Bird
ひとはみな、鳥を見ると、旅に出たくなるそうだ・・・
これはまだ、フロドが旅に出る前のお話です。
ある日、フロドはお屋敷の庭先のベンチに何をするともなく座っていました。空は青く、高く澄んでいました。空には白く輝く雲がふわりふわりと浮かんでいました。遠くから聞こえるのは子供のホビットたちの楽しそうな声、さわさわと木の葉がゆれる音、そしてサムが庭仕事をする音だけでした。フロドはこの今ある瞬間に、完全に満足していました。そしてうっとりと目を閉じて、目の裏に映った青と白のコントラストを心地良いものと感じていました。
ふと、フロドは何かの気配を感じて目を開けました。しかし、そこには何もありません。誰かが来た様子も気配もありません。さっきまでとなんら変わらないのんびりした世界と空間が広がっていました。フロドは気のせいか、と思って再び目を閉じようとして、何気なく空を見ました。すると、その高い雲の、そのまた上を一羽の鳥が大きく輪を描いて飛んでいました。さっと、その鳥の影がフロドの頬を通り過ぎました。フロドはふと、こうつぶやきました。
「いつだったけかな。どこの誰か忘れたけど、旅人が言ってた。ひとはみな、鳥を見ると旅に出たくなるんだって。」
すると、フロドの心に小さな声が聞こえたような気がしました。
―――
きみもかい?
「え?」
フロドはさっと首をめぐらせてあたりを見ましたが、何も見つかりませんでした。しかしフロドはそれを追求しようと思いませんでした。そしてそれが不思議だとも、怖いとも思いませんでした。ですからフロドはまたゆっくりとまぶたをおろしました。すると、また声が聞こえました。
―――
きみも、鳥を見ると旅に出たくなるのかい?
「いいや。」
フロドが、今度は小さく微笑んで答えました。
―――
なぜ?
「わたしはここが好きだ。このホビット庄がね。ここにはわたしの全てがある。好きなもの、好きな場所、好きな人々、そして大切なものたち。だから。」
―――
そうなんだ。きみはしあわせなんだね。
「ああ、そうだね。それに・・・」
―――
それに?
「それにね、わたしは思うんだ。鳥は、地を這うことしかできないものたちにとっては自由で幸せだと思われているのかもしれない。でも、本当に自由なのかな。そう思うんだ。もしかしたら、ずっと下に見える小さな土地にも、ずっと上に広がる大きな空にも、どちらにも完全にひとつになれなくて、とても寂しいのかもしれないってね。」
―――
きみはそう思うんだね。
「うん、だから、わたしはこのままでいいよ。今はね。」
フロドが幸せそうに微笑んで、すっと目を開きました。そこには、やっぱりかわらないままのホビット庄がありました。かれの愛してやまないものたちが。しばらく沈黙がありました。フロドはその静けささえもいとおしいと思いました。空にいた鳥は、輪から離れ、何かを決めたように飛び去ろうとしていました。
―――
きみと話せてよかったよ。ありがとう。
声がまた聞こえました。それは空から聞こえたようで、心の奥底から聞こえたようでもありました。フロドはにっこりと、また微笑みました。
「ああ、さようなら。お元気で。」
もう、声は聞こえませんでした。
「旦那?」
フロドが振り向くと、そこには土にまみれた手を額にあてて、空を見ているサムがいました。
「旦那、誰としゃべっていらしたんで?」
サムは、フロドが見ていた空を見ていたのでした。
「ああ、サムや。」
フロドの声は幸せそうでした。
「誰でもないよ。誰かでもない。自分と話していたのかもしれないし、世界と話していたのかもしれない。」
フロドの謎かけのような言葉に、サムはちょっと小首をかしげてフロドを見ました。そして、よく分からないと思いましたが、なんだか旦那らしいなと思ってふふっと笑いました。
「そうですだか。」
その笑顔を見て、フロドはまた空を見ました。サムもそれにつられて空を見上げました。
「あ、鳥が・・・」
サムはさきほどの鳥が視界の端から消えてゆくのを見ていました。
「どこへゆくんでしょうね、旦那。どこから来たんでしょうね、旦那。おらには、なんだか寂しそうで、でも嬉しそうに見えますだよ。」
それを聞いてフロドは、はっとしました。急に、この純朴なホビットへの愛が膨らむ気がしました。そして、ぱっと立ち上がり、サムの手をとりました。
「さあ、もう家に入ろう、サムや。」
サムはぱっと赤くなりましたが、それでも嬉しそうに、にこっとしました。
「はい、旦那。」
今日もかわらない日が終わってゆきました。そして明日も同じ日が続くのでしょう。移り変わる世界で唯一信じられる幸せが、ここにありました。空を飛ばなくとも、遠く旅立たなくとも。
おわり
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