・アモン・スール

 

 アラゴルンは塔の中ほどのくぼんだ場所にホビットたちを登らせて、短剣を一人一人に渡しました。黒の騎手たちはきっと今夜やってくるでしょう。自分は見張りに立つからホビットたちはその短剣を離さず持てと言って、アラゴルンはどこかに行ってしまいました。短剣と言ってもホビットたちにはつるぎそのものです。今まではマゾムとしてしか見たことのなかったものが、今は自分たちの手にありました。メリーとピピンは興味深そうに剣を抜いてみたりしていました。サムはまだアラゴルンのことが気に食わないようです。剣を受け取ってもすぐ脇に置いてしまいました。フロドはこの短剣の意味するところが分かり、少し怖くなりました。これをアラゴルンが渡すということは、即ち自分の身が危険だと言うことです。これからはもっと危険になるとフロドの中の何かが言います。フロドは短剣をぎゅっと握りしめました。 

 サムに寝床の用意をしてもらってフロドは横になりました。石と木の根で背中が痛かったのですが、一日歩きつかれた身にはありがたい寝床となりました。そりゃ袋小路屋敷のふかふかの羽根布団とクッションのたくさんのった自分のベッドが懐かしくないわけではありませんが、サムが一生懸命なるべくやわらかい地面を見つけて枯れ草を敷いて、自分のマントまでひいてくれたので、それなりに心地よいものではありました。メリーとピピンは小声で喋っています。サムはフロドの側に座っていました。
「おやすみ、サム。」
フロドはまるでいつもお山の玄関で一日の別れを言う時のようにサムにそう言いました。
「おやすみなさいまし、フロドの旦那。」
サムも静かにそう言いました。それににっこり笑ってフロドは穏やかに目を閉じました。サムは主人の寝顔を見つめながらいろいろ考えていました。フロドの顔は月明かりの下で象牙の杯のように白くほのかに光がすけているように見えました。吸い込まれそうな深い泉のような青の目が閉じられ、その輝きがそのまま肌に映っているのだとサムは思いました。サムが今まで想像したことや、聞いたことのあるエルフの話より、ずっとずっと綺麗だとサムは思いました。サムはこの旦那がこれからの旅でどんな辛い目に遭うのだろうと思いました。そう思うと胸が締め付けられるようでした。ただフロドの顔を見ているだけで涙がこぼれそうになりました。そんな顔を誰にも見られたくなかったので、サムはメリーたちのおしゃべりに加わることにしました。
 

 フロドがふと火の気配で目を覚ましました。はっと起きて見れば3人が火を熾してなべで何か作っています。夜食はトマトにベーコン、ウインナーの焼いたのでした。フロドが目を覚ましたのを見て、サムは嬉しそうに皿にフロドの分を取ってやりました。ところがフロドの反応は全く期待していなかったものでした。
「何をやってるんだ!」
フロドの声は焦りと恐怖が入り混じっていました。
「早く火を消せ!」
フロドはそう言いながら足で火をたたき消しました。しかしそれではもう遅すぎたのです。ホビットたちはあの黒の騎手、ナズグルが5人こちらへ向かってくるのを見て取ることができました。
「逃げろ!」
フロドはそう言って自分の剣を握りました。そして見張り台の上へ上へと登っていきました。残りのホビットもあとに続きました。ようやく事の重大さがサムたちにも分かったようでした。
 

 ホビットたちは背に背を預けあって短剣を構えました。ホビットはいざと言う時驚くほどの勇気を見せるものなのです。漆黒のマントが翻り、ナズグルたちが現れました。重い金属の足音が聞こえてきます。見張りの頂上に彼らは来ると、すらっと長い剣を抜きました。ホビットたちはもはや逃げられません。すっかり取り囲まれてしまいました。このままでは4人とも月明かりに光る銀の剣で刺されてしまうでしょう。
「あっちへいくだ!この悪魔め!」
そう言ってはじめに飛び掛ったのはサムでした。この瞬間、サムはホビット庄一勇敢なホビットだったでしょう。しかしそんなサムもナズグルたちに一瞬で飛ばされてしまいました。彼らの目的はホビットたちではなかったのです。ただ、フロドを狙っていたのです。続くように飛び掛ったメリーとピピンも次々投げ飛ばされました。フロドは一人になってしまったのです。5人ともがゆっくりとフロドのほうへ歩いてきます。フロドはあまりの恐怖に短剣を取り落としてしまいました。フロドはおびえた目で後ずさりします。しかし枯れ草に足を取られて転んでしまいました。 

 サムに見えていたのはフロドが転んだところまででした。主人はまた消えてしまったのです。フロドは目の前にいる恐怖と指輪の幽鬼による誘惑に勝てませんでした。気がつくとフロドは指輪をはめていました。薄暗がりの中で青白くぼんやりと光を放っている人が見えました。偉大な人間の王たちでした。それぞれの頭には冠が頂かれています。幽鬼たちにはこの方がフロドが見えるようでした。転んだまま後ろにずりずりと下がっていったフロドに幽鬼の王は手を伸ばしました。しかしフロドの手から指輪を奪うことができません。それに激したかのように短剣を取り出したナズグルはフロドの肩をその呪われた短剣で突き刺しました。
「ああっ・・・!」
フロドが痛みに悲痛な叫び声をあげたその時でした。たいまつを持ったアラゴルンがナズグルに切りかかりました。次々と闇の中へ突き落としていきます。フロドは最後の力を振り絞って指輪をはずしました。サムにはようやく大事な主人が見えました。
「フロド!フロドの旦那ぁ!」
サムはそう言ってフロドに駆け寄りフロドを抱きかかえました。
「ああ、サム!」
フロドはそう言うのがやっとでした。そして目を瞑ってサムの腕の中で苦しそうに荒い息を繰り返すばかりでした。サムはもう半泣きでした。
「助けてくだせえ!旦那を助けてくだせえ!」
 

 アラゴルンは最後の1人を下に突き落としたのを確認してフロドとホビットたちに駆け寄りました。メリーとピピンも心配そうにフロドを覗き込んでいます。アラゴルンはナズグルが落としていったフロドを刺した短剣を持ちましたが、見る間に灰になって消えてしまいました。これはもう、アラゴルンの手におえるものではありません。アラゴルンはフロドを肩に担ぎました。フロドはうめき声をあげます。一刻も早くエルロンドに看病してもらわねば、フロドを幽鬼たちと同じところへ行かせる傷でした。
「でも裂け谷まではどんなにあんたが急いでも
6日はかかりますだ!旦那はそんなに耐えられますだか?無茶ですだ!」
サムは担がれたフロドを見ながらそう言いました。しかし無理でもなんでもそうしなければいけません。
「ガンダルフ!ガンダルフ!」
フロドは痛みに朦朧とする頭でガンダルフの名を呼びました。その叫びは届いたのでしょうか。それを知る者は誰もいませんでした。
 

 真夜中でしたが一行は歩き続けました。ビルボのお話に出てくる3人のトロルの石像の辺りでフロドが殊更辛そうに喘ぎました。もう口をきくこともできませんでした。アラゴルンはフロドを草の上に降ろしました。サムが駆け寄ってフロドの手を取ります。サムはフロドの汗で顔にへばりついた髪をのけてやろうと、フロドの額と頬をそっとなでました。するとどうでしょう。フロドの体は水のように冷たいのです。いつもに増して顔は青白く、紫がかって見えます。サムがこうして触れている間にもフロドはどんどん冷たくなっていきます。
「フロドの旦那?旦那!・・・旦那が冷たくなってくだ!」
サムが震える声でそう言いました。
「彼は死ぬの?」
ピピンがそう言います。死なせてなるものか、そういう思いはここにいた誰もが持っていました。しかしホビットたちに何ができるでしょう。このままフロドが死ぬのを見ていることしかできないのでしょうか。このままではフロドは薄暗がりの影に取り込まれて死ぬよりもっと辛い目に遭います。不意にアラゴルンがサムを呼びました。
「サム、アセラス草が分かるかね?王の葉だ。」
「王の葉は野に生えてる薬草ですだ。」
「それが彼を救う唯一の方法かもしれない。」
それを聞いた瞬間、サムは暗い森の中へアセラスを探しに走っていきました。
 

 薬草を取って帰ったサムは輝く光が彼女から射していると分かりました。アルウェン、エルロンドの娘のエルフでした。フロドはその光のまぶしさに目を見開きました。
「フロド、フロド、光の下へ。」
アラゴルンとアルウェンがエルフ語で何か喋っています。サムはビルボやフロドからいくつもエルフの話を聞き、エルフの言葉を聴いてきたのでその事が分かりました。アラゴルンがフロドの肩の傷に王の葉を噛み砕いて塗りこめました。フロドが呻き声をあげます。フロドの顔はますます青ざめ、息をするたびにひゅうひゅうとのどが音を立てます。サムはフロドの頭を自分の膝に乗せながら少しでも楽になってくれたらよいのにと泣きそうになりながら汗を拭いてやりました。エルフと人間が何を言っているのかまではサムには分かりませんでしたが、その人がエルロンドの元へフロドを連れて行くことは分かったように思いました。
「気をつけて。」
アラゴルンはフロドを抱えて馬に乗ったアルウェンにそう言いました。サムはそれまでエルフの美しさにぼおっとしていましたが、馬が走り出す時にフロドがあげた苦しそうな喘ぎ声にはっと我に返りました。
「あんた、何やってるだ!旦那がやつらにみつかっちまう!」
サムはアラゴルンに詰め寄りましたがアラゴルンはただ
「我々も行かねば。」
と言っただけでした。
 

 フロドがどうなっているかも分からない旅路はサムには拷問に近いものがありました。誰も話したり声を上げたりするものはいません。ただときおりピピンのため息が聞こえるだけでした。サムにはどうしてもあのエルフが無事にフロドを助けてくれるとは考えにくいことでした。主人を助ける力が自分にはなかったのです。それだけがただ悔やまれてなりませんでした。あれ以来こちらには黒の騎手たちは一向に現れる気配もありません。そのことがかえってサムを不安にさせました。
「おらたちのところへ来ないっちゅうことは、旦那の方へ行っちまったっちゅうことだ。馳夫さんは影だけ倒してもまだあいつらはいるって言われただ。つまりまだ旦那は危ないっちゅうことだ。それより裂け谷まで旦那の体がもちなさるかその方が大事だ。旦那の傷はおらが見る限り深くねえ。なんで旦那があんなに苦しがりなさるかおらには分からねえ。傷を薬草でふさいでも、旦那はどんどん冷たくなられちまった。おらが触ってる間にもよ。お前の頭では考えもつかないもんで旦那は苦しんでなさるのさ、サムワイズ・ギャムジー。ぐだぐだ考えずにさっさと歩くだ。」
サムはそんな事をずっと考えていました。彼らは夜も歩き続けてとうとう裂け谷へ、エルロンドの住まうエルフの館に到着しました。

「裂け谷」へ続く。