6・操られた心

 

なんとかサムが岩棚によじのぼると、そこにはどこか虚ろな目をしたフロドがぺたんと座っていました。
「さあ、旦那そこへ横になってくだせえ。」
サムは、フロドが度重なる危険で、すっかり神経も身体もまいってしまったのだと思ってそう言いました。
「ほら、ここならきっと大丈夫ですだ。おらがこちら側に眠ります。」
フロドは返事をしませんでした。サムは、ほんの少しだけ心が痛みました。しかし、そんなフロドにも、きっと自分の気持ちがどこか深いところで届いていると信じ、サムはフロドに少しでも安全だと思われる場所を与えました。もちろん、サムが高いところが苦手なことが少しでも変わったのではありません。ただ、こんな危険な場所でも、少しでも休まないといけないとサムの中の何かが言うのでした。そしてフロドは無言のまま、マントに包まるように、苦しそうに横になり、不安定な眠りに落ちて行きました。
 

サムは、一生懸命目を覚まし続けようと思いました。こんな場所ですっかり寝てしまったら、知らないうちにまっさかさまという自信がありました。それに、ゴラムも気になりました。先ほどのゴラムは、確かに何かおかしい様子でした。今まで同様胡散臭いことにかわりはないのですが、あの水溜りから、どうもおかしい感じをゴラムから受け続けていました。愚かで無知なスメアゴルに、まるで誰かが悪いことを吹き込んでいるような、そんな感じがしていました。しかし、サムはいつの間にか眠ってしまい、そしてゴラムの大きな企みにも気がつかないでいたのでした。

はっと、何かの気配に触れ、サムはがばっと身体を起こしました。そこには、ゴラムがいました。先ほどまでは少し離れたところに確かにいたはずなのに、どうしてかサムの近くにいます。サムは、つかみどころのない不安にかられていました。しかし、どこにも異常はないようです。フロドは相変わらず苦しそうではありますが、すっかり眠りこけています。呼吸もしっかりしています。それに、胸元には指輪の鎖がのぞいています。どうやらまどろんでいた間には、何も悪事は働かれなかったようだと、サムは思いました。それが大いなる間違いだとも気がつかずに。もしサムがもう少し賢かったら、もしもう少しだけ観察力を発揮していたら、もしこの時気力も体力もいっぱいで正しい判断が下せていたら、この後の話の行方はもう少しだけ心温まるものになっていたかもしれません。しかし、それは今のサムにはどうしようもないことなのでした。サムは安心からか、軽口を叩きました。
「何をやってたんだ、こんなところでこそついてよ。」
「こそついて?」
ゴラムは、サムの言葉に異様に反応したように思えました。まるで、悪戯が見つかった幼いホビットのようにです。
「太ったホビットひどいこと言うよ。スメアゴル、だーれも知らない道を教えてあげてるのに、こそついてるって、こそついてる?本当にいいやつだよ、そうだよいとしいしと、ああ、とってもいいやつね!」
サムは、少しだけ心が痛みました。そんな必要などないというのに。ですから、だいぶ落ちてしまったお腹周りの肉をきゅっとベルトで締めながら言いました。
「分かった、分かっただよ。おらが悪かった。で、お前は何をしてたんだ?」
「こそついてたのよ。」
ゴラムのしてやったりの顔を見て、サムは急激に腹がたちました。そしてすぐに、そんなことをしている時間はないのだと我に返りました。
「まったく、好きに言ってればいいだよ。」
そうして、フロドをそっと揺り起こしました。
「すみませんが、フロドの旦那。どうか起きて下せえ。もうそろそろ行かねえといけませんだ。」
フロドは少しだけ顔をしかめ、サムの腕の中で目を覚ましました。
「まだ暗いよ、サムや。」
「ここはいつも真っ暗ですだよ。さあ、少しでも食べて、もう行きますだよ。」
そうしてサムは、いつものように自分の荷物を開け、レンバスを取り出そうとしました。が、そこには何も、そう。食べるものが何も入っていませんでした。サムは半狂乱になりました。どうして、どうして何もないのでしょう。あれほどきちんと管理していたというのに。これがなくて、一体どうやってここから先に進めると言うのでしょう。この旅に唯一の希望があるとすれば、食べ物の心配がエルフの力で緩和されているところだと言えたのに、これがなければどうすればいいのか分かりませんでした。
「なくなっちまった!なくなっちまった!ぜんぶ、ないだよ!!」
「どうしたんだい、サムや。何がないと言うんだい?」
フロドは、少し震える声で聞きました。今の言葉がどうか聞き間違いでありますように、今の瞬間が自分の夢でありますように、と。しかし、サムは肯定の言葉しかフロドにくれませんでした。それに、罵りの言葉しか。
「レンバスですだよ、レンバス!ああ、どうして!」
サムはそう言って、ほとんど泣いている目を自分のそばにいる醜い生き物に向けました。そして、はっと気がついて叫びました。
「こいつですだ!こいつがとっちまったんですだ!間違いねえ!」
「スメアゴルが?そんなわけないよ、かわいそうなスメアゴル、ホビットの食べ物だいきらいよ、そうよ、そんなくさいのたべられないのよ。」
「嘘つくな!おら、お前がこそついてるのを見ただよ!お前じゃなくて誰がやるだ!」
フロドはもう、何がどうなっているのか、何も考えたくないと思いました。サムは言ったはずです。帰りの分までとっておこうと。そのためなら自分の分を我慢して、そうしてホビット庄に帰ろうと。それなのにここにはそれが無いと言うのです。
「スメアゴルは食べないだろう・・・」
フロドは、自分でそう口に出して、ショックを受けました。スメアゴルでないとすると・・・
「見てよ、ほら、これ何だよ、ここについてるの」
ゴラムがサムに近づき、マントを手で払いました。するとそこからは、明らかに食べかすと思われる欠片がぱらぱらと落ちたのでした。フロドは目を見開きました。
「こいつが取ったんだよ!取ったんだよお!わしは見てたよ、こいつはいつも食べたがってた。わしは知ってるよ。」
勝ち誇ったようなゴラムの声も、フロドには真実を告げている音にしか聞こえませんでした。今までの言葉は全部嘘だったのでしょうか。サムは我慢ができなくなって食べてしまったのでしょうか。そんなはずがあるわけがありません。今までのサムをフロドはずっと見てきたのです。それでも、それ以外に考えられる可能性はあるでしょうか。いいえ、ありません。それでもフロドがサムを信じようと、精一杯心を静めようとした時でした。
「この嘘つきの汚ねえやろうが!!」
サムがゴラムに殴りかかったのでした。その目には、怒りと涙と憎しみと、それからもう考えたくも無いような憎悪の色が浮かんでいました。
「サム!」
フロドは混乱してずきずきとする頭で、サムを後ろから止めようとしました。ゴラムは何も抵抗しません。それでもサムは止まらないのです。
「ころしてやる!」
「サム!やめるんだ!」
フロドは、一瞬目の前が真っ白になりました。もう、十分でした。そんな言葉も、そんなサムも、疑いと裏切りも、何もかもに疲れました。そして、めまいを覚えてそのまま倒れるように座り込んでしまいました。
 

フロドが青白い顔をして倒れこむと、サムはやっと我に返りました。
「ああ!すまねえですだ、すまねえですだ!おら、おらそんなこと言うつもりじゃなかったんですだ。ただ、ただ腹がたっちまって、もうどうしたらいいかわかんなくなっちまって、それで・・・旦那、大丈夫ですだか?おら、酷いことを言っちまって、旦那が止めてくれてるのに、おら・・・」
「ああ、大丈夫だよ。」
フロドはやっとのことでそういいましたが、まだ頭の痛みは少しも取れていませんでした。耳の奥で音が聞こえ、目の前のサムの顔が歪んで見えました。
「大丈夫なんかじゃねえですだよ。旦那は疲れ果ててらっしゃるんです。それもこれも、全部ゴラムとこの場所のせいですだ。それから、旦那の首にかけてるやつの・・・」
はっと、フロドはサムを見ました。そして、そこに確かな何かを欲する色を見たように思いました。
「ほんの少しなら、おらも助けられると思いますだ。ほんの少しだけ、おらがそれを持ちましょう。ほんの少しだけ・・・」
サムは、本当にフロドの負担を軽くしようと思っていました。でも、本当にそれだけだったでしょうか。少しも指輪を手にしたいと思わなかったのでしょうか。サムには、その気持ちは否定できたのでしょうか。いいえ、それはできなかったでしょう。善良なる心のものでも、こんな長い間指輪の支配下にいたのです。抗う力も徐々に削り取られていたのです。その可能性に気がついて、フロドは叫びました。それと同時に、取られる!と心の中の自分が叫びました。
「来るな!」
それは、フロドがサムを拒否した初めての言葉でした。
「でも、でもおら、それをほしいなんて思ってねえですだ。旦那を、助けたいだけなんですだ。」
必死にサムは言いました。でも、フロドは少しずつ後ずさっていました。まるで、サムが恐ろしい怪物か何かであるかのように。
「ほらね、見たよ、見たよ、あいつはそれをほしがってるのよ!」
ゴラムの声に、恐ろしいサムの声が被さります。
「黙れ!どっか行っちまえ!ここから去るだ!」
フロドは、もうこれ以上そんな言葉を聞きたくありませんでした。それがサムから聞こえてくることに、これ以上耐え切れませんでした。そしてほんの少しだけ残された真実の心の声は、これ以上サムを自分につき合わせてはいけないと言いました。ですから、信じられないことに、ほんの少しの痛みだけを伴って、フロドは口にしては決してならないはずの言葉を発しました。それは、静かな静かな声でした。
「いいや、サム。それはお前だよ。これ以上、お前にここにいてもらえない。これ以上、お前はわたしを助けられないんだよ。すまないね、サム。」
 

サムは、それがどういう意味なのか一瞬分かりませんでした。頭で考えるよりも先に、涙と嗚咽が溢れました。
「でも!でもフロドの旦那!そんな、やつが嘘をついてるんですだ!おらは、あなたをお助けするためにここにいるんですだ。おらは、ここに、いつまでもあなたの側にいたいんですだ。分かってくださいますだよね。」
それでも、フロドの言葉は変わりませんでした。これ以上サムを側においていたら、サム自信を自分の手で絞め殺しそうになるでしょう。サムが指輪を狙っている怪物に見えるのでしょう。いとしいと思っていた自分の気持ちさえ疑い始め、そして取り返しのつかないことになるのでしょう。ですから、フロドは今言える、精一杯の言葉をサムに残しました。
「家へお帰り。」
その瞬間は、確かにホビットのフロドの声がしました。サムを愛し、優しく賢い主人であったフロドの美しい声と瞳でした。長らく曇っていた何かがほんの一瞬だけ剥がれ落ち、それだけの言葉を、述べました。しかし次の瞬間、すっとその青い瞳は曇り、冷たい視線となり、足は勝手にサムとは逆の方向へと歩みを進めていました。そうして、啜り上げるサムをその場に残し、フロドと成功した企みを抱えたゴラムはまた階段を登り始めました。少しの間、聞こえていたサムの声も啜り泣きも、すぐに崖を渡る風に消され、そしてフロドの耳からも離れていきました。そして、何も聞こえなくなりました。

「暗闇」に続く。