Blue verse
フロドが灰色港から旅立ち、少し時間が流れました。帰るべき場所があるサムを、愛すべきものたちが出迎え、そして包み込んでいました。これは、フロドを送り出した後の、サムのお話です。 その夜は、サムにとって時間がひどく緩慢に流れているような気がしました。なぜか寝付けず、サムは一人で窓辺に座っていました。ローズも子供たちも、寝室でぐっすり眠っていました。サムは、今日は星を見ているだけでため息が出るようだと思いました。それは、寂しさだけからではありませんでした。フロドを見送って、胸を切られるような感情にさらわれそうに何度なったことでしょう。ここに帰ってくるまでに、どれほど涙を流したでしょう。でも、今はそれだけではありませんでした。今は、フロドについて考えれば考えるほど、心が鎮まってゆくのが分かりました。時折聞こえる夜鳴鳥の声と、さわさわと揺れる木々の葉の音しか聞こえない静かな夜でした。そして、自分の口からあふれるため息は、どこか満ち足りていました。 サムは、窓から星を見上げて思っていました。この空は、きっとフロドの旦那とつながっている、と。この空の星は、きっとフロドの旦那の船を西に導いてくれたのだと。そっと目を閉じると、サムの心の中に見たことのない景色があふれ出てくるような気がしました。夜の暗闇の色を映した、果てしない大海原。そこには星たちが光を注ぎ、海はその光を波で洗い、幾重にも重ねて輝きを増していました。それは静かな光景でした。西に思いこがれるエルフたちの望む、美しい海でした。ああ、旦那はこのようなところを渡って行きなさった。そう思うだけで、サムは胸がいっぱいになるようでした。ふと、サムはフロドに昔もらった本の一節を思い出しました。それは確かこう詠まれていました。
もしあなたがいなければ、 わたしは永遠に海を旅するだろう わたしの心はあなたの声に縛られ 海よりほかに、ほどくものはない サムは、この一節は、一体どういう意味だったのか、今なら分かる気がしました。そして、その本を、もう一度読んでみたいと思いました。サムは家族を起こさないように、静かに本を探しました。本棚の隅に埋もれてはいましたが、サムはすぐにそれを見つけることができました。それは青い本でした。 昔、サムがまだエルフを見たことのなかった遠い過去。フロドはサムの誕生日にこの本をくれました。それはそれは美しい本で、青い紙に、銀色で細く文字が書かれていました。フロドは言っていました。これはエルフたちの悲しい物語なのだよ、と。海と西の地と、そしてここ、中つ国に引き裂かれたエルフたちの心を詠った、悲しいお話なのだよ、と。サムは、そう言ったフロドの表情を思い出しながら、そっと表紙に触れ、はらはらとページをめくりました。そして開いたページには、こんな唄がありました。 ああ、紺碧のもと、水のウルモよ なぜそのようにわたしを呼ぶのか 海は西へと続き、わたしは心をさらわれる もしあなたがいなければ わたしは迷わず西へと旅立つだろう わたしの心は海にこがれ 海よりほかに、満たすものはない もしあなたがいなければ わたしは永遠に海を旅するだろう わたしの心はあなたに縛られ 海よりほかに、ほどくものはない ああ、天空のもと、水のウルモよ なぜこのようにわたしは呼ばれるのか 海は西へと続き、わたしの心は戻ることはない もしあなたがいなければ わたしは顧みることはないだろう わたしの心は波間に洗われ 海よりほかに、濯ぐものはない もしあなたがいなければ わたしは永遠に海を旅するだろう わたしの心はあなたに縛られ 海よりほかに、ほどくものはない それは、西にこがれるあまり、この地を離れたエルフのお話でした。長い長い物語の、ほんの一節でした。他の種族と恋に落ち、それでも西への想いは尽きなかったエルフのお話でした。かのエルフは胸にあふれる気持ちを唄い、西へ渡ろうとして、旅立ちました。しかし西の地と、残してきた者とに心が引き裂かれ、苦しみぬいた果てに、海に身を投げ込んだのでした。 サムは、このエルフの気持ちが今まで分かりませんでした。どうしてこの地にとどまらなかったのか、どうして西の地にたどりつかなかったのか。それはどちらも可能な選択のはずでした。しかし今は、サムにはそのエルフの想いが分かる気がしました。強い思いは二つに引き裂かれ、どちらも選べず海にかえっていったのでした。フロドは、サムに別れ際にこう言っていました。サム、これ以上悲しんではいけない。お前はいつも二つに引き裂かれているわけにはいかないのだよ。これから先、長い長い年月を、お前は欠けることのない、ひとつのものでなければならない。そしてたくさんのものたちを愛し、楽しみ、そして良いことをするのだよ、と。サムには、フロドという救いがありました。かのエルフにはなかった、二つのものを一つにする救いが。 はっと気が付くと、サムの頬を一筋涙が伝っていました。そして一筋だけ落ちたその涙が、そのページにひとつだけしみを作りました。その雫が乾かないうちに、サムはパタンと本を閉じました。そして、しっかりと目を閉じました。これ以上、涙がこぼれないように。これ以上、悲しまないように。 それは静かな夜のお話でした。ホビット庄の上から、満天の星空が惜しみなく光を降りそそいでいました。 おわり |