14・ボロミアの思い出

 

 三人は、モルドールを囲う山々の裾を、ちょっとやそっとでは想像できないほどの速さで南に下っていました。山陰に隠れて太陽の光がまっすぐにはささないとはいえ、ゴラムは真っ昼間に歩くのを嫌がりました。ですから昼間休んで夜中歩き続けることになったのでした。あのおかしな口論から、一同はほとんど何もお互いに話さないで道を進みました。時折ゴラムが自分に向かって話しかけ、道はこっちかと確かめているようでした。サムは胸を痛めたままフロドの後に続き、主人の足元だけを見て歩き続けました。フロドがやっと我に返ったのは歩き出してからしばらくたってからのことでした。それは次の日の朝、遠い森のむこうのそのまたむこうの原っぱに流れる川に反射した光がフロドの目に入った時でした。ばらばらと、フロドの目の前に築かれた誘惑の城が崩れ去りました。指輪は相変わらず重荷でしたが、それはフロドをもはや呼んではいませんでした。フロドの意思が、フロドに戻ってきたのでした。朝の陽の光は、絶え間なく指輪とその所持者を探す「目」を一瞬だけ遠ざけたのでした。今まで沈黙を貫いてゴラムの後姿のみを凝視していたフロドが、はっと息を呑んで立ち止まりました。そして目を見開いて後ろを振り返ったのでした。
「サム?」
フロドは急にサムのことが胸に押し寄せてきました。サムの何が、というわけではありません。ただ、幼い子供がそこにあたたかな愛する手があるか確かめるように、根拠のない不安に取り付かれてサムを探して振り返ったのでした。一瞬、サムはそのあまりに澄んだ声に反応することができませんでした。
「サム・・・」
フロドの目が何かを探すように彷徨いました。そして今までうつむいていたサムが顔を上げると、小さな喜びでいっぱいになり、頬を涙が伝いました。
「だ・・・旦那?!」
サムは突然のことにどうしてよいのか分からないふうに目を瞬かせました。ゴラムを見ると、鬱葱とした木の影に入り込んで、弱く光る目でこちらをじっと見ていました。サムが一歩フロドの方へと足を進めると、フロドがそのままの憂いを秘めた喜びの表情のままで、サムの胸に飛び込みました。そしてサムの耳元で消えかかるほどの小さな声で囁きました。
「こんなわたしに、まだついてきてくれていたのだね・・・。ごめんよ、サム・・・わたしを許しておくれ・・・。」
サムはやっとフロドの言った意味を理解しました。フロドは指輪の力からやっと抜け出せたのでした。今までもこういったことは時々ありました。しかし今回のようにこれほど長くフロド自身が戻ってくるのに時間がかかることは初めてでした。
「おらはどこまでも旦那についていきます。そう、誓いましたから。おらはいつまでもここにいます。」
「ああ、サム!そうだった。そうだったね。お前はそういうホビットだった!どうしてだろう、わたしはさっきまでそんなことも思い出せなかったんだよ。少しこのまま、休んでもいいだろうか。時間が経つのは辛い・・・が、今はお前の腕の中にいたいのだよ・・・いいかい?」
「いいかいですって!」
サムは震える声でそう言うフロドの肩をそっと両腕で包んで少しばかり素っ頓狂な声をあげました。
「もちろんですだ。ええ、もちろん、フロドの旦那!」
それを聞き、フロドは疲れた顔をほんの少し紅く染めてサムの顔を見上げました。
「ゴラムもこの薄暗い昼間に歩くのは嫌みたいですだ。もっとずっと暗くなるまで休めるでしょうよ。ここらはやわらかい葉も、静かな木陰もありますだ。横になりますだか?何か食べますだ?」
「いいや、どちらもいいよ、サム。少し、話がしたいんだ・・・」
サムはフロドの目の中に浮かんだ哀しげな色を見てこっくりとうなずきました。そしてふかふかする葉や羊歯の上にふたり並んで腰をおろしました。
 

 ゴラムは少し離れた草むらにうずくまり、話を聞いているのかいないのか、目だけをじっとホビットの方へ向けていました。フロドとサムは、今はその視線を気にはしませんでした。ただ、昔のようにゆっくり話せることを幸せに思ったのでした。
「ボロミアのことを、覚えているかい?」
フロドはしばらくの心地よい沈黙の後にそう言いました。視線を足元に落とし、頭をサムの肩にもたれかけさせていました。サムはそんなフロドの漆黒の捲毛をそっと指先ですいてやっていました。
「ええ、覚えてますだ。ゴンドールのボロミアの旦那。強くて高貴でそれでも世話好きの、溜息が出るほどいいお人ですだ。馳夫さんやらガラドリエルの奥方様やらガンダルフの旦那にはかないませんがね。おらはむしろ人間臭くて好きですだ。離れちまったのが残念でたまらないですだ。でも、少しおらはあの人がこわい時がありましただ。いえ、ほんの時たまです。裂け谷の会議の時やら、アンドゥインの辺りですだ。でも、ほんとによいお人でしただ。」
「そうだろうね、あの人は本当に素敵な人だった。お前の言うとおりさ、サム。」
そうして一度にっこりとサムに微笑を向けて、フロドは話し始めました。
 

「わたしもあの人が大好きだった。高貴で美しく気高い人だった。あの人のそばにはいつもメリーとピピンの笑い声があった気がする。ああ、メリーとピピンも今頃どうしているのだろう!二人を見る目がいつも優しかったのを覚えている。あたたかで、やさしいあの目!弟がいるとアラゴルンが教えてくれたね。だからメリーたちが可愛くて仕方ないのだと。何回ガンダルフやレゴラスがかれらは大人だよ(ピピンはまだ若いけれどね、)と言っても甘やかしてしかたなかったのを、覚えているかい、サム?カラズラスの峠で震えるピピンたちを一番心配していたのはあの人だった。イシルディンの扉のところで池の腕からわたしを救うために戦ってくれた。そう、あの人は強くて何度もわたしたちを救ってくれた。モリアの中でも、ドゥリンの橋でも・・・」
そこでフロドはガンダルフの最期の場所を思い出し、そっと目を閉じました。サムは何も言わず、フロドの肩をそっと抱き寄せました。フロドはそれに安心したようにまた小さい声で話を続けました。
「あの人の弟はきっと幸せものだよ。わたしにもあのような兄がほしかった。あの人のあたたかさはビルボや、もう薄らいで微かにしか感じられない父や母の面影を思い出させるのだよ。国を愛し、ひとを愛していた。でも・・・」
そこでフロドは息をのみました。恐ろしい夢を思い出したように。しばらく、フロドは言葉を捜していました。そして小さく哀しげな息をつきました。これから話すことの心構えをしているようでした。その白い顔には悲痛な翳が落ちていました。
「でも・・・あの人は国を愛する余り、指輪にすぐ魅入られてしまっていたのだよ・・・。」
サムははっとしてフロドを見ました。フロドが仲間のもとから逃げでしたのは、余りに突然のことでした。何かがフロドの心を突然に決める何かをしたのです。もしかしたら、フロドはそのことを話そうとしているのだと、サムは悟りました。それもやはり指輪のせいだと分かったのでした。

「エフェルドゥアスの山陰」に続く。