない言葉とは裏腹に、とても大切に思っていた。わたしはアンドゥインの川辺で彼らが言い争っているのを聞いたよ。武器を取り戦おうと、あの人は言っていた。でもアラゴルンは強い意志でそれをはねのけた。それを随分ボロミアは許せないでいたようだよ。ボロミアには分からなかったんだ。どうして指輪を破壊しなければならないかが。良きものが指輪を取れば、良き時代が待っていると信じて疑わなかったんだ。自分自身が蝕まれていることに気がつかなかったから。だから・・・あの人はわたしから指輪を奪おうとしたんだ・・・」
サムは驚きで目を見開きました。なんということでしょう!フロドがたがを締めたのは、ボロミアの行動が引き金だったのでした。言われれば、思い当たる行動もあることはありました。時折ボロミアが見せた、取り付かれたような視線に、サムはフロドをさらしたくないと思っていました。それがまさかこのような結果で終わっているとは、サムは思いませんでした。それよりも、もっと驚いたことがありました。それは、さっきのフロドの口調がそのような目をした時のボロミアにそっくりだったのです。さっきは深く考えずに言った言葉がまさにその通りだったのです。そうです、あのフロドは指輪に魅入られたものの目をしていたのでした。そう、ボロミアのように。
「あの人は、わたしに優しく話しかけてきた。ミナス・ティリスに一緒に行こうと。つまり指輪を持って来いと。あの人は言った、人間のために試したいだけなのだと。でも・・・そう言いながらもあの人の目の色は、どんどん変わっていったんだ。どす黒い光が見えた。いつものボロミアの瞳じゃなかった。逃げるわたしをあの人は捕まえようとした。渡せ、渡せと言って・・・。わたしはもうどうすることもできなかった!指輪をはめて逃げる以外は!」
「もう、分かりましたから!もう、これ以上悲しまないでくだせえ!」
はらはらと涙を流し、両手の中に顔を埋めたフロドをサムは揺り起こしました。
「分かりましただ、分かりました。全部、話してくだすったんですだね。お辛いことを!もう、おらには分かりましたから、もう一人で苦しまないでくだせえ!ここにサムがおります。旦那のサムが。」
そう言って、サムは泣き濡れた顔を上げたフロドを抱きしめました。強く、ここにいることを分からせるように。そしてその唇にそっと口付けしました。まだ見たことのない、海の味がしました。フロドもサムの体に腕をそっと回しました。ここにサムがいることを確かめるように。サムの唇が涙を辿り、フロドの白い首筋に顔を埋めました。
「こんなところで言うのはおかしいかな?でもサム、もっと抱きしめておくれ・・・」
こうしてサムとフロドはお互いを強く強く抱きしめあいました。薄い日の光も、かさかさする木の葉たちも、お互いの肌がはっきり見えるのも、ゴラムの視線さえふたりの意識の外でした。フロドの顔には安らぎがありました。それは本当に、幸せな時でした。
 

 結局、辺りが暗くなるまで二人は抱きしめあって眠っていました。暗闇が近づく頃には出かけなければなりません。それまでの、束の間の休息でした。しかしそこにはもう一人、旅を続けているものがいることを忘れてはなりませんでした。スメアゴル、それにゴラムでした。

「わしらあれがほしいんだよう!わしらあれがいるんだよう。いとしいしとをだよう。こそこそするホビットたちわしらから盗んだんだよう。しどくて、ずるくて、だましてるんだよう!」
「違うよ、違うよ、旦那はしどくないよ。」
「ちがわないよ、いとしいしと。だましてるよ、きずつけるにきまってるよ、うそつきだよう!」
「旦那はわしの友達だよ。」
「シーシーシー!ともだちだと、いとしいしと、だーれもいないよ、ともだちいないよ。ちっこいホビットたち、自分たちだけ幸せだよ、小汚いちっちゃな幸せだよ。だーれもいないよ。」
「聞きたくないよ!わしは聞きたくないよ!」
「わしらはうそつきで、どろぼうで、それにしとごろしだよ!」
「どっかいけ!」
「どっかいけだとよ!スースー!」
「わしはお前、嫌いだよ!嫌いだよ!旦那が面倒みてくれるよ!お前なんていらないよ、旦那がわしの面倒をみてくれるよ!」
「わしら離れないよ、いとしいしと。」
「どっかいけ!戻ってくるな!」
「いやだよ、いとしいしと。」
「どっかいけ!戻ってくるな!どっかいけ!」
「・・・わしら・・・わしら言ったよ、あいつにどっかいけって、そうよ、言ったよ、いとしいしと!あいついないよ、いっちゃったよ、わしら、自由だよ!」
そう言ってゴラムは腕を振り、足をばたつかせ、喜びにくるくると回りました。そして満足げにホビットたちを見て、もっと喜びました。
 

「旦那、もうでかけるのよ、行くのよ。起きるよ、ホビットさん!仲いいのいいよ、でももう行く時間よ、わしとでかけるのよ!」
「もうそんな時間だか!」
サムはむにゃむにゃと身を起こしてそう呟きました。まだ傍らではフロドがサムのマントを羽織っただけの姿で眠っていました。ゴラムはふたりを見ていたはずなのに、えらくご機嫌でした。
「まったくこいつの考えてることは分かったもんじゃねえ。でもどうやらこいつは『こそつき』らしい。しょうがない、旦那をおお越しするか。」
そう思って、サムは白い肩をそっと揺すりました。
「旦那、もう出かけますだよ。歩けますだか?ひどくしませんでしたか?」
最後の方は、消え入りそうな声でそう言いました。サムの赤い顔がおかしかったのか、フロドはふふっと笑って目を開けました。
「大丈夫だよ、サム。お前が腕をとってくれるならね。」
「そうよ、そうよ、行くのよホビットさん!いいホビットさんたちだよ、わしと行くよ。」
こうして一同は、またエフェル・ドゥアスの山陰を歩き始めたのでした。

「イシリアンで」に続く。