19・バラド・ドゥアへ

 

ふらつく足元ばかりを見ていたフロドは、一瞬風が頬をなでたような気がしました。その思わぬやわらかさにふと顔を上げて見ると、そこには山が――終わりの地が――眼前に迫っていました。しかしフロドが風だと思ったものは、火の力で無理に巻き起こされた空気の流れでありました。硫黄の蒸気、降り注ぐ焼けた岩。後ろのサムの気配だけを頼りに、自分の心の言うままの方向へ進んできましたが、もうそれも限界でした。フロドの全ての体力や力と言われるあらゆるものはその空気に蒸散し、その中でフロドはとうとう倒れてしまったのでした。しかしフロドは前を見続けました。こんなところまで来たのに、どうして自分の足は前に行こうとしないのでしょう。こんなところにまでサムを来させてしまったのに、どうして自分の身体は言うことを聞かなくなってしまったのでしょう。山を睨み、歯を食いしばり、フロドはまだかろうじて動く手を前へと出しました。
『まだこの手は動く。ならばこの手を差し出そう。まだわたしは自分の心を持てている。ならばその心のままに。』
しかしその手も、重すぎる自分の身体を引きずるのにはとても足りない力しか持っていませんでした。足での数歩分をフロドは前に進むと、ぱったり力尽き、うつ伏せに倒れて一息つきました。なぜかその顔には微笑みが浮かび、どこか安らかなフロドの表情でした。それは旅の果てに紛い物の安息の地を見出したかのようでした。
 

フロドの後ろを歩いていたサムも、同じ頃に頬を叩く空気に触れていました。それは二人の空気を奪い、サムでさえ地べたに這いつくばらせるものでした。フロドが倒れたのを見たサムの視線もがっくりと地に落ち、サムは硫黄の蒸気にさらわれた空気を地上近くに求め、そこでしばらく呼吸を整えることにしました。ここには立ち上がった場所よりも、いくらかましな気がしました。ふとフロドを見てみたサムは、その姿に愕然としました。こんなにぼろぼろになっているのに、こんなに熱く焼け付くような場所なのに、こんなに疲労しているというのに、フロドは前へ進もうとしているのです。それを見てサムは、もうとっくの昔に尽き、どこから出てきたのか分からない涙が目の置くから沸き起こってくるのが分かりました。そしてフロドがその最後の力を振り絞りきった時に見せた微笑が、その泉を溢れさせました。
「フロドの旦那!」
かすれた咽喉から血の出るような声を出したサムは、もう空気が薄いことも何も考えずにフロドのもとへと駆けつけました。そしてぐったりしたフロドをその腕に抱き起こし、フロドが目を開けてくれることを祈り必死で語り掛けました。
「フロドの旦那、フロドの旦那?ホビット庄を覚えてらっしゃいますだか?もうすぐ春が来ますだよ。旦那の花壇にも、森にも丘にも花が咲きますだ。そりゃもう綺麗な花が。おらの好きな旦那の目の色をしたあの美しい花もですだよ。鳥は歌声を響かせて、もう外に出ようと言うのが聞こえてくるでしょうよ。ほら、夏の足音が遠くから聞こえるでしょって。初物のいちごには、おら特性のクリームをかけて食べてましただね?もちろんビルボ大旦那の直伝のあれですだ。旦那も大好きでしただよ。旦那、ねえフロドの旦那?いちごの味を覚えてらっしゃいますだか?ほら、口の中に広がるあまずっぱさですだよ?」
フロドは目を開きました。しかしその瞳は何も映してはおらず、サムの目の向こうに何か恐ろしいものを見続けているようでした。
「いいや、サム。」
フロドは音を必死で聞いていました。サムの声だとまだ分かるうちに、その音を耳に刻み付けるように。今、フロドにあるのはサムの声だけなのでした。フロドの声はサムよりもいくらかかれ、しゃべるたびに唇が切れて血がにじみました。乾いた舌はうまく動いてくれず、それでもフロドは恐怖に背中を押されて語り続けました。
「いいや、わたしには分からないよ。お前のクリームの味も、水のせせらぎも、草や木の手触りも。何もわたしには分からない。分かるのはただ、わたしが闇の中にいるということだけなのだよ。何もないんだ!何も!」
そう言って、フロドは手をサムに伸ばしました。そこに何があるのか分からないのに。さまようその手をサムはぎゅっと握り、この自分の手の感触が少しでもフロドに感じられるようにと強く強く握り締めました。
「ええ、ええ。フロドの旦那。でもおらの手はここにありますだ。分かりますだか?おらはここにいますだよ。」
「でも駄目なんだ、ああサム!お前は本当にここにいるというのかい?わたしには何も分からない!分からないんだよ!あの『目』とわたしの間にはもう何も見えない。見えなくなってしまった!わたしは裸でかれの前に横たわっているのではないかい?だってそうだろう?かれは私を見ているのに!」
「フロドの旦那ぁっ!おらはここにいます。お側に、いつも側にって言ったとおりにですだよ。行き着いてみせますだよ、滅びの亀裂に!さあ、行くんですだ!」
そう言った声は、途中から涙にかき消されそうになりました。もうフロドはぐったりと横になり、何も言いませんでした。涙で頬をぬらしながら、サムはともすれば小さく消えてしまいそうな自分の声を張り上げました。
「さあ、行きましょう、フロドの旦那!おらはその重荷を背負って差し上げられません。でもおらにもできることがあるんですだよ。それのかわりに、おらは旦那を背負って行きますだ!たとえこの心臓が破れても、たとえこの背中が折れても!」
それは何者にも負けない獣の、強い咆哮のようでした。

「最後の戦い」に続く。